鬼鹿毛清七

鬼鹿毛 清七(おにかげ せいしち、1855年(安政2年5月)- 1931年1月15日)は、阿波国名東郡徳島寺町出身の大相撲力士。本名は末長 清七。年寄7代中川

略歴[編集]

兄は大坂相撲で立浪と名乗る力士であり、本人も草相撲で小立浪と名乗り活躍していた。素人相撲の壽組合に入り鬼鹿毛と名乗っていた。この四股名は贔屓が化粧回しを贈ろうとしたとき、質屋に鬼鹿毛という力士の質流れの化粧回しがあり、名前を直そうとしたが無駄になるので四股名を変えたとのことである。その後大坂相撲の竹縄部屋に入り、1881年7月見習格番付外で出場。1882年9月三段目に出て鬼鹿毛清介。その後京都相撲に移り、華ノ峰善吉の弟子となる。1885年には東京相撲の梅ヶ谷の門下に入り、1885年5月幕下十枚目格番付外となる。1890年5月入幕。165cm、99kgの小兵だが首投げ、合掌捻りを得意とし、律儀な性格だった。1896年1月前頭6枚目まで昇進するも、1900年1月十両、1900年5月幕下に陥落し、1902年5月場所前に47歳で引退し、年寄中川となる。

中川部屋を経営し、小部屋だったが鳴門洋改め鬼鹿毛綾鬼を幕内まで育てた。1930年10月限り高齢のため弟子を武蔵川(鴨緑江)に預け、1931年1月15日、肺炎のため75歳で死去した。

出典[編集]

  • 「年寄名跡の代々 中川代々の巻」 月刊相撲 ベースボールマガジン社