テイスト・オブ・ハニー (バンド)

テイスト・オブ・ハニー
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
ジャンル
活動期間 1971年 - 1983年
レーベル
旧メンバー
  • ジャニス・マリー・ジョンソン(ギターベースボーカル
  • ペリー・キブル(キーボード
  • ドナルド・レイ・ジョンソン(ドラムス
  • ヘイゼル・ペイン(ギター・ボーカル)
  • スザンヌ“ミニー”・トーマス(ギター)

A Taste Of Honey テイスト・オブ・ハニーは、アメリカ合衆国の音楽グループ。ディスコ全盛期に大ヒット曲「Boogie Oogie Oogie (邦題:今夜はブギ・ウギ・ウギ)」で一躍有名となった。その外、坂本九上を向いて歩こう」のカバー「SUKIYAKI」のヒットでも知られる。

来歴[編集]

創成[編集]

1971年、ロサンゼルスの地方バンド「Exit」でベースを担当していた Perry L. Kibbleペリー・キブルは、バンドの解散を機に、同じくロサンゼルスで活動していた「Soundstage #1サウンドステージ・ナンバーワン」という別のバンドに加入した。同バンドで歌唱を担当していたのが Janice M. Johnsonジャニス・ジョンソンである。[2]

ジャニス (1956年出[3]) は、父親がミュージシャンであったことから音楽に興味を持ち、やがてロサンゼルス界隈のジャズ・クラブで、マイルス・デイビス前座をメインにヴォーカルをはじめた。後のメンバーとの邂逅は大学在学中にベーシストとして活動を始めたことがきっかけとされる。[4]

ペリー加入後の Soundstage #1 もまた同年暮れまでに解散を余儀なくされた。ペリーとジャニスは二人で音楽活動を続けることに決め、後、これにジャニスの元同僚 (Soundstage #1 の女性歌手) Carlita Dorhanカーリタ・ドーハンを加えて三人組として始動した。この時に生まれた、女性歌手二人を前面に推し出すという発想は、以降もグループの特徴をなした。[2]

始動[編集]

ペリー、ジャニス、カーリタの三人はドラムなしで三曲ほど練習し、一箇月後には地元ロサンゼルスのタレント・ショーに出演した。これを皮切りに、同じくロサンゼルスのクラブで、職業音楽家として一晩$50の仕事を獲るまでになった。しかし、ドラムなしのバンドは音楽に締まりを缺く、ということで同クラブでドラムを担当していたDonald Johnsonドナルド・ジョンソンを引き抜き、四人体制とすると、1972年の夏には、リード・シンガー不詳コンガ奏者不詳を加えて六人体制となり、グループ名を「A Taste Of Honey」と改めた。[2]命名の由来は、ジャニスお気に入りの楽曲「A Taste of Honey (邦題:蜜の味)」。[5][4]

続いてグループはマネジメント会社と契約し、それに伴って仕事も増えていった。1973年には、米軍基地を巡業する所謂「米軍慰問協会USOツアー」の仕事を獲得し、韓国、日本 (返還まもない沖縄含む)、翌年には台湾フィリピンなどを訪問した。1974年の東南アジア・ツアーでは、ヤマハ音楽振興会主催の「第5回世界歌謡祭」に出演し、『Life (Don't Have to Get You Down)』を披露した。[6][2]

変動[編集]

経験を積んだ六人は、1975年2月、リード・シンガーを Gregory Walkerグレゴリー・ウォーカーに代え、ホーン奏者が二名不詳新規加入して八人体制となった。その後、カリフォルニアスペインモロッコアラスカなどを巡業したが、大所帯となったグループはその維持が困難になり、1975年中頃、ロサンゼルスに戻るやホーン不詳とコンガ不詳を外して五人体制に縮小した。[2]

1976年初め頃にはリード・シンガーのグレゴリーが別のバンド「Santana」参加の為に脱退、さらにカーリタまでも個人的な理由で脱退し、グループは存続の危機を迎えた。とりわけ、カーリタはギター担当であった為、ギター奏者の発掘は急務となった。そこに現れたのが Hazel Payneヘイゼル・ペイン(1954年生) である。[2]

新生[編集]

ヘイゼルもジャニスもロサンゼルス生まれで、お互いに以前からの顔馴染みであった。ヘイゼルは常に数組の地元バンドをかけもちしてギターを演奏していたが、どれも解散、統合を繰り返していた。そんな中で電話をかけて来たのがジャニスであった。ヘイゼルはそれを気前良く引き受けた。[2]

こうして、ジャニス (gt., ba., vo)、ヘイゼル (gt., vo.) の女性二人と、ペリー (kb.)、ドナルド (drs.) の男性二人からなる四人組の新生「A Taste Of Honey」が結成された。[5][1]四人はいくつかのクラブでの出演を通して更に経験を積み、「Etcエトセトラ」では当時女優と歌手を掛け持ちしていた Kellee Pattersonケリー・パターソンのバック・バンドの仕事を一週間の契約で引き受けたが、思いのほかの好評を受けた為、クラブお抱えバンドとして一年の契約を結んだ。同クラブでの常連としての出演は四人の知名度を上げ、業界に名が知れ渡るようになった。[2]

契約[編集]

クラブで長らく他人の曲を演奏してきた四人は、次第に自分たちの曲を作りたいと考えるようになった。レコード会社との契約を勝ち取り、メジャー・デビューを飾ろうと、デモ・テープの制作を始めた頃、とある友人に依頼されて出演した結婚式にいあわせた参加者が四人の運命をかえた。その参加者は Mizell Brothersマイゼル・ブラザーズこと Larry MizellラリーFonce Mizellフォンスを四人に紹介した。マイゼル兄弟はMotown在籍時代にJackson 5Donald Byrdといった有名歌手や演奏家のプロデュースを手がけていた。更に四人が出演するクラブで演奏を聴いたマイゼル兄弟が、今度はCapital Recordsの重役 Larkin Arnoldラーキン・アーノルドに紹介した。初回のオーディションでは採用とならなかったものの、三箇月後の再オーディションで契約を勝ち取った四人は、晴れてメジャー・デビューを果たした。[2]

栄冠[編集]

1977年、マイゼル兄弟とともに制作を開始し、『Boogie Oogie Oogie』のリズム・トラックが録音された。翌年にヴォーカルを録音して完成した同曲は、ラーキンの判断で即座に発売が決定された。同年4月にシングルとして、翌月にはアルバムが発表され、四人はついに全米デビューを果たした。ソウル・チャート83位で初登場した同曲はその後急上昇を続け、8月に首位を勝ち取ると、25週間に亘ってチャート・インを続けた。知名度をあげた四人はBillboard社主催の「Disco Forum」でDonna Summerらと並んで登場し、会場を驚かせた。シングルは最終的にディスコ・ポップス・ソウルの三チャートを制覇して見事三冠となり、おまけにシングルもアルバムもプラチナム・レコードに認定され、新人のデビュー盤としてはキャピタル有史以来の快挙となった。[2]

同曲の大流行によって、四人はThe CommodoresTeddy PendergrassParliamentなどの人気グループとともにツアーを行い、加えて当時人気の娯楽番組を総舐めにするほどの快進撃を続けた。極めつけは1979年2月の第21回グラミー賞で三部門に入選し、Best New Artist (最優秀新人賞) を受賞した。[5][1][4][2]

グループ成功の最大の要因は何と言っても当時大流行をみせていたディスコで、1977年11月に上映された『Saturday Night Fever』が全米に与えた影響が大きかった。[2]

現在[編集]

二作目『Another Taste』は商業的成功に至らず、その後ペリーとドナルドの男性二人が脱退し、ジャニスとヘイゼルの女性デュオとなった。三作目『Twice as Sweet』からは坂本九上を向いて歩こう」の英語カバー「SUKIYAKI」[7]が好評を博し、ソウル、アダルト・コンテンポラリー両チャートで全米一位、ポップ・チャートで三位を占めた。[5][1][4]1980年代前半をもってバンドは解散したが、[5]ジャニスはその後もソロ活動を続けている。[5][1][4]

作品[編集]

アルバム[編集]

発表年次 作品名 配給元
1978 A Taste of Honey Capital Records
1979 Another Taste
1980 Twice as Sweet
1982 Ladies of the Eighties
1984 One Taste of Honey[注 1]

関連[編集]

脚注[編集]

註釈[編集]

  1. ^ [参考] ヘイゼルが脱退し、実際はジャニス名義。

参照[編集]

  1. ^ a b c d e f g h A Taste of Honey - Biography & History” (英語). オールミュージック. 2016年10月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 参照:"A Taste of Honey" 1998発売時ライナーノーツ, 執筆:Masaharu Yoshioka (吉岡 正晴)
  3. ^ Brian Wright-McLeod (2005-04-30) (英語). The Encyclopedia Of Native Music. en:University of Arizona Press. p. 114. ISBN 9780816524488. https://books.google.co.jp/books?id=1fbJeDztFG8C&pg=PA114#v=onepage&q&f=false 2016年10月2日閲覧。 
  4. ^ a b c d e Janice Marie Johnson - Biography & History” (英語). オールミュージック. 2016年10月2日閲覧。
  5. ^ a b c d e f A Taste of Honey - Biography” (英語). IMDb. 2016年10月2日閲覧。
  6. ^ 第5回世界歌謡祭 (World Popular Song Festival in Tokyo '74)”. YAMAHA MUSIC FOUNDATION. (財)ヤマハ音楽振興会. 2024年3月22日閲覧。
  7. ^ 今から50年前、全米を制したのは日本の音楽だった。”. Billboard JAPAN. 2016年10月2日閲覧。

参照[編集]

  • A Taste of Honey」1998発売時ライナーノーツ, 執筆:Masaharu Yoshioka (吉岡 正晴)

外部[編集]