アレン・ストリート

Allen Street
アレン・ストリートの遊歩道
アレン・ストリートの位置(マンハッタン内)
アレン・ストリート
マンハッタンにおける位置
別名Pike Street(Division Street以南)
旧名Chester Street
所在地ニューヨーク市マンハッタン
郵便番号10002
座標北緯40度43分9.1秒 西経73度59分25秒 / 北緯40.719194度 西経73.99028度 / 40.719194; -73.99028
北端ハウストン・ストリート
南端サウス・ストリート
1番街
Orchard Street
西Eldridge Street

アレン・ストリート (Allen Street) は、ニューヨーク市マンハッタンを南北に走る通りである。ロウアー・マンハッタンチャイナタウンロウアー・イースト・サイドを南北に貫く。この通りの北端のハウストン・ストリートより先は1番街となる。この通りの南端のディビジョン・ストリートより先はパイク・ストリート (Pike Street) となり、サウス・ストリートまで続く。北行きの車線と南行きの車線は、中央の緑道 (meridian mall) によって分離されている。この緑道の両脇には、それぞれの方向への自転車道が設置されている。この通りの名前は、米英戦争における最年少の海軍艦長であったウィリアム・ヘンリー・アレン准将から付けられている。彼は28歳の時に戦死した。彼の功績は、英軍艦en:HMS Macedonianを拿捕したことなどが挙げられる[1]

歴史[編集]

ブルーム・ストリートより北を見たアレン・ストリートの光景。
en:George B. Luks作、Allen Street, 1905年頃
1905年の火災の後の105 Allen Street。手前は2番街高架鉄道

1799年以前、ロウアー・マンハッタンのこの通りは設計され、"チェスター・ストリート" (Chester Street) と名付けられた。1806年5月にこの通りにニューヨーク孤児院 (New York Orphan Asylum) が建設された後[2]、チェスター・ストリートから"アサイラム・ストリート" (Asylum Street) に改名された。1833年、アサイラム・ストリートは人知れず"サード・ストリート" (Third Street) と改名され、最終的にアレン・ストリートに落ち着いた[3]

20世紀初頭、この通りは非常に活気があり、ルーマニア系ユダヤ人とトルコ、シリア、エジプトおよびギリシアからのセファルディ系ユダヤ人(中東系ユダヤ人)たちが主に住み着いていた。その多くは地下の真鍮および銅成形の仕事に就いており、地上階では主に衣類が売られていた[4]。1903年9月、アレン・ストリートとリヴィングトン・ストリートの地点の高架下で、ファイブ・ポインツ・ギャングのリーダーであるポール・ケリーの一団と、対抗するモンク・イーストマン率いるギャングとの間で、壮絶な銃撃戦が行われた。総勢100名がこの抗争に加わり、警察も銃撃に加わり、この両団を追い払った。3名が死亡し、多くの一般市民が怪我を負わされた[5]

1905年3月、住民が過密状態の長屋から火災が発生した。この5階建ての建物、105 Allen Streetの定員は20人だったが、200人が居住していた。

1930年代初旬に、この通りの幅は拡張され、この通りの東側の建物はこの再開発で解体された。この工事で、道路の中央には緑道が設けられ、高架鉄道は道路の西側を走るようになった。この高架鉄道は1942年に解体された。

1910年代から1940年代にかけて、アレン・ストリートには真鍮製品を扱う数々の店が集まっていたが、1970年代には二軒が残るのみとなっていた。1979年、アレン・ストリートはNew York誌において、"バワリーおよびグランド・ストリートの喧騒から取り残された活気のない通り"と記述された[6]

この通りとその南に続くパイク・ストリートの中央を走る遊歩道は2009年に再設計され、2011年に完全に改修された[7][8][9]

交通[編集]

1878年、IRT2番街線(2番街高架)が建設された。この一部区間は、ハウストン・ストリートからディビジョン・ストリートの間のアレン・ストリート上、現在の南方面の車線上(および途中から両方面の車線上)を走っていた。この高架は、当時狭かったこの通りへ射しこむ日光をほとんど遮っていた。この高架は1942年に解体された。

現在、この通りから最寄りのニューヨーク市地下鉄の駅は、3ブロック西のクリスティ・ストリート上のグランド・ストリート駅B D系統の列車)および3ブロック東のエセックス・ストリート上のデランシー・ストリート-エセックス・ストリート駅F <F> J M Z系統の列車)である。また、アレン・ストリートとイースト・ハウストン・ストリートの交差点には、2番街駅F <F> 系統の列車)の出入り口が複数ある。

また、アレン・ストリート84-86号には都市間バスの駅がある。

アレン・ストリートの全区間をニューヨーク市バスM15/M15 SBS路線が運行している。パイク・ストリートの一部からマディソン・ストリートにかけてもM15が運行している。

出典[編集]

脚注

  1. ^ Moscow, Henry (1979). The Street Book: An Encyclopedia of Manhattan's Street Names and Their Origins. New York: Fordham University Press. p. 22. ISBN 0-8232-1275-0 
  2. ^ New York: A Historical Sketch of the Rise and Progress of the Metropolitan City of America. New York: Carlton & Phillips. (1853). p. 249. https://books.google.co.jp/books?id=Oxd8CVOBpFkC&pg=PA249&lpg=PA249&dq=%22new+york+orphan+asylum%22+history&source=web&ots=ZLriDcSrJV&sig=Vx0sfKtEHe_FT-0kBnVVTMhCU6M&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=%22new%20york%20orphan%20asylum%22%20history&f=false 2010年5月29日閲覧。 
  3. ^ Stokes, I.N. Phelps (1998). The Iconography of Manhattan Island, 1498-1909. III. Union, NJ: Lawbook Exchange. p. 993. ISBN 1-886363-30-7 
  4. ^ Mendelsohn, Joyce (2001). The Lower East Side Remembered and Revisited. New York: Lower East Side Press 
  5. ^ Lardner, James; Reppetto, Thomas (2000). NYPD: A City and Its Police. New York: Henry Holt & Co.. p. 125 
  6. ^ Edelman, Bernard (1979年12月24日). “New York Journal: Splendor in the Brass Shop”. New York: p. 82. https://books.google.co.jp/books?id=j-ECAAAAMBAJ&pg=PA82&dq=%22allen+street%22+new+york&hl=en&ei=ruk5TOGFGcH78Ab13fWmBg&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=%22allen%20street%22%20new%20york&f=false 2010年7月11日閲覧。 
  7. ^ Allen and Pike Streets
  8. ^ Allen and Pike Streets: Before and After
  9. ^ Streetsblog

外部リンク[編集]