秋篠氏

秋篠氏
氏姓 秋篠朝臣
出自 土師宿禰
氏祖 秋篠安人
種別 神別天孫
本貫 大和国添下郡秋篠里
奈良県奈良市秋篠町
著名な人物 秋篠安人
永忠
後裔 御井氏
凡例 / Category:氏

秋篠氏(あきしのうじ)は、「秋篠」をの名とする氏族。姓(カバネ)は当初は宿禰、のち朝臣

概要[編集]

古代氏族である土師氏が源流とされる。

続日本紀』によると、桓武天皇天応2年5月(782年、この年の8月に延暦と改元)に、少内記で正八位上土師宿禰安人が言うには、

「私たちの遠い祖先の野見宿禰は物の形象を造って殉死する人の代わりにしました。しかし、その後、子孫は凶儀(とされる葬儀)に預かるようになりました。先祖の業績をたずねて思いますに、これは本意ではありません。そこで一族の土師宿禰古人らは居住地の名前に因んで菅原と改氏しましたが、その時私、安人は遠国に任命されていました。そこで自分も土師の氏の名を改めて、秋篠とすることをお願いいたします」

上記のような請願により、詔で安人およびその兄弟男女6人に「秋篠」の氏が授けられたというのが氏の始まりである[1]。その後、延暦4年(785年)8月に土師淡海とその姉の諸主らにも「秋篠宿禰」の氏姓が与えられている[2]。その後、延暦9年(790年)12月に改氏姓された大江朝臣にならい[3]、同月末に菅原道長・秋篠安人も朝臣を賜与されている。この時に土師一族の四腹(4系統)、即ち管理をする古墳の所在地に従って、菅原・秋篠・大枝の区分が取り決められた[4]。大枝氏が「毛受」、すなわち百舌鳥古墳群の営まれた和泉国大鳥郡百舌鳥(大阪府堺市)を拠点としているように、大和国添下郡秋篠菅原の地には、佐紀盾列古墳群宝来山古墳が存在し、これらを本拠とした氏族であったものと思われる。

日本後紀』によると、延暦15年(796年)7月に、河内国の大江・菅原・秋篠氏の者を右京に貫付(戸籍登録)したとあり[5] 、同年の11月の記述に、「河内国志紀郡荒田一町を正七位下秋篠朝臣清野に賜った」ともある[6]弘仁2年(811年)3月に、河内国の土師宿禰常磐に秋篠朝臣を賜姓したともあり、河内国にも一族がいたことが見える[7] 。なお、志紀郡土師郷は、古市古墳群の存在する地域でもある。

著名な人物は始祖の秋篠安人や、弘仁7年(816年)4月に卒去した永忠であるが、一族の中には弘仁3年(812年)6月に「左京の人従五位下秋篠朝臣上子(かみこ)・秋篠朝臣清子(きよこ)・右京の人従五位下秋篠朝臣室成(むろなり)・従七位上秋篠朝臣宅成(やかなり)らに御井朝臣を賜姓した」とあるように[8] 、「御井(みい)朝臣」を名乗るものも現れており、また『続日本後紀天長10年(833年)2月の秋篠雄継や秋篠吉雄のように菅原朝臣に改氏姓したものもあった[9]

脚注[編集]

  1. ^ 『続日本紀』巻第三十八、桓武天皇、今皇帝、天応2年5月21日条
  2. ^ 『続日本紀』巻第三十七、桓武天皇、今皇帝、延暦4年8月1日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第四十、桓武天皇、今皇帝、延暦9年12月1日条
  4. ^ 『続日本紀』巻第四十、桓武天皇、今皇帝、延暦9年12月30日条
  5. ^ 『日本後紀』巻第五、桓武天皇、延暦15年7月19日条
  6. ^ 『日本後紀』巻第五、桓武天皇、延暦15年11月2日条
  7. ^ 『日本後紀』巻第二十一、嵯峨天皇、弘仁2年3月2日条
  8. ^ 『日本後紀』巻第二十二、嵯峨天皇、弘仁3年6月26日条
  9. ^ 『続日本後紀』巻第一、天長10年2月庚午条

参考文献[編集]

  • 『続日本紀』5 新日本古典文学大系16 岩波書店、1998年
  • 『続日本紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1995年
  • 『日本後紀』全現代語訳(上)・(中)・(下)、講談社学術文庫、森田悌:訳、2006年 - 2007年
  • 『続日本後紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、森田悌:訳、2010年
  • 『日本古代氏族人名辞典』、吉川弘文館坂本太郎平野邦雄監修、1990年
  • 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年