土岐頼次

 
土岐 頼次
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 天文14年(1545年
死没 慶長19年11月10日1614年12月10日
改名 頼師[1]、土岐二郎
別名 通称:二郎[2]、小次郎[3]、左馬助[2]、左京亮[1]、斎号:見松(斎)、法号:宗ト
戒名 南陽院殿見松宗之居士
官位 従五位下
主君 豊臣秀吉徳川家康秀忠
氏族 土岐氏
父母 父:土岐頼芸、母:六角定頼の娘
兄弟 頼栄(頼秀)頼次頼宗頼元(頼重)
湯島清庵武房の娘
頼勝[4]頼高、女(土岐益頼室)、頼泰[5]
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土岐 頼次(とき よりつぐ)は、安土桃山時代武将江戸時代初期の旗本美濃国守護大名土岐頼芸の次男。通称は二郎[2]、小次郎[3]、左馬助[2]、左京亮[1]。後に見松と号した。

略歴[編集]

家臣の斎藤利政(道三)の讒言によって、兄の頼栄(頼秀)が父・頼芸の勘気を受けて廃嫡されたため、嫡子となった。初名は頼師という[1]

父と共に初め川手城、次いで大桑城に移り、天文16年(1547年)に父が美濃国を追放された際に、まだ幼い頼次は京都に移住した[6]

道三と斎藤義龍の争いに際しては義龍側に属し、義龍より本領を安堵されている[7]

その後、大和国に赴いて多聞城松永久秀を頼った[2]

天正15年(1587年)、豊臣秀吉馬廻として仕え、河内国古市郡内に500石を与えられた[8][6]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後、徳川家康秀忠に拝謁して本領を安堵された。

また、西軍の敗将として切腹した斎村政広から没収した獅子王の剣を、家康は土岐氏は源頼政の子孫であるという理由で頼次に与えた[2]

以後、旗本として仕えた[8]

慶長19年(1614年)11月10日、山城国伏見において死去、享年70[2]。法号は南陽院殿見松宗之居士[6]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 近藤瓶城 1926, p. 11.
  2. ^ a b c d e f g 堀田 1923, p. 519.
  3. ^ a b 「村山文書」所収、天文19年または20年11月5日付け織田寛近からの書状で使用、桑田忠親『斎藤道三』1973年 新人物往来社
  4. ^ 長男頼勝の子孫は高家旗本として仕えた。
  5. ^ 三男頼泰の子孫は旗本として幕府に仕えた。元禄14年(1701年)に発生した江戸城中で浅野長矩吉良義央に切りかかった赤穂事件の際に長矩を取り押さえた梶川頼照は、頼泰の子である。
  6. ^ a b c 伊東 1932, p. 86.
  7. ^ 「村山文書」による。
  8. ^ a b 阿部 1990, p. 540.

参考文献[編集]

  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、540頁。ISBN 4404017529 
  • 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 土岐」『寛政重脩諸家譜. 第2輯』國民圖書、1923年、519頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082719/269 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 伊東実臣「国立国会図書館デジタルコレクション 土岐系」『美濃明細記』一信社出版部、1932年、85-87頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877570/57 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 近藤瓶城 編「国立国会図書館デジタルコレクション 土岐累代記」『史籍集覧. 第14冊』近藤出版部、1926年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363/9 国立国会図書館デジタルコレクション