北郷時久

 
北郷 時久
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄3年(1530年
死没 慶長元年2月3日1596年3月1日
改名 忠豊→時久→一雲斎(法号)
別名 二郎(通称)、右衛門尉
戒名 月庭梁新庵主
墓所 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地
氏族 北郷氏
父母 父:北郷忠親、母:禰寝尊重の娘
兄弟 時久、久通、島津朝久
正室:本田薫親の娘、継室:北郷忠孝の娘
側室:南郷氏
娘(島津以久室)、相久忠虎
娘(比志島義智室)、三久久村忠頼久栄
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北郷 時久(ほんごう ときひさ)は、戦国時代武将北郷氏10代当主。日向の庄内一帯を領しており、都之城に居していた。

島津宗家と手を結び、肝付氏伊東氏と争う。それらの功績から、永禄5年(1562年)には島津貴久から所領を与えられた。また同年、貴久および肥後国相良義陽と共に、伊東氏により家督と領地を簒奪されていた北原氏の再興に助勢している。天正6年(1578年)、大友氏の日向国進出に際して先陣を仰せ付かり宮崎城に在った際、この前年に没落した伊東氏の残党1,000が三納平野にて反乱を起こすが、時久は300余人を討ち取って追い散らした。翌天正7年(1579年)には不和となった嫡男の相久を廃して切腹に追い込み、次男の忠虎を跡取りとする。原因は不明である。

豊臣秀吉九州征伐には島津方に与して抗戦したが、元より敵うはずもなく、時久は石田三成伊集院忠棟を通じて秀吉に謝罪し、人質を差し出したため、所領は安堵された。しかし後に薩摩祁答院(現・さつま町の大部分)に移封され(時久が故地を懐かしみ居館を宮之城と名付け、後にそれが地名となった)、都之城には忠棟が入った。文禄・慶長の役で忠虎が早世、孫の長千代丸(後の忠能)の後見人となったが、慶長元年(1596年)に66歳で死去。長千代丸が当主になり、三男の三久が後見人の役目を引き継いだ。