毛利高標

 
毛利高標
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦5年(1755年
死没 享和元年8月7日1801年9月14日
別名 彦三郎(通称)、培松(字)、霞山、寛竜(号)
戒名 寛竜院
官位 従五位下和泉守伊勢守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
豊後佐伯藩
氏族 毛利氏
父母 毛利高丘鳥居忠瞭の娘
兄弟 高標花房正応秋田季済滝川一貞戸田忠如婚約者ら
正室加藤泰衑の娘
側室:田中氏
高誠小笠原政雍織田長裕
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毛利 高標(もうり たかすえ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。通称は彦三郎。豊後国佐伯藩の第8代藩主従五位下和泉守伊勢守は培松。霞山、寛竜の号を用いた。

略歴[編集]

7代藩主・毛利高丘の次男として江戸にて誕生。

宝暦10年(1760年)8月9日、父の死去により家督を継いで藩主となった。安永元年(1772年)12月、従五位下和泉守に叙任される。宝暦14年(1764年)1月に城下にて大火事が発生し、さらにその後も天災が相次いで藩財政は破綻寸前となった。このため高標は、財政再建を主とした藩政改革に乗り出し、厳しい倹約令や知行200石以上の者の半減、藩札の発行や、藩校・四教堂の開設による文武奨励などを行なった。特に高標の文武奨励政策は、天明元年(1781年)に佐伯文庫が開設されて画書数が8万冊、その他にも漢籍、医学書、仏書、史書、蘭学書などが集まるなど、大いなる治績を残している[1]池田定常市橋長昭と共に寛政期における好学の三大名と称された[2]

享和元年(1801年)8月7日、死去、享年47。跡を長男・高誠が継いだ。法号は寛竜院。

系譜[編集]

父母

正室

側室

  • 田中氏

子女

脚注[編集]

  1. ^ 国立公文書館デジタルアーカイブ 佐伯献書目録”. 国立公文書館. 2023年2月16日閲覧。「文政10年(1827)豊後国佐伯藩主毛利高標より幕府に献上された書籍のうち1743部20758冊の目録」とある。目録に収載されている書籍でデジタル化されたもの、例えば「宋史」136冊はオンラインで閲覧できる。
  2. ^ 内藤湖南『先哲の学問』ちくま学芸文庫、2012年、164p頁。