1961年の中日ドラゴンズ

1961年の中日ドラゴンズ
成績
セントラル・リーグ2位
72勝56敗2分 勝率.563[1]
本拠地
都市 愛知県名古屋市
球場 中日スタヂアム
球団組織
オーナー 与良ヱ
経営母体 中日新聞社
監督 濃人渉
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1961年の中日ドラゴンズでは、1961年の中日ドラゴンズにおける動向をまとめる。

この年の中日ドラゴンズは、濃人渉監督の1年目のシーズンである。

概要[編集]

1952年から9年にわたりオーナーを務めた小山龍三が退任し、中日新聞社長に復帰した与良ヱが新オーナーとなった。

2リーグ分裂後初のBクラス転落の責任を取って杉下茂前監督が辞任すると、前年に二軍監督として中日入りした濃人渉がこの年から就任。ユニフォームは杉下監督時代のエビ茶色が継承された。濃人新監督は江藤慎一前田益穂など若手選手の刺激になるべく、巨人与那嶺要阪急から河野旭輝を自由契約や交換トレードで獲得。投手陣では権藤博南海を自由契約の柿本実が入団し、河村保彦板東英二らと強力ローテーションを形成し、権藤が35勝、開幕投手の板東が12勝、河村が13勝をあげてチーム勝ち星の大半を稼いだ。打撃陣は濃人の社会人時代の教え子である江藤慎一がチームトップの20本塁打を放ち、森徹中利夫もそれなりの成績を残したが、前年初打席初本塁打を放ち、2年目の飛躍が期待された高木守道が打率2割台前半に終わり、巨人から移籍の与那嶺も往年の打撃には程遠く打率1割台になるなど明暗が分かれた。チームは開幕から巨人や国鉄と終始Aクラスを争い、9月に国鉄が脱落すると巨人とのマッチレースとなったが最後は引き分けの差に泣き、2位に終わった。チームは2位に滑り込んで順調にいくかと思われたが、シーズン途中で主力選手が濃人派と反濃人派に割れ、最終的に親会社の中日新聞社(及び兄弟会社の東海テレビ放送中部日本放送)や中日系以外のマスコミ、一般野球ファンまで巻き込んだ大騒動に発展する。

チーム成績[編集]

レギュラーシーズン[編集]

開幕オーダー
1 中利夫
2 井上登
3 与那嶺要
4 森徹
5 江藤慎一
6 河野旭輝
7 前田益穂
8 吉沢岳男
9 板東英二
1961年セントラル・リーグ順位変動
順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 9月終了時 最終成績
1位 中日 --- 中日 --- 国鉄 --- 巨人 --- 中日 --- 巨人 --- 巨人 ---
2位 国鉄 国鉄 0.0 巨人 1.5 国鉄 4.5 巨人 1.0 中日 3.5 中日 1.0
3位 巨人 2.0 巨人 0.5 中日 2.5 中日 5.5 国鉄 2.5 国鉄 6.5 国鉄 5.5
4位 広島 2.5 広島 6.5 広島 10.0 広島 15.5 広島 14.0 阪神 16.5 阪神 12.5
5位 阪神 4.5 大洋 8.5 阪神 12.0 大洋 18.0 阪神 15.0 広島 16.5 広島 13.5
6位 大洋 6.0 阪神 8.5 大洋 13.0 阪神 19.5 大洋 18.5 大洋 23.0 大洋 21.5
1961年セントラル・リーグ最終成績
順位 球団 勝率
1位 読売ジャイアンツ 71 53 6 .573 優勝
2位 中日ドラゴンズ 72 56 2 .563 1.0
3位 国鉄スワローズ 67 60 3 .528 5.5
4位 阪神タイガース 60 67 3 .472 12.5
5位 広島カープ 58 67 5 .464 13.5
6位 大洋ホエールズ 50 75 5 .400 21.5

[1]

オールスターゲーム1961[編集]

コーチ 濃人貴実
ファン投票 森徹
監督推薦 西尾慈高 権藤博 江藤慎一

できごと[編集]

選手・スタッフ[編集]

[2][3]

表彰選手[編集]

リーグ・リーダー
選手名 タイトル 成績 回数
権藤博 新人王
最優秀防御率 1.70 初受賞
最多勝利 35勝 初受賞
最多奪三振 310個 初受賞
沢村賞 初受賞
ベストナイン
選手名 ポジション 回数
権藤博 投手 初受賞
河野旭輝 遊撃手 初受賞
江藤慎一 外野手 初受賞

出典[編集]

  1. ^ a b 年度別成績 1961年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2017年8月2日閲覧。
  2. ^ ベースボールマガジン2002夏季号, ベースボールマガジン社, (2002), p. 108 
  3. ^ 『日本プロ野球80年史 1934-2014』 【記録編】、ベースボール・マガジン社、2014年12月24日。ISBN 978-4-583-10668-7