エリック・ベルナール
エリック・ベルナール | |
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基本情報 | |
国籍 | フランス |
出身地 | 同・マルティーグ |
生年月日 | 1964年8月24日(59歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1989 -1991,1994 |
所属チーム | '89-'91ラルース '94リジェ '94ロータス |
出走回数 | 47(45 starts) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 10 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1989年フランスGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1994年ヨーロッパGP |
エリック・ベルナール(Éric Bernard, 1964年8月24日 - )は、フランス出身の元レーシングドライバー。
経歴[編集]
F1以前[編集]
ポール・リカールのウィンフィールド・レーシングスクール出身。1983年にフォーミュラ・ルノーのスカラシップを獲得し、翌1984年から同シリーズに参戦。2年目の1985年にはチャンピオンとなり、1986年からはフランスF3にステップアップ。1987年までの2年間でそれぞれシリーズ5位・2位の成績を収めた。
ジャン・アレジ、エリック・コマスと共に、それぞれの頭文字を取って「フランスの若手有望株・ABC」と呼ばれた(ヤニック・ダルマスを加えて「ABCD」とされることもある)。
1988年からは国際F3000にステップアップし、2年間参戦。1989年の第4戦ヘレス・サーキットではPP・FL・優勝すべてを獲るハット・トリックで制すなど、アレジ、コマスに次ぐ年間ランキング3位を得る。
F1[編集]
ラルース時代[編集]
1989年の中盤、ヤニック・ダルマスの後任としてラルースのシートを獲得[1]。デビュー戦となった地元のフランスGPでは、予選15位から11位完走を果たすが、続くイギリスGPではリタイヤ。そしてこの後、ベルナールのスポンサーであるエルフ石油が、ベルナールのF3000タイトル争いを重視したことと、ラルースがエルフのライバルであるBPからの支援拡大を受け入れたことに難色を示したため[2]、ミケーレ・アルボレートにラルースのシートを譲る結果となり、ベルナールのF1初年度は2レースのみの参戦となった。 また、この年のシーズンオフにはマクラーレンを離れることになったアラン・プロストが、ジョン・バーナードと共同で立ち上げた新チームにセカンドドライバーとして加入する話が持ち上がったが、スポンサーを得られなかったことでプロストがフェラーリに移籍を決めたためチーム設立の話も無くなり、ご破算となっている。
1990年はラルースのレギュラーシートを獲得、鈴木亜久里のチームメイトとなる。第4戦モナコGPで6位に入り、F1初入賞。その後は第8戦イギリスGPで4位、第10戦ハンガリーGPで6位と計3度入賞。亜久里と共に活躍し、チームをランキング6位に導いた。
しかしシーズン終了後、リジェチームからエントリー名に関してクレームが付き、ラルースチームとしては全ポイントを抹消される結果となる(ドライバーズポイントは抹消されず)。これによって国際自動車連盟(FIA)から支給されるはずだった資金がゼロになり、チームの資金難が深刻化してゆく。
そのような状況で迎えた1991年は亜久里共々苦しいシーズンを強いられ、完走は2回。第6戦メキシコGPでの6位入賞以後、第14戦スペインGPまで2度の予選落ちを含めて一度も完走することができなかった。第15戦日本GPではフリー走行中にヘアピンの立ち上がりでスピンし、コース内側のコンクリートウォールに深い角度で激突した。このクラッシュの衝撃で外れたペダルによりベルナールは左足を骨折し[3]、このレースと最終戦を欠場した[4]。
休養期間[編集]
1992年は、左足のリハビリの最中に開幕戦を迎えた。そのため、この年はF1に参戦せず、ウィリアムズからテストドライバー、チーム・メナードからインディ500、プジョーからル・マン24時間レースのオファーを受けた。その中でプジョー・905のテストに参加したが、怪我が完治していなかったのでマーク・ブランデルが選ばれた。ワーウィック・ダルマス・ブランデルはその年のル・マンを制覇した[5]。
リジェ、ロータス時代[編集]
1993年はリジェのテストドライバーとなる。リザーブドライバーとしても登録されていたが、レースへの出走機会は無かった。
翌1994年、リジェのレギュラードライバーとして3年ぶりにF1のレースシーンに復帰、第9戦ドイツGPでは、26台中18台がリタイヤする波乱のレースを生き残り、3位に入賞。最初で最後となる表彰台を獲得した。しかし、シーズンを通して速さ・安定感ともにルーキーのオリビエ・パニスに押され、予選ではパニスに3勝10敗、獲得ポイントでも差をつけられた。ベルナールが3位に入ったドイツGPでも、パニスはその前である2位を獲得していた。
第14戦ヨーロッパGPにて、ジョニー・ハーバートとのトレードという形でロータスに移籍。しかし、ラスト2戦はミカ・サロにシートを奪われ、ロータス・109での参戦は1レースだけに留まった。
1995年は再びラルースと契約していたが、チーム自体が開幕戦に参戦することなくF1から撤退。これ以後ベルナールがF1シートを獲得することは無かった。
F1以降[編集]
FIA GT選手権、アメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)、ル・マン24時間レースなどに参戦し、2002年にドライバーを引退した。その後はシャルル・ピック、その弟のアーサー・ピックのサポートをしていた。現在は、南プロバンスのルベロンでトリュフの栽培をしている[5]。
人物[編集]
ラルース時代のチームメイトの鈴木亜久里は「速かったし、性格もすごく良かった」とインタビューの中で当時を述懐している。
また、同チームのエンジニアであるミッシェル・テツは、ドライバーとしてのベルナールを「技術に明るく、忍耐強くて、気分に左右されない安定感がある」と評した。
その人柄については、「礼儀正しく品があって、育ちの良さを感じさせた。困難な時でもいつも前向きだから、苦しいチーム事情の中で士気を維持するのにどれほど役立ってくれたか。」と評した。その一方で、「アグレッシブなレースをするが、根が優しくて物静かな男だったため、エンジニアに厳しく接することができない」とも指摘した[5]。
パーマを掛けた特徴的な髪型から、日本でのテレビ実況担当の古舘伊知郎は、「フランス片田舎のパンチパーマ男」と呼んだ。
レース戦績[編集]
フランス・フォーミュラ3選手権[編集]
年 | チーム | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 順位 | ポイント |
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1986年 | エキュリエ・エルフ・ウィンフィールド | マルティニ・Mk49 | アルファロメオ | NOG 7 | ALB 13 | MAG 4 | PAU Ret | LAC Ret | ROU 3 | LEC 3 | ALB 4 | BUG 4 | LED Ret | CET DNQ | 5位 | 48 | ||
1987年 | エキュリエ・エルフ | ラルト・RT31 | ALB 4 | NOG 2 | MAG 3 | DIJ 1 | LEC 2 | PAU 3 | ROU 3 | LEC 2 | LAC 2 | NOG 10 | BUG 19 | LED 1 | CET 5 | 2位 | 129 |
マカオグランプリ[編集]
年 | チーム | シャーシ/エンジン | 予選 | レース1 | レース2 | 総合順位 |
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1987年 | エキュリエ・エルフ | ラルト・RT31アルファロメオ | 12位 | 台風のため1ヒート制 | 8位 |
国際F3000選手権[編集]
年 | チーム | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 順位 | ポイント |
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1988年 | チーム・ラルト | ラルト・RT20 | ジャッド・BV | JER 6 | VLL 10 | PAU 4 | SIL 11 | MNZ DNQ | PER | 9位 | 13 | |||||
ブロムレイ・モータースポーツ | レイナード・88D | コスワース・DFV | BRH DSQ | BIR DSQ | BUG Ret | ZOL 4 | DIJ 2 | |||||||||
1989年 | DAMS | ローラ・T89/50 | 無限・MF308 | SIL Ret | VLL Ret | PAU Ret | JER 1 | PER Ret | BRH 4 | BIR 4 | SPA Ret | BUG 3 | DIJ 2 | 3位 | 25 |
F1世界選手権[編集]
年 | 所属チーム | シャーシ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
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1989年 | ラルース | LC89 | BRA | SMR | MON | MEX | USA | CAN | FRA 11 | GBR Ret | GER | HUN | BEL | ITA | POR | ESP | JPN | AUS | NC | 0 |
1990年 | LC89B | USA 8 | BRA Ret | 13位 | 5 | |||||||||||||||
LC90 | SMR 13 | MON 6 | CAN 9 | MEX Ret | FRA 8 | GBR 4 | GER Ret | HUN 6 | BEL 9 | ITA Ret | POR Ret | ESP Ret | JPN Ret | AUS Ret | ||||||
1991年 | LC91 | USA Ret | BRA Ret | SMR Ret | MON 9 | CAN Ret | MEX 6 | FRA Ret | GBR Ret | GER Ret | HUN Ret | BEL Ret | ITA Ret | POR DNQ | ESP Ret | JPN DNQ | AUS | 18位 | 1 | |
1994年 | リジェ | JS39B | BRA Ret | PAC 10 | SMR 12 | MON Ret | ESP 8 | CAN 13 | FRA Ret | GBR 13 | GER 3 | HUN 10 | BEL 10 | ITA 7 | POR 10 | 18位 | 4 | |||
ロータス | 109 | EUR 18 | JPN | AUS |
ル・マン24時間レース[編集]
年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
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1995年 | クラージュ・コンペティション | アンリ・ペスカロロ フランク・ラゴルス | クラージュ・C41-シボレー | WSC | 26 | DNF | DNF |
1996年 | Ennea SRL Igol | ジャン=マルク・グーノン ポール・ベルモンド | フェラーリ・F40 GTE | GT1 | 40 | DNF | DNF |
1997年 | DAMS | ジャン=クリストフ・ブイヨン フランク・ラゴルス | パノス・エスペランテ GTR-1 | GT1 | 149 | DNF | DNF |
1998年 | パノス モータースポーツ Inc. DAMS | クリストフ・タンソー ジョニー・オコーネル | GT1 | 236 | DNF | DNF | |
1999年 | パノス・モータースポーツ | デビッド・ブラバム ブッチ・ライツィンガー | パノス・LMP-1 ロードスター-S | LMP | 336 | 7位 | 6位 |
2000年 | チーム・DAMS | エマニュエル・コラール フランク・モンタニー | キャデラック・ノーススター・LMP | LMP900 | 300 | 19位 | 9位 |
2001年 | エマニュエル・コラール マルク・ホーセンス | キャデラック・ノーススター・LMP01 | LMP900 | 56 | DNF | DNF | |
2002年 | エマニュエル・コラール J.J.レート | キャデラック・ノーススター・LMP02 | LMP900 | 334 | 12位 | 10位 |