ステヴァン・ストヤノヴィッチ

ステヴァン・ストヤノヴィッチ
名前
愛称 ディカ(Дика, Dika)
ラテン文字 Stevan Stojanović
キリル文字 Стеван Стојановић
基本情報
国籍 セルビアの旗 セルビア
生年月日 (1964-10-29) 1964年10月29日(59歳)
出身地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ティトヴァ・ミトロヴィツァ
身長 189cm
体重 84kg
選手情報
ポジション GK
利き足 右足
ユース
-1979 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ムラディ・ルダル
1979-1982 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 レッドスター・ベオグラード
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1982-1991 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 レッドスター・ベオグラード 168 (0)
1991-1995 ベルギーの旗 ロイヤル・アントワープ 34 (0)
1996-1999 ドイツの旗 クロッペンブルク
1999-2000 ギリシャの旗 エスニコス・アステラス 8 (0)
代表歴
1985  ユーゴスラビア U-21 1 (0)
1988 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア オリンピック 3 (0)
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 0 (0)
監督歴
2005-2007 セルビアの旗 レッドスター・ベオグラード(ディレクター)
2021- セルビアの旗 セルビア(ディレクター)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ステヴァン・ストヤノヴィッチセルビア語: Стеван Стојановић, ラテン文字転写: Stevan Stojanović1964年10月29日 - )は、セルビア(旧ユーゴスラビア)の元サッカー選手。ポジションはゴールキーパーサッカーセルビア代表ディレクター。

経歴[編集]

レッドスター・ベオグラード[編集]

ストヤノヴィッチはドラゴスラヴ・シェクララツのスカウトによって1979年にムラディ・ルダルからレッドスター・ベオグラードの下部組織に加入し1982年にトップチームに昇格した[1][2]が、当初はアレクサンダル・ストヤノヴィッチジヴァン・リュコヴチャントミスラヴ・イヴコヴィッチスロボダン・カラリッチゴラン・ジヴァノヴィッチに続く6番手のゴールキーパーだった[1]

1986-87シーズン

ディナモ・ヴィンコヴツィ戦で公式戦デビューを果たすとパルチザン・ベオグラードとのヴェチティ・デルビブランコ・ダヴィドヴィッチの代役として出場し[1][2]スタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダで行われたUEFAチャンピオンズカップ 1986-87準々決勝第1戦でレアル・マドリードのエース、ウーゴ・サンチェスのPKを止め4-2の勝利に貢献しレギュラーの座を掴んだ。第2戦では0-2で敗れ敗退したものの、第1戦における活躍によってサポーターからアレクサンダル・ストヤノヴィッチになぞらえて「ディカセルビア語: Дика, ラテン文字転写: Dika)」という愛称で呼ばれるようになった[1][2]

1987-88シーズン

ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガで優勝し自身初タイトルを獲得した(レッドスター・ベオグラードは1983-84シーズンにユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ、1984-85シーズンにユーゴスラビアカップで優勝したがストヤノヴィッチは1試合も出場しなかった)。UEFAカップ1987-88・2回戦で対戦したクラブ・ブルッヘとの第1戦ではスタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダで3-1と勝利したが、第2戦で0-4と敗れ敗退した。

1988-89シーズン

UEFAチャンピオンズカップ 1988-89・2回戦でミランと対戦、第1戦を1-1と引き分けスタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダで行われた第2戦も1-0でリードしていたが濃霧により65分で試合が中止され無効となり、翌日に行われた再試合では1-1と引き分けたがPK戦の末2-4で敗れ敗退した[1]

1989-90シーズン

ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガユーゴスラビアカップの二冠を達成したが、スタディオン・マクシミールで行われる予定だったディナモ・ザグレブ戦で発生した暴動に遭遇した[1]スタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダで行われたUEFAカップ1989-90・3回戦第1戦ではケルンをクリーンシートに抑え2-0の勝利に貢献したが第2戦に向けた練習中に腕を骨折し戦線を離脱、第2戦には当時18歳のズヴォンコ・ミロイェヴィッチが出場したが0-3で敗れ敗退した。

1990-91シーズン

ストヤノヴィッチは1990年の夏にフランスオリンピック・マルセイユに移籍したドラガン・ストイコヴィッチの後を継いでキャプテンに就任しユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ優勝を果たした。さらにUEFAチャンピオンズカップ 1990-91ではグラスホッパーレンジャーズディナモ・ドレスデンを破り準々決勝に進出、準決勝ではバイエルン・ミュンヘンと対戦し第1戦で2-1と勝利、スタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダで行われた第2戦ではクラウス・アウゲンターラーのフリーキックをトンネルし失点したが2-2で引き分けユーゴスラビア勢として1965-66シーズンパルチザン・ベオグラード以来25年ぶり2度目となる決勝進出を果たした。

1991年5月29日イタリアバーリスタディオ・サン・ニコラで行われたUEFAチャンピオンズカップ 1990-91 決勝ではオリンピック・マルセイユと対戦(ドラガン・ストイコヴィッチは延長後半から出場した)、延長戦を含め120分をクリーンシートに抑え0-0で迎えたPK戦オリンピック・マルセイユの1人目マニュエル・アモロスのキックを止め5-3で勝利し、レッドスター・ベオグラード史上初のUEFAチャンピオンズカップ優勝を果たしキャプテンとしてビッグイヤーを掲げた[1][2](ストヤノヴィッチはUEFAチャンピオンズカップ 1990-91全試合に出場したが、アウェイで行われた2回戦第2戦のレンジャーズ戦のみ負傷によってジェリコ・カルジェロヴィッチと途中交代した)。

ストヤノヴィッチは1990-91シーズン終了後にベルギーロイヤル・アントワープに移籍したためストヤノヴィッチ移籍後のインターコンチネンタルカップ 1991にはズヴォンコ・ミロイェヴィッチが出場した。

ロイヤル・アントワープ、クロッペンブルク、エスニコス・アステラス[編集]

ロイヤル・アントワープでは1991-92シーズンのベルギーカップで優勝し(決勝にストヤノヴィッチは出場しなかった)、それによって出場権を獲得したUEFAカップウィナーズカップ 1992-93でも決勝に進出したが、ウェンブリー・スタジアムで行われた決勝ではパルマに1-3で敗れ準優勝に終わった[1][2](ストヤノヴィッチはフル出場した)。その後1996年にドイツクロッペンブルクに、1999年にギリシャエスニコス・アステラスに加入した[2]が両クラブで大きな負傷が続いたため2000年に現役を引退した。

ユーゴスラビア代表[編集]

ストヤノヴィッチはユーゴスラビアA代表に何度も招集されたがキャリアを通して出場することはなかった[2]U-21ユーゴスラビア代表としては1985年のオーストリア戦に出場している。また1988年ソウルオリンピックのメンバーに選出され、グループD第1節のオーストラリア戦ではベンチだったもののドラゴイェ・レコヴィッチの負傷によって途中出場し第2節のナイジェリア戦と第3節のブラジル戦では先発フル出場を果たした。

引退後[編集]

ストヤノヴィッチは引退後スタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダの前で「カフェ・ディカ(セルビア語: Кафе Дика, ラテン文字転写: Caffe Dika)」という喫茶店を経営している[1]

2005年にドラガン・ストイコヴィッチレッドスター・ベオグラード会長に就任するとストヤノヴィッチは2007年までスポーツディレクターを務めた[1][2]。2021年にドラガン・ストイコヴィッチセルビアA代表監督に就任するとストヤノヴィッチはA代表ディレクターに就任した[2]

私生活[編集]

息子のマルコ・ストヤノヴィッチサッカー選手である。ポジションはミッドフィールダー[2]

タイトル[編集]

レッドスター・ベオグラード[編集]

ロイヤル・アントワープ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j MOJA ŽIVOTNA PRIČA - STEVAN STOJANOVIĆ: O Zvezdi i Bariju, koferu para iz Marselja, supruzi, Belgiji, Piksiju i Robiju”. Kurir (2020年11月7日). 2022年1月3日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j СЕЋАЊА - Стојановић: Бари круна каријере”. Sportski žurnal (2022年10月28日). 2023年10月11日閲覧。

外部リンク[編集]