なだしお事件

なだしお事件(なだしおじけん)は、1988年昭和63年)7月23日海上自衛隊潜水艦と遊漁船が衝突し、遊漁船が沈没した海難事故である。海難審判での事件名は潜水艦なだしお遊漁船第一富士丸衝突事件

概要[編集]

1988年(昭和63年)7月23日、横須賀港北防波堤灯台東約3km沖において、訓練を終えて基地へ帰投途中であった海上自衛隊第2潜水隊群第2潜水隊所属のゆうしお型潜水艦なだしお」(排水量2250トン、乗員74名)と新島に向かう遊漁船「第一富士丸」(154総トン、全長28.5m、定員44名)が衝突し、「第一富士丸」が沈没。「第一富士丸」の乗客39・乗員9(定員超過)のうち30名が死亡し、17名が重軽傷を負った。死者のうち、28名は沈没した船体の中から、1名は現場付近の海中から遺体で発見された。残りの1名は救助後、病院で死亡。

事故発生時の救助・通報の遅れに対する批判や自衛隊艦船らの平素からの海上交通ルールを無視した危険・横暴な運航姿勢、海上自衛隊側が艦長を直ちに海上保安庁の調査に応じさせないことで口裏合わせをしていたのではないかとの疑惑[1]、艦長らが衝突時の航海日誌(自衛隊艦船では航泊日誌)を事件後に書直させていたことが発覚したこと、「なだしお」の軍事機密とされる旋回性能の検証開示を行わせたこと、タカ派・保守派を自認していた一部評論家らが軍艦優先が国際常識との自衛隊擁護論を展開したもののその虚偽がじきに明らかになったことでも話題となった。この事件によって当時防衛庁長官であった瓦力(自民党政治家:当時宮沢派)が引責辞任した。

1992年(平成4年)に、横浜地裁がなだしおに事故の主因があるが第一富士丸の過失も圧倒的に小さいと言えるものではないとして、なだしお・第一富士丸双方の責任者に有罪判決を下し、確定している。

経緯[編集]

事故発生[編集]

「なだしお」は、7月23日午前7時に在日米軍横須賀海軍施設を出港。伊豆大島北東沖での自衛艦隊展示訓練を終え、午後00時33分頃に海上自衛隊横須賀基地へ帰投を開始した。(展示訓練とは、日ごろ自衛官募集に協力してくれる民間人を招待して行う訓練で、このときは護衛艦2隻、潜水艦2隻、航空機12機が参加し、それら民間人、防大生、防衛庁職員3千人が護衛艦に乗組む形で行われていた[2]。)午後2時30分頃に当直員の交代が行われ、艦長Xも艦橋に昇橋していた。「なだしお」の乗組員は艦長Xを含め73名、これに第2潜水隊司令Tを加えた計74名が乗艦していた。本来、海上交通のルールでは、自衛艦も民間船も同等であるが、もともと軍港のあった横須賀の事故現場あたりでは、自衛隊艦船が民間船は譲るのが当然といわんばかりの危険・横暴な航行をしていたと言われていた[3]

「第一富士丸」は午後2時15分に横浜港鈴繁埠頭を出発し、新島へ向かっていた。船長Yは長らく海外で船長を務め、暫く前に日本に戻って来て仕事を再開、当時雇われていた富士商事有限会社には5月に雇用され試験乗船し6月から本格的に乗務を始めていたばかりであった為、同地で自衛艦が民間船は譲るのが当然とばかりの航行を押通すことが罷り通っている現状を知らなかったのではないかとみられている[3]。同船の所属していた富士商事有限会社は赤字経営で従業員への給料遅配が続いており、船長Yは1か月前に船長に就任したが、遅配の給料を受け取るために会社に行ったところ、突然、予定になかったこの乗務を依頼され、この航海を最後に同船を降りる意向で操船していた。

  • 午後3時35分 - 「なだしお」が右前方に「第一富士丸」を確認
  • 午後3時36分 - 「なだしお」が左前方にヨットAを確認し、機関停止
  • 午後3時37分 - 「なだしお」が衝突回避のため右転を行うが、間に合わず
    • 同時刻 - 「第一富士丸」は、「なだしお」の発した汽笛信号「短一声 <本船右に回頭しつつある>」を解せず、もしくは気づかず進路変更・減速せず←ただし、この「なだしお」が汽笛信号の発したということは後の地裁判決でも認定はされているものの、専らなだしお側の鳴らしたとする主張によるもので、疑念が残る。詳しくは残されたままの問題を参照。
  • 衝突直前 - 「第一富士丸」が左転
  • 午後3時38分 - 「なだしお」と「第一富士丸」が衝突
  • 衝突後すぐ - 溺者救助の発令
  • 午後3時40分 - 「第一富士丸」が沈没
  • 午後3時40分頃 -「なだしお」は付近にいた護衛艦「ちとせ」や潜水艦「せとしお」へ救助要請。ただし、遭難信号は出さず
  • 午後3時50分 - 横須賀の自衛艦隊司令部から、防衛庁の海上幕僚監部オペレーションルームに電話で事故の第一報
  • 午後3時59分 - 海自潜水艦隊司令部から、横須賀海上保安部へ救難要請
  • 午後4時21分 - 海上保安庁警備救難部の運用司令室に事故の第一報

「なだしお」はスクリューを後進したため数百メートル後退したが、十数分後に現場へ戻ると、「第一富士丸」の右側に近づきゴムボートや命綱を用いて救助活動を行い3名を救助した。「第一富士丸」は左に転覆していたため、左側の方により多くの遭難者がおり、他はヨットAが3名、民間タンカーBが13名、護衛艦「ちとせ」が1名を救助した。

午後4時頃、富士商事の社長穴沢薫らが現場へ急行した。午後4時30分頃、目黒区の宿舎にいた海上幕僚長東山収一郎に第一報が届く。事故発生当日石川県に滞在していた防衛庁長官瓦力について、自衛隊機はなく民間機を待ったため帰京が遅れ、海上および航空自衛隊の連携が取れないことも表面化した。事故の後、瓦は8月24日に辞任している。

午後6時40分、防衛庁にて事故後初の公式記者会見が開かれ、この時点までに17名が救出されたと発表した。翌24日午前0時50分、海上保安庁警備救難監辺見正和が乗員乗客48名中19名を救出、うち1名が死亡と発表した。

7月27日、第一富士丸が引き揚げられてあらたに20遺体が発見され、この時点で死者29名、行方不明者1名となる[4]

事故の対応をめぐって[編集]

事故は、「なだしお」自身の遭難者に対する消極的にも見えた救助活動ぶり、とくに遭難者や他の民間船救助者らから「潜水艦乗員は甲板に立ったまま見殺しにした」などの「証言」が相次いだことで、世間の大きな注目を集め、その点に批判が集中した。全く何もしなかったというわけではないが、結果的に「なだしお」自身は3名しか救助できず、この点も「証言」を裏付けるように受け取られた(しかし、これには事故現場の混乱や潜水艦の特性が知られていないことから来る誤解もあったのではないかと言われている。一方で、乗組員が少なく、やはり構造的にも適しているとも思えないタンカーが13名も救助している。)。また、事故後「第一富士丸」の船長が海上保安庁の調査に可能となり次第すぐに応じたのに対し、海上自衛隊側はなだしおに対する調査を長時間拒み続け、その間、証拠関連資料の持出・消失、改竄、さらには口裏合わせが行われたのではないかと疑われる数々の事態を引き起こしている(後述「マスコミ報道をめぐって」参照)。

さらに、「なだしお」は事故直後に本来出すべき遭難信号を出しておらず、潜水艦の特性上もし自艦による救助が困難なのであれば、出すべき遭難信号を出さなかったことによって、多数の他の船が代わりに救助に駆けつけられる可能性を失わせたのではないかという点も問題となった[5]。他に、横須賀海上保安部への連絡が遅れたこと[6]、海上自衛隊としての防衛庁長官や首相への報告が遅くなった可能性があること[7]、横須賀市への報告が後日になったこと[8]等が問題となっている。

7月26日には潜水艦隊司令官久保彰が横須賀地方総監部に待機する行方不明者家族に謝罪し、翌7月27日には海幕長東山が総監部の遺体安置所にて遺族らに謝罪した。東山は24日に「潜水艦は無過失」と発言して世論の反発を買っており、同月27日に自身の発言を艦からの報告に基づくだけのものだったとして釈明した[9]。なお、富士商事側の公表したところによれば、行方不明者捜索がまだ続く中、自衛隊側は「第一富士丸」の引揚費用を過失割合で負担すること、犠牲者の合同慰霊祭の費用を折半することを富士商事に求めてきたという[10]

なだしおの乗組員のうち、艦長Xら幹部15名を除く乗組員59名について8月2日夜に上陸が許可された。艦長Xは更迭され、8月17日から事故犠牲者遺族のもとを訪問し謝罪した。1989年平成元年)7月28日、防衛庁は東山・Xら海上自衛隊幹部15名への行政処分を発表した[11]

事故調査[編集]

7月25日、横浜地方海難審判理事所はこの事故を重大海難事件に指定し、調査本部を設置した。

横浜地方海難審判理事所の調査が終了せず、検察官の今後の調査も予定されている中、海上自衛隊側が補修のためと称して、勝手になだしおの検分に来て写真などを撮っていき、その行動が隠蔽工作のための関係者証言の口裏合わせのためではないかと、疑惑を招いた[12]

8月上旬までに、「なだしお」の旋回圏(=設計上:半径160m)が明らかにされ[13]8月13日に洋上検証が行われ、転回圏・制動距離に関するデータを取った。これは防衛庁から任意提出された数値とほぼ同値であった。また8月27日川崎重工神戸第4ドックで行われた実地検証によって、なだしお側だけでなく、第一富士丸側の過失の存在も明らかになった[14]

9月29日、横須賀海上保安部が「なだしお」の前艦長Xと「第一富士丸」の船長Yを、業務上過失往来妨害と業務上過失致死傷の疑いで横浜地検に書類送検した。

海難審判[編集]

海難審判庁は、両者について海難審判を開始した。

1989年平成元年)7月25日、横浜地方海難審判庁は裁決において「なだしお」側に主因があったとし、海上自衛隊の安全航行の指導が不十分であったことも原因とし、安全航行を徹底するよう勧告を出した。また、「第一富士丸」側にも一因があったとし、同船の所有者の運航管理が不十分であったことも原因とした。[15]「第一富士丸」が受審人(=被告に相当)で、本件発生の原因である海自・元艦長Xらは自衛官で海技士の資格で運航しているものでなく海難審判法の対象とならず、海難審判では指定海難関係人(いわば証人に相当する)となり、海難審判としては懲戒の対象とならず、勧告の対象となるにとどまる。ために、二審請求権はないが、海難審判理事所理事官側(=検察側に相当)が元艦長Xに対して何ら勧告が無かったことで、裁決を不服として同年8月1日に二審を請求した。

1990年(平成2年)8月10日、高等海難審判庁は裁決において、この場合の海上ルールは海上衝突予防法ではなく「船員の常務」(シーマンシップ:ここでは「緊急の場合における船員としての長年の知識・経験・常識による判断」の意味になる)によるべきものとした上で、「なだしお」の回避の遅れと「第一富士丸」の接近してからの左転、双方それぞれに過失があったとして並べて判示した[16][注釈 1]。Y元船長の三級海技士(航海)の業務は1箇月停止とされた(X元艦長は資格更新せず既に資格を失っていたことから、結局その業務資格の処分については判示されなかった。)。また、この事件が多くの被害を出したのは短時間での沈没であったことと、そのため船内にいた人が脱出の機会を失ったこと、また救命胴衣の着用がなく脱出した者も力つきて溺れたことなどが挙げられている。[17]

Y元船長への処分は重いといえるものでなく、船長個人にとっての実際上の意味はあまり無かったとも考えられるが、Y元船長は、この裁決は誤っており業務停止は処分権の濫用であるとして、審判裁決の取消を求めて高等海難審判庁を被告に行政裁判を起こした(ただし、この問題はY元船長の名誉だけでなく、当事者以外の者にとっても、今後同種の場合に、まず第一に海上衝突予防法の原則に従うことから始めてはいけないのかという深刻な問題を惹き起こす[注釈 2])。すでに刑事裁判(後述)の判決が出ていた中、1994年(平成6年)2月28日に東京高等裁判所は、船長の主張通り海上衝突予防法のルールに基づいて第一原因は「なだしお」にあり、審判庁の主張は認められないとしながらも、Y元船長にも事前に警告信号を出さなかった、「なだしお」の動きを注視しておらず事故防止の協力義務違反がある、「なだしお」の右転行動に気づかず判断を誤った等の過失があるとして、1箇月の業務停止はその処分として相当であるとして、Y元船長の訴えを退けた[18]。このことについてY元船長は「100%の勝訴」と発言するとともに、犠牲者に謝罪の意を示した[19]

刑事裁判[編集]

刑事事件として、1990年(平成2年)8月21日、横浜地検が元艦長Xと元船長Yを在宅起訴した。海難審判1審に近く、「なだしお」側に主因があるとした。また、これに先立ち、横浜地検は「第一富士丸」側の船員手帳の船員法違反(保管義務違反)や船舶安全法違反(定員超過など)について、事故との直接の因果関係がないため、この件についてYを起訴猶予処分とした。

1990年(平成2年)9月12日には、海上自衛隊の調査報告書が公表された。内容は高等海難審判庁の裁決を追認しており、なだしお主因説に反論するかたちとなっている[20]。裁判において、X側はヨットAの存在を理由に「二船間での航法規定である横切り船航法は適用できない」とし、海上衝突予防法39条の「船員の常務」(シーマンシップ)(en)を適用し、回避義務はないと主張した。

1992年(平成4年)12月10日横浜地方裁判所杉山忠雄裁判長)の判決では、高等海難審判庁のいう「船員の常務」ではなく地方海難審判庁の採った定常航法における「横切り船航法」が採られるべきものとして、避航船である「なだしお」側に主因があると認定した。「なだしお」側の回避行動の遅れ、および、保持船格の第一富士丸側の回避行動の遅れを認め、なだしお元艦長Xに禁錮2年6か月執行猶予4年、第一富士丸元船長Yに禁錮1年6か月執行猶予4年の判決を下した[21]

控訴期限の12月24日、検察・X・Yともに控訴しない方針を固めたため、判決は確定した。これに伴い、自衛隊法第32条[注釈 3]1項2号[注釈 4]及び2項[注釈 5]に基づきXは失職した。

マスコミ報道をめぐって[編集]

救助された女性(「第一富士丸」のアルバイト乗員)が事故直後の記者会見にて「どうして助けてくれないのと叫んでも、なだしおの乗組員は見ているだけだった」等と激しく非難したことが[22]大きく取り上げられ、たまたま近くにいて救助活動にあたった民間船の船長も同じものと思われる場面を目撃していたことが報道された[23]。また、同じ展示訓練に参加した護衛艦「ちとせ」に乗艦していたフリーカメラマン男性の証言として「なだしお」の甲板に救命ボートが2隻出されながら一向に海に出されないことや他にも潜水艦(「せとしお」と思われる)がいたがその艦は救命ボートすら甲板に出していなかったこと、さらに、他の者の証言として最終的に救命ボートの1隻は海に出されたものの1隻はそのままであったこと等が報道された。自衛隊側は「なだしお」の救命ボートの1隻は器具の不調で圧縮空気の送込が機械で出来ず手動で行ったことを説明、結局完了したときには不要となった、つまり、その時点では艦の周囲で救けを求める者は少なく影響はなかったとの主張を行った[24]。また、救命ボートはモーターが付いているわけでなく、手漕ぎであったという。

また、「第一富士丸」の船長が海上保安庁の調査に救助後病院で手当てを受けた後すぐに応じたのに対し、海上自衛隊側は当初は艦長は現場で救助活動にあたっているとして、さらにその後も海上保安庁による「なだしお」の艦長の調査を拒み、7時間にわたって海上保安庁による「なだしお」の艦長の調査に応じなかったという。これは、その間に証拠隠滅・関係者の口裏合わせ等の様々な偽装工作を図ったのではないかとの疑念をもたれ、マスコミから批判を受けた[25]。(後述「航泊日誌の「改竄」」を参照)

結局、海上保安庁は、当日深夜0時頃(11時過ぎとも)「なだしお」艦内で艦長への事情聴取を実施、さらに翌日、自衛隊側に海上保安庁関係者が出向いて、艦長と自衛隊側関係者3名の聴取を実施した。これは異例のことといわれ、とくに後者については批判が強く、マスコミ等では保安庁が実質的に自衛隊に遠慮したのではないかとの報道もあった。保安庁側は当然これを否定、当日は現場で救助活動にあたっていたからだとし、翌日の横須賀海上自衛隊での調査は現場に近く便利だったから、果ては保安庁の取調室は2室しかなく窮屈だったからなどとの説明を行った。[26]

こうした事態について海上自衛隊側に非難が殺到し、とくに「なだしお」が溺者を「見殺しにした」のは船員法における救助義務違反ではないかという論調もあった。後に海上保安庁長官は、女性乗員の発言は事故直後の興奮による誤解であったと表明している[27]。ただし、一部マスコミには女性乗員の発言が後に曖昧になっていったとする報道もあるものの、他の目撃者から当初の女性発言を否定するような証言は出ていない[28]

また、マスコミ等で潜水艦の性質上、すぐに海中に飛び込むとスクリューによる二次被害の可能性があるとの主張も「なだしお」擁護論者からは見られた(スクリュー位置が浅いため?)。ただし、目撃者証言では、潜水艦が完全に停止していると思われる状態においても手を拱いて見ていたようにも思える。なお、「なだしお」は最終的に救命ボートを1隻海上に出しているものの、そもそも「なだしお」のような大型の涙滴型潜水艦から救助に乗組員が海面に出るのは極めて困難だとの主張もある。この当時そもそも潜水艦では海上事故を想定しておらず、それに合わせた訓練も適切な救助用の装備も十分になかったといわれ、実際には救命ロープを身に結んで海上救助に向かった乗組員も1名いたものの、いずれにせよ非常に困難なことで要求するのは酷との意見もある。異変に気付いた民間船が多数の遭難者を助けたのに対し、「なだしお」が3名しか救えなかったことが非難されたが、海上自衛隊自身は、衝突の後通り過ぎ、遭難者を傷付けないよう低速で戻りながら、発見された人間を都度救助しながら十数分かかって戻ったため、少なかったものと説明している[29]。その後、10月11日に参議院内閣委員会で板垣正自民党議員が取上げ、自衛隊員に救助義務違反がなかったことを改めて山田隆英海上保安庁長官に確認した[30][31]

一方、潜水艦側の非が明らかとされつつある7月29日には、事故対策本部長となった橋本龍太郎幹事長代理(自民党)は党内の自衛隊を擁護する言動について批判している[32]。事件後、タカ派・保守派を自認していた一部評論家らが「そもそも海上交通において軍艦が優先されるのが国際の常識である」との自衛隊擁護論を保守系マスコミを中心に展開、「第一富士丸」船長バッシング・富士商事バッシングとも言えるような現象も生じている。間もなく国際法学者から通常の海面や民間港湾においては海上交通のルールでは軍艦といえども平時は民間船と同等に扱われるとの指摘が出て、この動きはかなり沈静化した。その他に、自衛艦乗組員が救助活動を直ちに取らなかったとしても、上官の命令で動く自衛官としては当然のことだと主張する擁護論も見られた。

なお、朝日新聞が横須賀の米海軍に質問状を出したところ、事故について海上自衛隊から連絡を受けて数分後には知ったとの回答を文書で寄せたが、防衛庁長官や首相が当日たまたま移動中で山中にいたため通信事情が悪くて知ったのは遅くなっているとの報道がなされる中、米海軍側は先の回答は誤りで知ったのはテレビニュースによると訂正してきたという[7]

航泊日誌の「改竄」[編集]

ここでは主に事実関係を追う。この改竄の本質にかかわる問題点については、後述の残されたままの問題を参照。

1989年平成元年)11月15日、自衛隊の内部文書や地検の追及を受けたなだしお乗組員の証言からX元艦長らが航泊日誌を書直させ、その中で衝突時刻について2分遅らせ「午後3時40分」としていたこと、かつ原紙を処分していたことが発覚した[33]。海自側は一貫して衝突時刻について「午後3時40分」説を主張したが、後の刑事裁判では海自関係者のこの主張は信頼性が無いとして否定されている。また、書加えも行われていたことも発覚している。

この問題は11月16日の参議院内閣委員会で取り上げられ、日本社会党山口哲夫らは、X元艦長および航泊日誌に関与した乗員2名の証人喚問を要求した。

この事態を受けて供述を見直す必要があるとの世論の意見が高まる中、海難審判の二審において、関係者の証人尋問の中で、航泊日誌に合わせて、事故の後日にレーダー記録・海図が書換えられていたことが明らかになっていった。艦長は海図の書換えについては部下が勝手にやったことと主張していたが[34]、部下からは航泊日誌の書換えを命じられた、幹部が原本廃却を行ったようだとの証言も現れるに至った[35]。さらには、事故当時、なだしおには第二潜水隊指令が同乗しており、彼の指示で当日の「速力通信受信簿」5枚が司令部に持ち出され、その内の4枚がそのまま紛失したことも明らかになった[36]。まさにマスコミが口裏合わせを行っていたのではないかと批判する事故当日の海上保安庁の調査に応じなかった時間の中で、「なだしお」に同乗していた第二潜水隊指令の指示で当日の「速力通信受信簿」5枚が司令部に持ち出され、その内の4枚が海上保安庁による調査の時点では既に無くなっていたのであり、それを事故当時の副長が証言している[36]。X艦長による航泊日誌の書換えは、この第二潜水隊指令による持出しの後に起こっている。また、後の刑事裁判においては、「なだしお」乗組員は衝突時刻を一致して3時40分と主張しているが、信頼性が無いと裁判官から判定されている。これらの証拠書類の書換え・紛失はその多くが地検の捜査を通じて、なだしお関係者が隠しきれなくなり自供するような形で露呈、マスコミにもすっぱ抜かれたものである[37]。その結果、書換え自体を隠していたことや証拠となる原資料を廃棄していたことの批判、さらに供述の再調査が必要とのマスコミ・世論等の声が高まる中で、海難審判の二審でもその事実が明らかにされていった。逆に言えば、海難審判の一審はなだしおの過失に厳しかったものの、その段階では、何を目的とするものか不明ながら隠蔽・口裏合わせそれ自体はかなりの程度成功していた形となっている。さらに、後の刑事事件の公判の証人尋問で、「検事から航泊日誌の貼り替えられた痕跡を突き付けられ認めざるを得なかった」と述べていたなだしお関係者らが、ことごとく自身の供述調書を翻し、“違います”“分かりません”と否定してとぼけ、事前に組織的な発言統一があったとしか思えないという事態も起きたと言われている[38]

1989年12月27日には、弁護士らがX元艦長と航海科員を証拠隠滅罪虚偽公文書作成罪で横浜地検に告発したが[39]、嫌疑不十分で不起訴となっている。

なお、2分の書換え自体(あるいは汽笛信号の有無を含めても)には、あまり意味は無かったのではないかとの見解もあるが[40]、それは地裁が海自側主張を採らず、また、第一富士丸側の過失責任として事故発生防止の協力義務違反といった点を重視したため、結果的に船長がこの判決結果を受入れたからだともいえる面がある。また、なだしお側は、この2分の差で自身らの判断遅れをごまかそうとしたの見方もある[33]。海上自衛隊の規則(厳密には自衛隊艦船であるなだしおは、船員法ではなく自衛隊法の適用を受け、「規則」に相当する「達」である「航泊日誌に関する達」の適用を受ける)では書き直す場合には線を引いて消し、その横に書き、訂正印を押すことになっており[41]、また、用紙を替える場合は古いページに貼り付け割印を押すことになっていた[42]。ところが、連番の載っているページを破りとり、別の用紙のわずかな厚みにのりをつけて差込み、元のままに見せる偽装工作・隠蔽工作ともいえるような行為を行い、さらに、原本をシュレッダーにかけて廃棄していた。これらは自衛隊規則に反する行為であり、敢えてこれらを行うよう艦長が指示していた。当時の自衛隊では不祥事隠蔽のため改竄が横行していた現状を指摘するマスコミ報道もあった[43]

航泊日誌の書直し行為そのものについてはX元艦長は鉛筆で書かれていたものを清書したものとだけとしか説明できなかったが、いわば「改竄」証拠の具体例として取り上げられた、この時刻変更の部分については、のちにX元艦長は、事故発生時刻(衝突時刻)の確認の際、艦内のアナログ時計の構造から艦内記録の混乱を避け時刻を統一する必要があり、速力通信受信簿の「15時40分」を採用したものだったとしている[44]。実際には、書換え前の「15時38分」が正しかったと言った。

残されたままの問題[編集]

航海日誌における衝突時刻2分の書換えにさしたる意味はなかったとの見方もあるが、証言で具体例として明確に出てきたためにこればかりが取上げられたものの、衝突時刻はたしかに書換えられた点の一つだが、それは海図やレーダー記録と同様に単に辻褄合わせのためにそうなっただけで、消えた「航泊日誌」原文や「速力通信受信簿」のページとともに書換えられたり消された事実が他に在り、本当に艦長側が書換えようとした事実はそちらだったのではないかという見方がある(前述「航泊日誌の「改竄」」参照)。国民注視のもと、マスコミ等の批判にもかかわらず、海自ぐるみの事実上の海保庁の調査拒否が起こり、これに対し、自衛隊全体だけでなく防衛庁・政権としても有効な対応を打たず文民統制の観点からも問題の多いものとなった(なお、当時の防衛庁長官瓦力は防衛庁長官を退きはしたものの、議員は辞任することなく、その後もいわゆる防衛族といわれる活動を続けた。)。積極的な証拠隠滅だったのではないかとも疑われる、なだしおの数々の規則違反ばかりか、その所属する第二潜水隊の上部ぐるみの関与までありながら、その点に対する十分な糾明や処罰が行われたとは言い難く、これが地検の取調べや海難審判二審でその結果を露呈したばかりか、さらに今度は、またその結果として、なだしお関係者が自身の地検の取調べや二審での証言を刑事裁判では一致して翻し、結局は事故相手方の民間側の責任にしてしまおうとするような事態を惹き起こした(行政処分である海難審判は民事裁判・刑事裁判に関係しないのが原則である。)。もっとも、これについて、地裁はなだしお側の主張をほとんど認めず、なだしお側に事故の主因を認めている。

具体的には、地検の取調べによりなだしお乗組員らから事実上の自供も出てきたものの、自分はコンパスを注視していて汽笛については気付かなかった、何回鳴ったか分からない、といった形で、関係者らの庇い合い・口裏合わせとその妥協の結果のような証言も多く、実際に地裁判決は艦長らなだしお側関係者の証言を、たびたび「そのようなことは考え難い状況であった」として否定している[21]。反面、代わりに地裁判決は「このような状況では、常識的に当然こうしただろう」という方向で、結果的に(なだしお側にとって)いわば善意の解釈を行う形になり過ぎた面がある。操舵手がすぐに回避行動を取らなかったという自身の認めに対し、他に補強証言もあったとはいえ、すぐに回避行動を取っていたはずだとしたり、最初の「短一声」信号指示は分かったがそれに続くはずの進路変更指示はハウリングで分からなかった(つまり「すぐに進路変更がなかったのはそのせいだが、信号は出したはずだ。」という主張)を認め、「短一声」信号が出たことを前提に、第一富士丸船長がその意味が分からなかった、あるいは気付かなかったとして、その過失に加える形となっている。各種書類の消失・書直しや関係者の口裏合わせも疑わせた海保庁調査までの空白時間まで考えたとき、なだしお側の汽笛信号を出したという証言を信じてよいのか疑問も残る。後に、操舵手はハウリングは実際には無く、“運転室配置よし”という言葉と重なったため聞き取れなかったと記憶していたが、海上保安庁や検察庁の事情聴取に本当の理由を言えなかったと、語ったとされる[45]

事故後、間もない時期から、実は「なだしお」はこともあろうに船で混み合う東京湾内で最大戦速を出す運転試験(N1運転)をしようとしていたのではないかとも囁かれていた。まさに、この“運転室配置よし”という言葉はそれと結びつく。上村淳の『なだしお事件』(第三書館)によれば、この点は裁判でも検察官に追及されたが、既に事故から日にちも経っており、マスコミにはほとんど無視される形で終わったという[46]。地裁判決では、これについても「当時N1運転の予定があったものの、敢えてそれを実施することは考え難い状況であった」とされた[21]

隠蔽疑惑を呼んだ行動の動機について[編集]

なお、海上自衛隊が、ここまでなだしお艦長をすぐに事情聴取に出頭させず、また、その後も庇い続けたとみられる行動の理由としては、事件当初の頃から、X艦長が地味な潜水艦乗りから海上幕僚長が出るとしたらXしかいないと言われたほどの逸材で海上自衛隊も守りたかったとする説[47]、自衛隊戦闘機と全日空機が衝突し全日空機の乗客・乗員162名全員が亡くなった雫石事故がすでにあり防衛庁は謝罪したものの、結局、自衛隊への非難は和がずに隊員の士気も低下、なによりも自衛隊の予算査定に影響したので、なだしお事件では出来る限り正当化できることは正当化して主張しようとしたという説[48]があった。さらに、後には、混雑した東京湾で実施するには危険な先述のN1行動をとることを計画していたのではないかとの可能性も指摘もされ、潜水指令がなだしお号に”同乗”していたこと、もしN1行動がとられていれば、その裏付け証拠となりうる可能性のあった「速力通信受信簿」をその司令が持ち出し、そのまま”紛失”していることから(ジャーナリストのインタビューによれば、エンジン不調の検査確認のため、当日急に実施しようとしたかのように語られているが)、実際には、海上自衛隊のより上層部が関わる形でN1行動計画が実行されており、それを隠蔽するための口ウラ合わせをしていたのではないかとする説もある。

影響[編集]

この事故がきっかけとなって、遊漁船業の適正化に関する法律が制定された。

浦賀水道では当時第三海堡が残っていた。戦後、同水道の往来が活発になると海難事故多発の要因として挙げられ、船舶からは撤去が望まれていたが、漁業関係者からは魚礁代わりとして絶好の漁場として存続が望まれていた。この事故の影響で一時撤去が検討されていた[49]が流れ、結局2000年(平成12年)になって撤去が決定した。

同年秋に行われた翌1989年度入学の海上保安大学校の受験者数が5年ぶりに増加に転じた。この事故により、存在がクローズアップされたためと推測された[50]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この高等海難審判庁の裁決につき、しばしば両者の過失を同等と判示したとの解説も見られるが、裁決では同等という言葉は一切使っておらず、単に両者それぞれについて過失とするものを並べて述べているだけである。
  2. ^ 海上予防衝突法のルールでは、本来このようなケースでは、第一富士丸の立場では直進義務と速度維持義務がある。実際問題として、互いに相手の後方を通ろうとしてコースが重なることがある(1988年7月24日朝日新聞朝刊3面。操縦性悪い浮上時 コースの判断誤った?)。そのために、まず直進義務等が課せられているのである。高等審判庁の裁決では、相手側が当然ルールに従うことを信じて海上予防衝突法の原則的ルールに従って行動し、もし事故が起こればシーマンシップに反したとして処罰され、かといって、シーマンシップに基づくとして自身の判断で異なった行動を採れば今度は相手方からはそれが原因だと主張され、海上予防衝突法違反で処罰される危険がより高くなりかねない。なお、第一富士丸船長は先に速度を落としていたが、こちらは早い時期に落としており、事故との関係はない、つまり、あらかじめ安全のために一般的に速度を落としていたものと、裁判では判断されている。
  3. ^ 欠格条項1項次の各号 のいずれかに該当する者は、隊員となることができない。
  4. ^ 禁錮以上の刑に処せられ、その執行を終わるまで又は執行を受けることがなくなるまでの者
  5. ^ 隊員は、前項各号の一に該当するに至つたときは、防衛省令で定める場合を除き、当然失職する。

出典[編集]

  1. ^ (2ページ目)潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 自衛隊が隠していた“ある真実””. デイリー新潮. (株)新潮社. 2022年12月18日閲覧。
  2. ^ 「自衛隊潜水艦と衝突、釣り船沈没 29人が行方不明 横須賀沖」『朝日新聞』、1988年7月24日、朝刊、1面。
  3. ^ a b (4ページ目)潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 自衛隊が隠していた“ある真実””. デイリー新潮. (株)新潮社. 2022年12月18日閲覧。
  4. ^ 「船内から次々20遺体 第1富士丸、83時間ぶり浮上」『朝日新聞』、1988年7月27日、夕刊、1面。
  5. ^ 「なだしお、疑問の行動 遭難信号出さず」『朝日新聞』、1988年7月25日、朝刊、26面。
  6. ^ 「「21分後の通報は遅すぎた」海自の1佐」『朝日新聞』、1988年7月26日、朝刊、31面。
  7. ^ a b 「伝達不全 もつれる情報、ナゾ浮上(検証・なだしお衝突:上)」『朝日新聞』、1988年7月28日、朝刊、31面。
  8. ^ 「横須賀の潜水艦衝突事故 海保、市に通報せず 通報は95分後」『朝日新聞』、1988年8月5日、神奈川版 朝刊。
  9. ^ 「「潜水艦は無過失」発言 東山海幕長が釈明」『朝日新聞』、1988年7月28日、朝刊、30面。
  10. ^ 「潜水艦衝突、費用分担でもめる 海自、捜索中に「協定を」」『朝日新聞』、1988年8月4日、朝刊、27面。
  11. ^ 1989年7月28日 朝日新聞「海幕長ら15人を処分 なだしお事故で防衛庁 前艦長は停職」
  12. ^ 「海自が割り込み”検分”」『朝日新聞』、1988年7月29日、朝刊、27面。
  13. ^ 1988年8月9日 毎日新聞「なだしおの「転回圏」は半径160メートル 回避性能解明のカギ」
  14. ^ 1988年8月28日 毎日新聞「実地検証で「なだしお」の回避の遅れ裏付け 富士丸も減速不十分」
  15. ^ 平成元年函審第19号 - ①shouwa tyuu kouki.pdf(末尾部分)”. 公益財団法人 海難審判・船舶事故調査協会. 2022年12月29日閲覧。
  16. ^ 平成元年函審第19号 - ①shouwa tyuu kouki.pdf”. 公益財団法人 海難審判・船舶事故調査協会. 2022年12月29日閲覧。
  17. ^ 平成元年函審第19号 - ①shouwa tyuu kouki.pdf”. 公益財団法人 海難審判・船舶事故調査協会. 2022年12月17日閲覧。
  18. ^ 4096D914DCF3EE7149256D41000A790 - 016428_hanrei.pdf”. 裁判例情報. 最高裁判所. 2022年12月17日閲覧。
  19. ^ 1994年3月1日 毎日新聞「「なだしおに事故主因」 第一富士丸行政訴訟で海難審の判断覆す--東京高裁判決」
  20. ^ 1990年9月11日 毎日新聞「衝突事故の「なだしお」主因説に反論 海自が調査報告書を公表」
  21. ^ a b c 横浜地方裁判所 平成2年(わ)1592号 判決 - 大判例 with 政治団体オープンサイエンス”. 大判例 with 政治団体オープンサイエンス. 学術研究機関 大判例法学研究所. 2022年12月17日閲覧。
  22. ^ 1988年7月25日 毎日新聞「「助けて!」の叫び黙殺と第一富士丸乗客らが潜水艦乗組員を批判」
  23. ^ 1988年7月26日 朝日新聞「「腕組みして眺めるだけ」目撃者の証言」
    記事内で男性は「立っているだけ」「眺めていた」と発言したのに対して記事見出しは「眺めるだけ」となっている
  24. ^ 「装備不全 救命ボート膨らまず(検証・なだしお衝突:中)」『朝日新聞』、1988年7月29日、朝刊、27面。
  25. ^ 潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 自衛隊が隠していた“ある真実””. デイリー新潮. (株)新潮社. 2022年12月17日閲覧。
  26. ^ 「海保、自衛隊に遠慮?」『朝日新聞』、1988年7月25日、夕刊、14面。
  27. ^ 1988年9月29日 朝日新聞「「沈む人を無視」は誤解 海保長官述べる」
  28. ^ (3ページ目)潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 自衛隊が隠していた“ある真実””. デイリー新潮. (株)新潮社. 2022年12月18日閲覧。
  29. ^ 「艦隊司令官が家族におわび」『朝日新聞』、1988年7月26日、夕刊、15面。
  30. ^ 1988年10月12日 読売新聞「潜水艦衝突事故 なだしお“見殺し発言”は誤解/海保長官表明」
  31. ^ 1988年10月12日 毎日新聞「「なだしおに救助義務違反はなかった」と海保長官言明」
  32. ^ 1988年7月29日 朝日新聞「潜水艦に過失 橋本・自民対策本部長、自衛隊かばう動きを批判」
  33. ^ a b 1989年11月15日 毎日新聞(夕刊)「作られた「2分間」 「なだしお」衝突事件の航泊日誌改ざん」
  34. ^ 「海図書き換え責任を認める 再尋問で「なだしお」の(※前艦長の姓)前艦長」『朝日新聞』、1989-12-77、朝刊、30面。
  35. ^ 「黄白日誌の改ざんは艦長が指示 担当者が証言 なだしお海難審判」『朝日新聞』、1990-1-2424、夕刊、15面。
  36. ^ a b 「消えた原本は隊司令のカバンに なだしお審判で元副長が証言」『毎日新聞』、1990年2月7日、東京版 朝刊、26面。
  37. ^ 「「なだしお」航泊日誌を改ざん 艦長、衝突時間2分送らせる」『朝日新聞』、1989年11月15日、朝刊、1面。
  38. ^ (3ページ目)潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 隠された“計画”と当事者たちのその後”. デイリー新潮. 新潮社. 2022年12月29日閲覧。
  39. ^ 1989年12月27日 毎日新聞(夕刊)「日誌書き換えは証拠隠滅罪 なだしお前艦長を告発」
  40. ^ (4ページ目)潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 自衛隊が隠していた“ある真実””. デイリー新潮. 新潮社. 2022年12月29日閲覧。
  41. ^ 「「なだしお」航泊日誌を改ざん 艦長、衝突時間2分送らせる」『朝日新聞』、1989年11月15日、朝刊、1面。
  42. ^ 「「なだしお」日誌改ざん、前艦長の再尋問決定 「供述見直す必要」」『朝日新聞』、1989年11月21日、朝刊、1面。
  43. ^ “「文書改ざん」は日常茶飯事--防衛庁・自衛隊 ”なだしお事件”はほんの氷山の一角”. エコノミスト (通巻2878): 4. (1989-12-19). 
  44. ^ 1990年3月27日 毎日新聞「前艦長が改めて「なだしお」航泊日誌の意図的書き換え否定」
  45. ^ (2ページ目)潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 隠された“計画”と当事者たちのその後”. デイリー新潮. 新潮社. 2022年12月29日閲覧。
  46. ^ 祝康成(現在のペンネームは「永瀬隼介」). “(2ページ目)潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 隠された“計画”と当事者たちのその後”. デイリー新潮. (株)新潮社. 2022年12月21日閲覧。
  47. ^ (2ページ目)潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 自衛隊が隠していた“ある真実””. デイリー新潮. 新潮社. 2023年2月22日閲覧。
  48. ^ (3ページ目)潜水艦「なだしお」の衝突事件から30年 自衛隊が隠していた“ある真実””. デイリー新潮. 新潮社. 2022年2月22日閲覧。
  49. ^ 1988年8月9日 毎日新聞「浦賀水道の人工島撤去に動く--潜水艦衝突事故で運輸省」
  50. ^ 1988年11月4日 毎日新聞「海上保安大学校の受験生ふえる 「なだしお事故」で見直しか」

参考文献[編集]

  • 横浜地裁平2(わ)第1592号
  • 『なだしお事件』(1994/8/31)上村 淳 (著)、電子本ピコ第三書館販売
  • 『検証・潜水艦なだしお事件』(1994/11/1)田川 俊一 (著)、東研出版

関連項目[編集]

外部リンク[編集]