津田信澄

 
津田信澄 / 織田信澄
時代 安土桃山時代
生誕 弘治元年(1555年[1]永禄元年(1558年[2]
死没 天正10年6月5日1582年6月24日
改名 御坊[3]、坊丸[注釈 1] / 於菊丸[注釈 2](幼名)
信重(初名)[2]→津田信澄/織田信澄
別名 信重[2]通称:七兵衛(七兵衛尉)、津田坊[2]
墓所 大善寺滋賀県高島市勝野)
主君 織田信長
氏族 津田氏磯野氏/織田氏
父母 父:織田信勝、母:高島局(和田備前守の娘)
養父:柴田勝家、義父:磯野員昌
兄弟 信澄信糺[注釈 3]信兼[6]
正室:花渓眞英大姉[注釈 4]明智光秀の娘[2][8]
昌澄(信重)[注釈 5]元信[注釈 6]、女(京極高知正室)
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津田 信澄(つだ のぶずみ)は、安土桃山時代武将織田氏の連枝衆(一門衆)であるが、姓は津田を称し[2]、諱は信重といった[2][注釈 7]通称七兵衛近江大溝城主で、摂津大坂城[注釈 8]

略歴[編集]

尾張戦国大名織田信秀の三男・織田信勝(信行)の嫡男として生まれる。享年に諸説あり、このために生年は確定することができないが、織田信長の甥にあたり、その嫡男である従兄弟の織田信忠とはほぼ同年代であったと考えられる。

弘治2年(1556年)に父・信勝は謀反の企てを起こして敗北し、永禄元年(1558年)に父は伯父(信勝の兄)・信長によって暗殺された[10][注釈 9]。しかしその子供達は助命され、信長の命令により柴田勝家の許で養育された[4]

『寛政重修諸家譜』等で、永禄7年(1564年)正月に元服して津田七兵衛信澄を称して津田氏[注釈 10]を名乗ったと記されているが[4][6]、これは誤りである[3]

元亀2年(1571年)、佐和山城を引き渡して織田家に降った浅井氏旧臣、磯野員昌の養嗣子となった[注釈 11]。磯野姓を名乗っていたかどうかは不明。天正2年(1574年)2月3日に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に御通衆の「御坊様」として出席し[3]、3月27日に信長が東大寺正倉院蘭奢待を切り取った際にも重御奉行の「津田坊」とまだ童名で呼ばれている[3]ので、養子になるという約束だけで正式な縁組はまだ行われていなかった可能性はある。

天正3年(1575年)7月、磯野員昌と共に越前一向一揆征伐に従軍した。これが信澄の初陣であるとすると、天正2年夏から翌年夏までの間に、元服したと推測される[3]越前一向宗との戦いでは、柴田勝家・丹羽長秀鳥羽城を破って、5、6百の一揆勢を斬った[注釈 12]。 同年9月25日、京から来た公家吉田兼見を馳走して、信長への取次役を務めている[12]。10月27日、兼見が信長に礼参した際には、信澄が進物を披露した[3]

安土城にある伝織田信澄邸跡(左)。大手道を挟んで伝森成利(蘭丸)邸と隣り合う。

天正4年(1576年)1月14日、信澄が高島郡より上洛した事が確認される[注釈 13]ので、磯野家の所領に住んでいたことがわかる。同年1月、丹波八上城波多野秀治が離反したので、黒井城の戦いで苦戦する明智光秀の救援に赴援した[注釈 12]が、結局、光秀は退陣を余儀なくされた。

天正6年(1578年)2月3日、磯野員昌が信長の叱責を受けて突如高野山へ出奔したため、その所領・高島郡がそのまま信澄に宛行われ、新庄城から移って、明智光秀の縄張りで新たに城を築いて大溝城主となった[注釈 12][13]。高島郡領内の復興にも尽力して、大溝城下に、比叡山延暦寺の飛地境内にあって(信長による)兵火に焼けた大善寺の別院を建立してその開基となった[注釈 14]

以後は、津田あるいは織田姓を名乗っており、他の連枝衆と同じく、信長の側近としての務めと、信忠配下の遊撃軍団の一員としての両方の活動を行った[12]

同年4月4日、織田家当主・信忠に付き従い、石山本願寺攻めに参陣[16]。8月15日の安土城における相撲興行では堀秀政蒲生氏郷青地与右衛門らと共に奉行を務めた[17]。9月に信長が津田宗及宅を訪問した際にはこれに供奉した[注釈 15]。それから10月から翌年11月までは、荒木村重討伐に従軍し[18]、開城した摂津伊丹城には信澄が置かれて、村重の正室ら一族37名を捕えて京都に護送する役目を負った[19]。また、この頃(または天正2年[20])に信長は明智光秀の娘と信澄とを結婚させている[21]

天正7年(1579年)5月27日の安土宗論の時には警護役の1人だった[12]。天正8年(1580年)8月の石山本願寺からの一向宗の退城の際に大坂に下向して、検使・矢部家定を警固した。以後、大坂に常駐し、耶蘇会宣教師は信澄を「大坂の司令官」と称している[12]

天正9年(1581年)正月15日の左義長、2月27日の京都御馬揃えに参加。連枝衆の参加者で信澄は5番目に名前が挙がっており、10騎を率いて行進した[注釈 12]。これは叔父信包と従弟信孝と同格の扱いである。

4月、和泉国検地に逆らった槇尾寺の僧侶800名を信長の命令で皆殺しにした後、5月10日、信澄・堀秀政蜂屋頼隆・丹羽長秀・松井友閑で伽藍の部材を検分して使えそうな部材は没収し、その他の堂塔・僧坊を焼き払った[注釈 12]。また6月、信澄は高島郡の国衆多胡左近衛門を御内衆として召し抱えているから、高島郡の一職支配権を委ねられていたと考えられる[12]。信澄は9月の伊賀攻めに従弟・北畠信意(織田信雄)の指揮下で従軍[12]。鎮圧された後の10月、信長・信忠が伊賀国を検分した際にも同行した[22]。恐らくこの時、信澄は信長に大和国の拝領を直訴したが、信長に「大和国は神国である」と諌められ、拒否されたと伝わる[23][注釈 16]

天正10年(1582年)、甲州攻めでは信忠の指揮下に入らず、信澄らは信長に従って後から出張し[12]、3月19日に上諏訪の法花寺に陣を構えた部将の中に名が見える。土佐国長宗我部元親と信長の関係が決裂して、5月7日に従弟の神戸信孝を総大将する四国遠征軍が編成されると、丹羽長秀、蜂屋頼隆、信澄の3名が副将として付けられ[26]、11日、信澄は住吉で四国に渡海する準備に入った[12]。また、21日に安土の信長は、京都からに向かうという徳川家康の大坂での接待役を丹羽長秀と信澄に命じている[注釈 12]

6月2日、舅の光秀が京都の本能寺妙覚寺にいた信長、信忠を襲撃した本能寺の変が起こった。四国遠征軍は翌3日が淡路渡海の予定であったが、急遽中止される。信澄が光秀の娘婿であった事が災いし、市中には謀反は信澄と光秀の共謀であるという事実とは異なる噂が流れており[注釈 17]、疑心暗鬼に囚われた信孝と長秀は、5日、信澄を襲撃して大坂城千貫櫓を攻撃した。信澄は防戦したが、丹羽家家臣・上田重安によって討ち取られた。謀反人の汚名を着せられたまま、信孝の命令で堺の町外れに梟された[12][29]。享年は25[12]とも28[1][4]とも言う。

墓の所在も法名も伝わっていないが、現在、信澄が開基となった大善寺には供養墓と慰霊の石碑が建てられ、6月5日の命日(信澄忌)には供養が行われている。

子孫[編集]

人物[編集]

  • 信澄は信長の右腕的存在[31]で、側近としての役割も果たし、安土城の造営においては総普請奉行である丹羽長秀と共に普請奉行として工事に携わるなど、織田一門の中では叔父の織田信包と共に信長から信任されていた[32]
  • 織田家では、2度も背いた信長の弟の遺児であったという境遇はほとんど窺えず、その待遇は厚かった。一門衆の序列は第5位であり、信長の嫡子である信忠、信雄、信長の弟の信包、信長の庶子の信孝に次ぐ立場で、信澄の後ろに続くのは信長の弟の長益(有楽斎)長利であって、破格の待遇であった[12]
  • 前述のように謀反に荷担したという噂が当時の市中に流れていたわけであるが、信長の厚遇に応えて信澄は忠義を尽くしており、謀反に荷担した様子はなく、光秀に助力しようとした素振りも窺えない[12]
  • 信澄は天台宗に帰依しており、織田信長と明智光秀が焼き討ちした比叡山延暦寺の飛地境内の大善寺を再建した[注釈 14]
  • 宣教師ルイス・フロイスは、信澄の死去にあたり「この若者は異常なほど残酷でいずれも彼を暴君と見なし、彼が死ぬ事を望んでいた」と評している[注釈 18]。同じく『耶蘇会報』でも「甚だしく勇敢だが惨酷」と評し、信澄が2人の罪人を馬に踏み殺させた逸話を記している[12]。また、信澄を殺した信孝は、キリスト教に造詣が深いことで宣教師に高く評価されており、信澄を殺害したことで「三七殿は勇気と信用を獲得し、ただちに河内国のあらゆる有力者たちは彼を訪れ、主君として認めるに至った」[注釈 19]ともフロイスは書いた。
  • 奈良興福寺多聞院英俊は「一段の逸物也」[12][29]とその死を惜しんで高い評価を与えており、谷口克広は信長に似た行動力に富んだ人物だったのではないかとしている。

関連作品[編集]

小説

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ これは『寛政重修諸家譜』による[4]
  2. ^ ただし『絵本太閤記』による異説。
  3. ^ 『阿波国古文書』による[5]
  4. ^ 西教寺の『實成坊過去帳』による法名[7]
  5. ^ 系図纂要』では「信重」とする[6]。後に織田姓に戻した。
  6. ^ 主水左衛門。織田信雄豊臣秀頼に仕える。
  7. ^ 諱について谷口克広は(第2版において)『文書には「信重」とあり「信澄」の署名文書は見られない』としている[9]
  8. ^ 秀吉が大坂城を築く前の石山本願寺跡の城塞。信澄を尼崎城主とするのは誤説。
  9. ^ 織田信勝の暗殺を永禄元年とするのは『信長公記』による。『重脩譜』などの江戸時代の書物は一様に弘治3年説をとるが、谷口克広は弘治3年付の信勝の発給文書の存在を指摘して、公記の信憑性が高いとする[11]
  10. ^ 一般には平姓津田氏であるが、『系図纂要』では橘姓津田氏を授与されたとある[6]
  11. ^ 浅井三代記』『丹羽家譜伝』等による[2]
  12. ^ a b c d e f 信長公記』による[12]
  13. ^ 兼見卿記』による[3]
  14. ^ a b 滋賀県高島市新旭町新庄の放光山大善寺の由緒による[14]。(同市内の別の場所)勝野の大善寺別院の境内に掲示された石版の写真[15]
  15. ^ 『宗久記』による[12]
  16. ^ 釈迦院寬尊『蓮成院記録』(天正10年1月6日の条)による。松永久秀や(大和守護職を受領した)塙直政が非業の死を遂げたことから、縁起が悪いと考えていたようだと同記は記している[24][25]
  17. ^ 当時奈良にいた英俊の『多聞院日記』の2日午後の記録に「惟任並七兵衛申合令生害云々」とあり[27]、当時三河にいた松平家忠の『家忠日記』の3日の条にも「明智日向守小田七兵衛別心か」とある[28]。宣教師の話にも同様のものがある。
  18. ^ フロイス日本史』による[29]
  19. ^ 『フロイス日本史』[33]

出典[編集]

  1. ^ a b 阿部 2001, p. 519
  2. ^ a b c d e f g h 谷口 1995, p. 108
  3. ^ a b c d e f g 岡田 1999, p. 136
  4. ^ a b c d e 堀田 1923, p. 573
  5. ^ 岡田 1999, p. 120.
  6. ^ a b c d 『系図纂要』”. 東京大学史料編纂所. 2016年6月9日閲覧。
  7. ^ 新人物往来社 編「明智光秀の365日」『完全検証信長襲殺 : 天正十年の一番長い日』新人物往来社〈別冊歴史読本〉、1994年、35頁。 
  8. ^ 塙保己一 編「国立国会図書館デジタルコレクション 明智系圖」『続群書類従』 128巻、続群書類従完成会、1926年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553648/74 国立国会図書館デジタルコレクション 
    黒川真道 編『国立国会図書館デジタルコレクショ 美濃国諸旧記』国史叢書、1915年、177頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948838/96 国立国会図書館デジタルコレクショ 
  9. ^ Taniguchi, Katsuhiro; 谷口克広 (2010). Oda Nobunaga kashin jinmei jiten (Dai 2-han ed.). Tōkyō: Yoshikawa Kōbunkan. ISBN 978-4-642-01457-1. OCLC 700504905. https://www.worldcat.org/oclc/700504905 
  10. ^ 谷口 1995, p. 100.
  11. ^ 谷口 1995, p. 100-101.
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 谷口 1995
  13. ^ "大溝城". 日本の城がわかる事典. コトバンクより2020年7月10日閲覧
  14. ^ 平凡社 編『寺院神社大事典 近江・若狭・越前』平凡社、1997年、296頁。ISBN 9784582134032 
  15. ^ 津田信澄の慰霊碑 大善寺” (2020年2月13日). 2021年12月22日閲覧。
  16. ^ 岡田 1999, p. 367.
  17. ^ 岡田 1999, p. 217.
  18. ^ 岡田 1999, p. 369.
  19. ^ 西ヶ谷 2000, p. 200.
  20. ^ 西ヶ谷 2000, p. 176.
  21. ^ 岡田 1999, p. 137, 384
  22. ^ 岡田 1999, p. 72.
  23. ^ 岡田 1999, p. 137
  24. ^ 桐野作人『憤死!覇王の継承者/潰えた「四国管領」の夢』(Kindle)学研〈歴史群像デジタルアーカイブス<織田信忠と神戸信孝>〉、2014年、19頁。 ASIN B00NWBFG5S
  25. ^ 金子拓「天正四年興福寺別当相論と織田信長」『織田信長権力論』(吉川弘文館、2015年)P296-297.(原論文:天野忠幸; 片山正彦; 古野貢; 渡邊大門 編 『戦国・織豊期の西国社会』 日本史史料研究会企画部〈日本史史料研究会論文集〉、2012年)
  26. ^ 岡田 1999, p. 296.
  27. ^ 岡田 1999, p. 419
  28. ^ 松平家忠国立国会図書館デジタルコレクション 家忠日記』 第2、吉川半七〈文科大学史誌叢書〉、1897年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772514/58 国立国会図書館デジタルコレクション 
  29. ^ a b c 岡田 1999, p. 384
  30. ^ 西ヶ谷 2000, p. 256.
  31. ^ 西ヶ谷 2000, p. 229.
  32. ^ 西ヶ谷 2000, p. 78.
  33. ^ 岡田 1999, p. 385
  34. ^ Konoe, Tatsuharu; 近衛竜春. (2022). Oie no daiji. Tōkyō: Shinchōsha. ISBN 978-4-10-350153-4. OCLC 1351358383. https://www.worldcat.org/oclc/1351358383 

参考文献[編集]

関連項目[編集]