洗衣院

洗衣院(せんいいん、またの名を浣衣院)は、金王朝における官設の妓院である[1][2]。『靖康稗史箋証』の記載によると、靖康の変1126年)の後、皇太后皇后、妃嬪、皇女(公主[3])、宗女[4]女官宮女、さらに官吏や平民に至るまでの多数の女性が、遠く金に連行された。一部は現地で洗衣院に入れられて、性的奉仕を強要された[5]。複数の幼い皇女たちも洗衣院で育てられ、成長後に金国人の妻妾、あるいは洗衣院の娼婦となった[6]

捕虜女性の数[編集]

宋史』によると、女真人将校たちは北宋の宮廷にあった財宝のほとんど全てを略奪した。徽宗の第9子の康王趙構(南宋の初代皇帝高宗)と、庶人に落とされていた哲宗の皇后孟氏(元祐皇后)らの数人のみ[7]が、運よく難を免れている(ここまでは正史に記載のある、信憑性の高い話である)。

靖康の変の結果、金の捕虜となって北方へ拉致された女性の数は、『開封府状』によると、宋の妃嬪83名、王妃24名、皇女22名、嬪御98名、王妾28名、宗姫52名、御女78名、宗室に近い姫195名、族姫1241名、女官479名、宮女479名、采女604名、宗婦2091名、族婦2007名、歌女1314名、貴戚、官民の女性3319名の計11635名で、それぞれが金額を課された上で、洗衣院に入れられた。

また、金の李天民の記した『南征録匯』には、靖康元年12月初十日のこととして「宋主が二帥(粘没喝斡離不)に面会しようとしたが、拒まれてしまった。そこで(金側の使者である)蕭慶へ恭順の意志を伝え、人や物を貢納することとした。宋朝の臣下たちは口々に抗議したが、(宋の官僚ながら金側につくこととした)呉幵と莫儔とは二帥へ宋主の意を伝え、そこで親王、宰執、宗室の娘各2人、また袞冕や車輅および宝物2千、また民間の女性や楽団の女性それぞれ500人を捧げ、また毎年に銀と絹を計200万両・200万疋を献上すれば、黄河以南の地を宋側が保持しても良いとの許しを得たのであった。なお、宗室の女性はそれぞれ二帥にささげられた。これは『武功記』に見える」と記録する。

捕虜女性たちのその後[編集]

『南征録匯』によると、宋の女性たち、とりわけ皇女・妃など皇宮の女性たちは、金額を付けられて金の戦争報酬とされた[8]。その屈辱のためか、正史には記載は少ないが、それをはかなんだ南宋の確庵が『靖康稗史箋証』を編纂し、その後の彼女らの辿った運命と末路について詳細な記録を残している。この文献の大部分は、彼が自ら見聞きした一次記録、および南宋、金の別々の人物による同種の資料を集め、互いにつき合わせて検証したもので、史料価値が高い。

待遇[編集]

身分に関係なく女性たちはみな、女真人将校や兵士から心身共に陵辱を受けたという。『南征録匯』によると、「開封府の港には人の往来、絶え間なく続き、婦女より嬪御まで妓楼を上下し、その数五千を超え、皆盛装を選び出ず。選んで収むること処女三千、入城を淘汰し、国相(粘没喝)より取ること数十人、諸将より謀克までは賜ること数人、謀克以下は賜ること一、二人。韋后、喬貴妃ら北宋後宮は貶められ、金国軍の妓院に入れられる」。

『呻吟語』によると、浣衣院(洗衣院)では「妃嬪、王妃、帝姫、宗室の婦女は均しく上半身をあらわにし、羊裘(ようきゅう、かわごろも)を被せらる」[9][10]。また、金兵の北帰の途上においても彼女らは陵辱を受け続け、「掠められた者、日に(毎日)涙を以って顔を洗い、虜酋(金皇帝・皇族・貴族・将帥など)共、皆婦女を抱いて、酒肉をほしいままにし、管弦を弄し、喜楽極まりなし」。

捕虜となった宋の女性たちの何割かは、賞与として金の将兵に分け与えられた。

洗衣院に下された女性[編集]

金人に分け与えられた妻妾以外に、一部の捕虜女性は、性的奉仕を強要され、韋、邢二后以下三百人は洗衣院に入れられた[11]

『呻吟語』は『燕人麈』を引用して、次のように記している。「十に九人、となりて、名節を失い、身もまた亡ぶ」[12]。「辛うじて妓楼を出ても、即ち鬼籍に上る」。この著者は、また一人の隣家の鍛冶屋から伝え聞いた話として、以下のようにも書いている。「八金を以って娼婦を買う、すると実に親王女孫(皇族の孫娘)、相国姪婦(宰相の甥の嫁)、進士夫人(科挙合格者の妻)なり」。

この女性たちの中で姓名などを記されている人物は、以下の通りである。

  • 徽宗の数人の息女(柔福帝姫和福帝姫顕福帝姫
  • 徽宗の妃嬪韋氏南宋高宗の母)、奚拂拂、裴宝卿、管芸香、謝詠絮、江鳳羽、劉蜂腰、劉菊仙、閻月媚、朱柳腰、兪小蓮
  • 欽宗の妃嬪朱淑媛、田芸芳、許春雲、周男児、何紅梅、方芳香、葉寿星、華正儀、呂吉祥、駱蝶児
  • 高宗の妻の邢秉懿、側室(姜酔媚田春羅[13][14]
  • 徽宗の他の息子の妻妾:朱鳳英(欽宗の皇后の妹)、田静珠、周瑜、高仲賢、厳善、任二姑、曹三保、王延玉、田鳳儀、朱針仙
  • 徽宗の兄弟の妻妾:王柳姑、葉三郎、陳細眉

また、捕虜となった童女複数(幼い皇女たちも含まれる)も洗衣院で育てられ、成長後に金国人の妻妾、あるいは娼婦となった。徽宗の娘(慶福帝姫華福帝姫純福帝姫)、高宗の娘(趙仏佑趙神佑)もその中に含まれた。

脚注[編集]

  1. ^ 中国网
  2. ^ 中国百科在綫[出典無効]
  3. ^ 靖康の変当時の呼称は「帝姫」
  4. ^ 靖康の変当時の呼称は「宗姫」
  5. ^ 『靖康稗史箋證』、「宣和乙巳奉使金国行程録」、「瓮中人語」、「開封府状」、「宋俘記」、「南征録匯」
  6. ^ 『靖康稗史箋証』
  7. ^ 徽宗の最年少の子恭福帝姫、老齢の英宗修容張氏、哲宗の三女の淑慎帝姫、哲宗の妃嬪の美人慕容氏美人魏氏
  8. ^ 『南征録匯』:原定犒軍費金一百萬錠、銀五百萬、須於十日内輪解無闕。如不敷數、以帝姫、王妃一人准金一千錠、宗姫一人准金五百錠、族姫一人准金二百錠、宗婦一人准銀五百錠、族婦一人准銀二百錠、貴戚女一人准銀一百錠、任聴帥府選擇。
  9. ^ 『靖康稗史箋證』巻6「呻吟語」妃嬪王妃帝姫宗室婦女均露上體、披羊裘。
  10. ^ 『靖康稗史箋證』巻6「燕人麈」駙馬、妃嬪、王妃、帝姫、宗室婦女、奄人均露上體、披羊裘。
  11. ^ 『靖康稗史箋證』巻六『呻吟語』建炎二年 即金天會六年 八月二十四日‥‥婦女千人賜禁近,猶肉袒。韋、邢二后以下三百人留洗衣院。
  12. ^ 『呻吟語』「十人九娼,名節既喪,身命亦亡」(ただしこの記述は、虜囚全体の話であり、洗衣院限定の話ではない点に留意が必要)
  13. ^ 『靖康稗史箋證』巻5 賜宋妃趙韋氏、鄆王妃朱鳳英、康王妃邢秉懿、姜酔媚、帝姫趙嬛嬛、王女粛大姫、粛四姫、康二姫、宮嬪朱淑媛、田芸芳、許春雲、周男児、何紅梅、方芳香、葉寿星、華正儀、呂吉祥、駱蝶児浣衣院居住者。
  14. ^ 『靖康稗史箋證』巻3 康一即佛佑、康二即神佑均二起北行、入洗衣院

史料[編集]

関連項目[編集]