麻績王

麻績王(おみのおう、生没年不詳)は、7世紀末の皇族麻続王麻積王とも称される。

出自をめぐって大友皇子天智天皇の太子)、美努王橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。

日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、この他に『日本書紀』には、麻績王の子の1人を伊豆諸島伊豆大島流罪にし、もう1人を血鹿嶋(長崎県五島列島)に流罪にしたとある。また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島(愛知県渥美郡伊良湖岬[1])に流罪されたとある[2]。さらに、『常陸国風土記』には常陸国行方郡板来村西の榎木林に居らせたとあって、流罪先も諸説ある[3]

『万葉集』には、伊勢国の伊良虜の島に流された麻績王の事を悲しんだ人が「打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや 伊良虞の島の 珠藻刈ります」と歌ったのに対し、麻績王が答歌として「うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の玉藻刈り食む」と詠んだというの和歌が伝えられている。

なお、鳥取県鳥取市国府町岡益にある梶山古墳は麻績王の古墳であるともいわれてる。

注釈[編集]

  1. ^ 当時、志摩国は成立しておらず、東海道は伊勢国(志摩国)から三河国と海路で通じていた。そのため、志摩半島から渥美半島の海上にあった島々は全て伊勢国に属して対岸の伊良湖岬にちなんで「伊良虜の島」と呼ばれていたと考えられている(門井直哉「文学にみる七・八世紀の交通」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P34-36)。
  2. ^ 麻績王の皇女が、忌部子人の子弟に降嫁しており、忌部子人のとりなしによって、遠流にならずに伊勢神宮のある伊勢国流罪に決まったとする説もある。
  3. ^ 壬申の乱で、大友皇子側についた事が原因で流罪に処されたとする説もある。

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