鷲津砦

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鷲津砦
愛知県
鷲津砦推定地の明忠院裏山を望む (2020年(令和2年)5月)
鷲津砦推定地の明忠院裏山を望む
2020年令和2年)5月)
城郭構造 平山城
築城主 織田信長
築城年 1559年永禄2年)
廃城年 1560年(永禄3年)
指定文化財 国の史跡(附)
位置 北緯35度4分10.43秒 東経136度56分32.24秒 / 北緯35.0695639度 東経136.9422889度 / 35.0695639; 136.9422889座標: 北緯35度4分10.43秒 東経136度56分32.24秒 / 北緯35.0695639度 東経136.9422889度 / 35.0695639; 136.9422889
地図
鷲津砦の位置(愛知県内)
鷲津砦
鷲津砦
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鷲津砦と大高城・丸根砦との位置関係
1
字鷲津山の史跡指定地(「鷲津砦阯」碑)
2
字鷲津にある鷲津砦推定地(明忠院裏山)
3
大高城
4
丸根砦

鷲津砦(わしづとりで)は、愛知県名古屋市緑区大高町にあった中世の(城館)。

概要[編集]

1559年永禄2年)に織田信長によって築かれ、翌1560年(永禄3年)には桶狭間の戦いの前哨戦が本砦を巡って行われている[1]。大高町のうち、字鷲津山の丘陵がその故地とされ、1938年昭和13年)12月14日に大高城跡が国の史跡に指定された際、丸根砦跡と共に約1.455ヘクタール(1町4反6畝22分)の範囲[2]が「附(つけたり)」として指定されているが[3]、正確な所在地ははっきりしていない[1]

位置[編集]

JR東海道本線 大高駅から東に約200メートル、西方へ舌状に延びた丘陵の頂部付近に位置する[1]。大高城跡からは北東に約700メートル[4]、丸根砦跡からは北北西に約600メートルの距離にある[1]

背景[編集]

16世紀なかば、尾張で勢力を伸ばしていた織田信秀の死後、子の信長が跡を継ぐと、それまで織田方に従っていた鳴海城主の山口教継が織田方を見限って駿河今川義元に与し、結果として義元は大高城を手中にする[注 1]。そこで信長は、鳴海城に圧力をかけるために丹下砦善照寺砦中島砦を築き、さらに大高城と鳴海城との往来を遮断するために築いたのが、丸根砦と当砦であったとされる[6]。当砦には守将として織田秀敏飯尾定宗尚清父子が置かれると共に[注 2]、520騎が配置されたともいう(『中古日本治乱記』)[8]。しかし永禄3年5月19日1560年6月12日、桶狭間の戦いが行われた当日)早暁、今川方の重臣であった朝比奈泰朝率いる2,000人の軍勢が攻撃を開始、門扉や営柵に火が放たれて激戦となり、立てこもっていた飯尾定宗らはことごとく死傷、残兵も清洲方面へ敗走し、午前10時頃までには陥落したという[2]

構造[編集]

寛文村々覚書』(17世紀)や『張州府志』(1752年宝暦2年))、『尾張志』(1844年天保15年))は、「鷲津古城」として東西14間(約25メートル)・南北15間(約27メートル)の規模を示す[注 3]。他方で、徳川家(蓬左文庫)所蔵の『尾州知多郡大高之内鷲津丸根古城図』は、約37メートル四方の曲輪に東西約30メートル、南北約16メートルの曲輪が幅約3メートルのに囲まれて南北に並ぶという詳細な構造を記している[12][1]。また『日本城郭大系』は、標高35メートルの丘上に東西約35メートル・南北40メートルの規模を持ち、堀を有していたという記録に触れているが、出典をつまびらかにしていない[13]

現況[編集]

鷲津砦跡の指定地は、長寿寺本堂の背後にあたる鷲津砦公園およびその東に広がる雑木林として保存されているが、測量調査や発掘調査はなされておらず、城館の遺構を確認することはできない[1]。指定地が指定される以前より個人が「鷲津砦阯」碑を建立しているが、1929年(昭和4年)発行の『愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告』で若山善三郎は「大体この辺を想像したるに過ぎず。」とし[14]、当該地である字「鷲津山」のほかに字「鷲津」地内にも候補地があることを述べている[12]。『古城図』に記された遺構を字「鷲津山」の指定地に比定することは困難であり、現状では、指定地の北隣にあたる字「鷲津」地内の丘陵(明忠院裏山)が砦跡の候補地として最も有力であるとされている[1]

ギャラリー[編集]

交通[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「(山口左馬助、)既に逆心を企て、駿河衆を引き入れ、ならび大高の城、沓懸の城、両城も、左馬助調略を以て乗つ取り、…」(『信長公記』(巻首 「おどり御張行の事」)[5]
  2. ^ 「一、鷲津山には、織田玄蕃・飯尾近江守父子入れをかせられ候ひき。」(『信長公記』(巻首 「鳴海の城へ御取出の事」)[7]
  3. ^ 「東西拾四間 南北拾五間」(『寛文村々覚書』[9])、「東西十四間。南北十五間。」(『張州府志』(巻第三十智多郡)[10])、「東西十四間南北十五間」(『尾張志』(知多郡)[11])。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g 考古2 2013, pp. 352.
  2. ^ a b 大高町誌編纂委員会 1965, pp. 146.
  3. ^ 国指定文化財等データベース”. 文化庁. 2012年8月4日閲覧。
  4. ^ 現地案内板より。
  5. ^ 太田牛一 1991, pp. 48.
  6. ^ 新修名古屋市史第二巻 1998, pp. 623.
  7. ^ 太田牛一 1991, pp. 53.
  8. ^ 榊原 1983, pp. 18.
  9. ^ 覚書下 1966, pp. 2.
  10. ^ 史談会 1914, pp. 97.
  11. ^ 尾張志知多郡 1898, pp. 85.
  12. ^ a b 調査報告第二巻 1973, pp. 8.
  13. ^ 創史社 1979, pp. 302.
  14. ^ 調査報告第二巻 1973, pp. 9.

参考文献[編集]

  • 深田正韶 著、岩間彦太郎 編『尾張志知多郡』博文社、1898年3月16日。 
  • 松平君山 著、名古屋史談会 編『張州府志 六』名古屋史談会、1914年12月20日。 
  • 大高町誌編纂委員会 編『大高町誌』大高町、1965年3月20日。 
  • 『名古屋叢書続編 第三巻 寛文村々覚書(下)』名古屋市教育委員会、1966年9月30日。 
  • 『愛知県郷土資料叢書第十五集の二 愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告 第二巻』(復刻刊行)愛知県郷土資料刊行会、1973年11月20日。 
  • 創史社 編『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社、1979年5月13日。 
  • 榊原邦彦 著「桶廻間合戦の城」、榊原清彦 編『奈留美 第十三号』鳴海土風会、1983年1月13日。 
  • 太田牛一桑田忠親校注)『改訂 信長公記』(9刷)新人物往来社、1991年9月20日。ISBN 4-404-00709-4 
  • 新修名古屋市史編集委員会 編『新修 名古屋市史 第二巻』名古屋市、1998年3月31日。 
  • 新修名古屋市史資料編編集委員会『新修名古屋市史 資料編 考古2』名古屋市、2013年3月31日。ISBN 978-4-903305-09-7