板倉勝尚 (安中藩主)

 
板倉勝尚
時代 江戸時代後期
生誕 天明5年(1785年
死没 文政3年8月26日1820年10月2日
改名 鶴五郎・百助(幼名)、勝尚
別名 甘雨、綽山、裕山堂、白雲山人(号)
戒名 瑞光院張学源文
墓所 愛知県西尾市貝吹町の長円寺
官位 従五位下伊予守
幕府 江戸幕府 奏者番
主君 徳川家斉
上野安中藩
氏族 板倉氏
父母 板倉勝政、飯田氏
板倉勝意
兄弟 勝晙勝尚勝喬柳沢里世正室ら
阿部正倫
秋月種徳娘・ヨシ
勝明分部光貞、鎌之助、勝殷
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板倉 勝尚(いたくら かつなお/かつひさ)は、江戸時代後期の大名上野国安中藩主。官位従五位下伊予守。重形系板倉家6代。

略歴[編集]

天明5年(1785年)、備中国松山藩4代藩主・板倉勝政の五男として誕生した。

安中藩の先代藩主・板倉勝意の養子となる。文化元年12月、11代将軍・徳川家斉に拝謁する。文化2年(1805年)5月12日、養父の死去により跡を継いだ。教養に造詣の深い藩主であり、文化5年(1808年)3月には藩校・造士館を創設する。また、勝尚自身の著作も「悼山吟草」や「水雲問答」など、多数残されている。藩政においては、藩財政再建のために倹約を行なっている。

文化7年9月、奏者番に就任する。文政3年(1820年)8月26日(または9月7日)に死去した。享年36。跡を長男の勝明が継いだ。

系譜[編集]

父母

正室

側室

子女