1955年の東映フライヤーズでは、1955年の東映フライヤーズの動向をまとめる。
この年の東映フライヤーズは、保井浩一が1年だけ監督を務めたシーズンである。
チームは本拠地を1953年に当時の親会社・東急電鉄が建設した駒澤野球場へ移転し、1954年には球団経営が東急子会社の東映に委託された。前年7位からの脱却を図るチームだが、この年も開幕から負けが込み4月は首位の南海に10ゲームも離される最悪の形でスタート。5月には一時最下位に転落するなど、6月まではトンボ(この年トンボ鉛筆がスポンサーとなっていた)や大映との最下位争いが続いた。夏場以降はトンボとのゲーム差を広げて辛うじて最下位を免れたものの、東急時代からのチーム低迷はこの年も続き最終的に優勝の南海に39ゲーム、4位の阪急に29ゲームも引き離される惨敗で全日程を終了。シーズン終了後、保井監督は1年で辞任しプロ野球草創期からの強打者・岩本義行が選手兼任で監督に就任。岩本監督は後に多くの名選手を育て、1959年のAクラス入り、そして1962年の東映初優勝の土台を作ることになる。
チーム成績[編集]
レギュラーシーズン[編集]
1955年パシフィック・リーグ順位変動 順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 |
1位 | 南海 | -- | 西鉄 | -- | 南海 | -- | 西鉄 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- | 南海 | -- |
2位 | 西鉄 | 0.5 | 南海 | 1.5 | 西鉄 | 2.0 | 南海 | 0.0 | 西鉄 | 2.5 | 西鉄 | 4.5 | 西鉄 | 9.0 |
3位 | 毎日 | 1.5 | 毎日 | 4.5 | 毎日 | 4.5 | 毎日 | 9.0 | 毎日 | 10.0 | 毎日 | 11.5 | 毎日 | 14.0 |
4位 | 阪急 | 7.5 | 阪急 | 10.0 | 近鉄 | 14.0 | 阪急 | 11.0 | 阪急 | 13.5 | 阪急 | 18.0 | 阪急 | 19.0 |
5位 | 近鉄 | 9.5 | 近鉄 | 10.5 | 阪急 | 14.5 | 近鉄 | 19.0 | 近鉄 | 26.5 | 近鉄 | 28.0 | 近鉄 | 39.0 |
6位 | 東映 | 10.5 | 大映 | 16.5 | 東映 | 23.0 | 大映 | 29.0 | 大映 | 34.0 | 大映 | 41.5 | 大映 | 46.0 |
7位 | トンボ | 12.0 | トンボ | 17.5 | 大映 | 23.5 | 東映 | 29.5 | 東映 | 37.0 | 東映 | 44.0 | 東映 | 48.0 |
8位 | 大映 | 14.5 | 東映 | 18.0 | トンボ | 26.5 | トンボ | 34.5 | トンボ | 44.5 | トンボ | 51.5 | トンボ | 57.0 |
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オールスターゲーム1955[編集]
できごと[編集]
選手・スタッフ[編集]
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表彰選手[編集]
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1940年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1946年の公式戦再開に先立って、1945年は終戦後開催の東西対抗戦にセネタースの選手が参加。 |