桑原虎雄
桑原 虎雄 | |
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海軍中将 桑原虎雄 | |
生誕 | 1887年10月26日 日本東京都 |
死没 | 1975年6月5日(87歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1909年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 | 新明和工業顧問 |
桑原 虎雄(くわばら とらお、1887年(明治20年)10月26日 - 1975年(昭和50年)6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
略歴
[編集]神職・桑原楯雄の子として東京で生まれる。寺内正毅元帥の甥。東京府立一中を経て、1905年(明治38年)9月、第一高等学校を中退、1909年(明治42年)11月、海軍兵学校37期卒。
1918年(大正7年)、横須賀で飛行機から初めて魚雷発射を行なうテストの際、そのパイロットとして同期の小沢治三郎らの支持を受けた。航空魚雷の先駆けである。
1920年(大正9年)6月18日、海軍大尉の時、水上機母艦「若宮」からパップ艦上戦闘機を使って日本で初めての艦上発進に成功、横須賀海軍航空隊までの距離を飛んだ。1922年(大正11年)、戦艦「山城」の2番主砲塔上に設けられた滑走台からの発進にも成功した[1]。
「龍驤」艦長、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭、横須賀航空隊司令、航空廠飛行実験部長などを歴任。
日中戦争(支那事変)においては、第2・第1連合航空隊司令官として重慶爆撃に参加。1941年(昭和16年)9月、第3航空戦隊司令官。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後は、1942年(昭和17年)4月、青島方面特別根拠地隊司令官に着任した。1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)まで軍需省新潟軍需管理本部長。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放の仮指定を受けた[2]。