日本切腹中国介錯論

日本切腹、中国介錯論(にほんせっぷくちゅうごくかいしゃくろん)1935年、中国の社会思想家胡適が唱えた中国外交戦略論。加藤陽子によって広く紹介された[1]

背景~胡適の考え方[編集]

北京大学教授であった胡適は、当時次のように考えていた。

  • 中国は、世界の二大強国となることが明らかになってきたアメリカソ連、この2国の力を借りなければ救われない。日本があれだけ中国に対して思うままにふるまえるのは、アメリカの海軍増強と、ソ連の第二次五カ年計画がいまだ完成していないからである。海軍、陸軍ともに豊かな軍備を持っている日本の勢いを抑止できるのは、アメリカの海軍力とソ連の陸軍力しかない。このことを日本側はよく自覚しているので、この2国のそれぞれの軍備が完成しないうちに、日本は中国に決定的なダメージを与えるために戦争をしかけてくるだろう。つまり、日米戦争や日ソ戦争が始まるより前に日本は中国と戦争を始めるはずだ。
  • これまで中国人は、アメリカやソ連が日本と中国の紛争、たとえば、満洲事変華北分離工作など、こういったものに干渉してくれることを望んできた。けれどもアメリカもソ連も、自らが日本と敵対するのは損なので、土俵の外で中国が苦しむのを見ているだけだ。ならば、アメリカやソ連を不可避的に日本と中国との紛争に介入させるには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、二、三年間、負け続けることだ。

1935年までの時点では、中国と日本は、実際には、大きな戦闘はしてこなかった。満洲事変、第一次上海事変熱河作戦、これらの戦闘はどちらかといえば早く終結してしまう。とくに満洲事変では、蔣介石張学良に対して、日本軍の挑発に乗るなといって兵を早く退かせている。しかし、胡適は、これからの中国は絶対に逃げてはダメだという。膨大な犠牲を出してでも中国は戦争を受けて立つべきだ、むしろ中国が先に戦争を起こすぐらいの覚悟をしなければいけない、と。

日本切腹、中国介錯論[編集]

胡適は次のように述べた。

中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり、次の三つを覚悟しなければならない。第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。第二に、河北山東チャハル緩遠山西河南といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない 我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、二、三年以内に次の結果は期待できるだろう。(中略)満洲に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。(中略)以上のような状況に至ってからはじめて大西洋での世界戦争の実現を促進できる。したがって我々は、三、四年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」というこの八文字にまとめられよう。 — 「世界化する戦争と中国の「国際的解決」戦略」、石田憲編『膨張する帝国 拡散する帝国』東京大学出版会

的中した予言[編集]

日中戦争は1937年7月に始まった。その4年後、太平洋戦争(日英米戦争)は1941年12月に始まり、日ソ戦争は太平洋戦争の最終盤、1945年8月に始まった。

なお、当時国民政府の行政院長であった汪兆銘が胡適の論に反対して対日融和を唱えている。その理由は「そのように三、四年にわたる激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまう」[1]というものであった。国共内戦で首都・南京が陥落したのは1949年4月、大陸全土が中国共産党の支配下に入ったのは1950年5月のことである。

その後の胡適[編集]

胡適は1938年に駐米国大使となった。1941年12月8日、日本が真珠湾攻撃を行なったときにも駐米大使としてワシントンにいた。

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、2009年。ISBN 4255004854 

参考文献[編集]