瀬名弌明

 
瀬名弌明
時代 江戸時代
生誕 万治2年(1659年
死没 寛保3年1月28日1743年2月22日
改名 貞陳→貞盈→弌明
別名 新八郎、左兵衛、源五郎(通称
弌圓(号)
((新字体で)瀬名一明、一円(弌圓))
戒名 日性
墓所 妙行寺
氏族 瀬名氏清和源氏足利氏今川氏支流)
父母 父:瀬名清貞 母:某氏
兄弟 貞正氏貞氏国弌明加藤祐就貞長
正室:有馬則故の養女
女(瀬名氏明室)、氏明俊光 ほか
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瀬名 弌明(せな かずあき)は、江戸時代前期の旗本。初め貞陳(さだのぶ)、貞盈(さだみつ)と称したが、のちに祖先にあたる瀬名弌秀一字を取って弌明に改名した。

生涯[編集]

旗本瀬名清貞の四男として生まれる。寛文8年(1668年)2月21日、10歳のとき徳川家綱に初謁。延宝2年(1674年)7月12日に家督を継ぎ、小普請組入り。

延宝4年(1676年)4月26日に大番組に列し、元禄4年(1692年)11月19日に番を辞する。その後元禄8年(1695年)4月1日にふたたび大番に就任。元禄10年(1697年)7月26日には切米知行にあらため、下総国匝瑳郡香取郡内に知行地を拝領した。

元禄13年(1700年)10月12日、大坂城在勤の鉄砲奉行となり、正徳元年(1711年)6月15日に勤めを辞した。享保17年(1732年)8月26日に致仕、養子の俊光に家督を譲って一円と号する。

寛保3年(1743年)1月28日没。享年85。四谷妙行寺に葬られる。以後、妙行寺が瀬名家代々の葬地となる。

系譜[編集]

寛政重修諸家譜』によると、実子は女子3人であった。はじめ土屋家から氏明を迎えて婿養子としたが、男子のいないまま先立った。弌明は氏明の娘の一人を養女とし、久保家から俊光を迎えてその婿養子とした。

子女
  • 養子:瀬名氏明(せな うじあき)
    土屋知義(つちや ともよし)の次男、母は某氏。通称甚五郎、初名は土屋知恒(ともつね)。寛文7年(1667年)生まれ。弌明の娘を娶り養子となり、弌明より1字を与えられて瀬名氏明に改名。元禄14年(1701年)1月28日に徳川綱吉に初謁、宝永6年(1709年)4月6日に大番に列した。しかし、正徳5年(1715年)1月19日に49歳で没した。娘が2人おり、1人は弌明の養女となって俊光の妻となる。もうひとりの娘は俊光の養女となった。
  • 女子(瀬名氏明室)
  • 女子
  • 女子(落合豊久室)
  • 養子:瀬名俊光
  • 養女(瀬名氏明の娘、瀬名俊光室)

参考文献[編集]

  • 『寛政重修諸家譜』巻第九十五