水口昌彦

水口 昌彦(みずぐち まさひこ、1959年(昭和34年)4月29日 - )は、日本テレビプロデューサー

人物[編集]

WOWOW取締役常務執行役員(事業、新規ビジネス担当)。 元フジテレビジョンプロデューサーで、フジテレビ編成制作局バラエティ制作センター室長(局長待遇)、ポニーキャニオン取締役映画事業本部長、常務取締役を歴任した。

京都府出身。血液型AB型。特徴として額縁メガネをかけている。

来歴[編集]

京都府立嵯峨野高等学校を経て京都大学工学部電気工学科卒業。学生時代の1981年、『笑ってる場合ですよ!』のオーディションコーナー「お笑い君こそスターだ!」に、同じ高校の後輩で後に長崎放送アナウンサーとなる竹内淳と組んだアマチュアの漫才コンビ「にっちもさっちも」で5日連続で勝ち抜き、11代目チャンピオンになる。この後、相方だった竹内と共に太田プロダクションからプロデビューしないかと誘われたが断っている[1]

1982年に技術職でフジテレビを受験して採用されたが、配属は編成部だった。同期に堤康一ネクステップ代表取締役社長)その後、第二制作部(当時)へ異動し石田弘班に配属。AD時代、『夕やけニャンニャン』でおニャン子クラブの教育係「マイケル水口」として出演。のちに番組プロデューサーとして『DAIBAッテキ!!』を開始、下川みくに熊切あさ美らを輩出したアイドルグループ・チェキッ娘を生み出す。チェキッ娘については、元メンバーからは今でも「パパ」と慕われ、『DAIBAクシン!!』シリーズ終了後の時にはメンバー全員と1時間ずつ面接を行い「チェキッ娘の名を語ってヌードにはなるな」と言っていたという[2]。近年の元メンバーの結婚式の時にはよく出席し[2]、この度に元メンバーのブログにもその模様が掲載されていることが多い。

音組の基礎を作った人物の一人。井上信悟(現ポニーキャニオン副社長)には今でも頭が上がらない。水口班はきくち伸に受け継がれ、音組となる(ちなみに水口班(現在「音組」)は元々は藤森吉之班→疋田拓井上信悟班→渡邊光男班と歴代同局の看板音楽番組として知られていた『夜のヒットスタジオ』の制作に関わってきた一派でもある)。1990年 - 1994年は編成部所属であった。

2002年の2月あたりからは編成の一人として携わっていたが、2005年6月22日付にバラエティ制作センター部長として久々に番組に関わることになる。また『お台場明石城』で奉行の一人として意見を述べている。

2004年7月に開かれた中学生フォーラム『テレビ大討論』(NHK教育テレビジョンで放送)で他の在京民放4局の制作者とともにテレビ局側の一人として出席。「なりたい!!放送作家」という本にコメントを寄せているが「他番組の真似はいらない」「娯楽番組しか見ないような視野の狭い人は向いていない」「人気タレントをとりあえず出しておけばいいというような企画は使えない」など極めて辛辣かつ現状批判とも取れる内容になっている。

2009年6月、ポニーキャニオンへ出向し、同社取締役に就任。またかつて自ら関わったチェキッ娘の「再会」復活ライブに向けて開設された特設サイトにメッセージを寄せている。

2010年3月、映画事業本部長に就任。2010年9月18日公開の映画『THE LAST MESSAGE 海猿』で初めて大作映画の製作に名を連ねる。

2013年6月、常務取締役(映像・映画総括)に就任。以後、経営情報本部長・制作宣伝担当、音楽全般担当、第2ディストリビューション担当を歴任。

2019年6月、WOWOW取締役に就任。同年7月、事業担当兼社長室担当補佐から事業、新規ビジネス担当に担務変更。2020年6月常務執行役員に就任。

過去に担当していた番組[編集]

レギュラー番組[編集]

特別番組[編集]

総合プロデューサー[編集]

制作担当[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、286頁。NDLJP:12276264/144 (「竹内淳」の項目)
  2. ^ a b スコラ』2009年9月号「チェキッ娘生みの親 プロデューサー水口昌彦かく語りき」(90P)より。このため、メンバーがセクシーショットを公開する時はどこまで見せていいか相談に来ていたという。

外部リンク[編集]