ホルガー・オジェック

ホルガー・オジェック
名前
ラテン文字 Holger Osieck
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1948-08-31) 1948年8月31日(75歳)
出身地 ホンベルクドイツ語版
監督歴
1991-1992 ドイツの旗 VfLボーフム
1993-1994 トルコの旗 フェネルバフチェ
1995-1996 日本の旗 浦和レッズ
1996-1998 トルコの旗 コジャエリスポル
1998-2003 カナダの旗 カナダ代表
2007-2008 日本の旗 浦和レッズ
2010-2013 オーストラリアの旗 オーストラリア代表
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ホルガー・オジェックHolger Osieck1948年8月31日 - )は、ドイツホンベルクドイツ語版出身の元サッカー選手サッカー指導者FIFA(国際サッカー連盟)の技術委員を経て、浦和レッズの監督を2度(1995年-1996年、2007年-2008年)務めた。

経歴[編集]

現役時代はブンデスリーガの下部リーグや北米サッカーリーグバンクーバー・ホワイトキャップスでプレーした。

現役引退後は1987年から西ドイツ代表のアシスタントコーチを務め、1990年イタリアW杯制覇に貢献した。

その後、ドイツのVfLボーフムトルコフェネルバフチェの監督を経て、1995年から浦和レッズの監督に就任。堅守速攻に加えポゼッションサッカーを取り入れ、それまで2年連続最下位だったチームをギド・ブッフバルトを中心にした守備陣とウーベ・バイン福田正博を中心とした速攻で建て直し、一躍優勝争いに加わらせた。なお、2003年に行われた福田正博の引退試合では、レッズ歴代選抜チームの指揮を執っている。

1996年限りでレッズの監督を退任すると、その後はトルコのコジャエリスポルの監督に就任し、トルコカップ優勝。翌年、カナダ代表監督を務め2000 CONCACAFゴールドカップで優勝し翌年のFIFAコンフェデレーションズカップ2001で日本への凱旋を果たした。2004年からは国際サッカー連盟(FIFA)の技術スタッフの責任者を務めていた。ドイツワールドカップでは戦術を分析するFIFAテクニカルスタディーグループのヘッドを務めた。

2007年から前年限りで退任したギド・ブッフバルトの後を受け再び浦和の監督に就任。同年はAFCチャンピオンズリーグ制覇にチームを導く。翌2008年3月16日、Jリーグ開幕後無得点による2連敗という成績面の不振、また選手とのコミュニケーション不足を問題視され、同クラブより監督を解任された[1]。開幕から2試合目での解任はJ1史上最短、J2を含めても足達勇輔(元横浜FC)の1試合目に次ぐ記録であった。

2010年8月11日、退任したピム・ファーベークの後任としてオーストラリア代表監督に就任。初のタイトル戦となったAFCアジアカップ2011はオーストラリア代表を準優勝に導いた。

2013年9月のブラジル、翌10月のフランスとの両親善試合でともに0-6と大敗。このため10月11日のフランス戦後に解任された[2]

クラブ歴[編集]

指導歴[編集]


監督成績[編集]

年度 所属リーグ 試合数 勝点 勝利 引分 敗戦 順位 チーム
1995 J・サントリー 26 48 15 11 3位 浦和レッズ
J・ニコス 26 42 14 12 8位
1996 J 30 59 19 11 6位
2007 J1 34 70 20 10 4 2位
2008 J1 2 0 0 0 2 -

タイトル[編集]

監督時代[編集]

フェネルバフチェ
  • TSYDカップ: 1994-95
コジャエリスポル
浦和レッズ
カナダ代表

脚注[編集]

  1. ^ 選手が斬った!浦和オジェック監督解任 - サッカーニュース”. nikkansports.com. 2020年5月18日閲覧。
  2. ^ Goal (2013年10月12日). “フランスに0-6敗戦のオーストラリア、オジェック監督を解任”. 2013年10月12日閲覧。

外部リンク[編集]