日本の鉄道事故 (1950年から1999年)

日本の鉄道事故(にほんのてつどうじこ)では、1950年から1999年までに発生した日本の鉄道事故について記述する。

鉄道事故等報告規則制定(昭和62年)以前の事故についても、事故の種別を便宜的に【】内に示している。

1950年代[編集]

1950年[編集]

湘南電車火災事故[編集]

1950年(昭和25年)2月9日 7時41分
東海道本線保土ケ谷 - 戸塚間(当時東戸塚駅は未開業)において80系電車(14両編成)の試運転列車が走行中、13両目のモハ80027のパンタグラフから電弧を発したため、車掌が非常ブレーキ(車掌弁)を扱い停車したが、その際に架線が切断されて最後尾のクハ86017に接触。同車と隣のモハ80027が炎上し焼失した。
強風により飛来してきた導電性の異物がパンタグラフに接触、パンタグラフと車体が短絡(ショート)したことが原因であると推定された。
また、現場近くの変電所が事故電流を検知遮断せず、火災発生後も約25分にわたり送電し続けていたため、消防車からの放水による消火作業ができなかったことが被害を拡大する要因となった。そのため事故後、通電中の1500V架線に対する放水の試験が実施され、水質を考慮し筒口を接地することで放水が可能であるとされた。
焼失した車両は2両とも国鉄大井工場にて復旧された。

東海道線貨物列車脱線転覆事故[編集]

1950年3月27日 23時3分
東海道線清水駅 - 草薙駅間を走行中の静岡新宿行き1380貨物列車の運転士が、スパークを感知したため非常ブレーキをかけて停車を試みたところ、前から4両目以降の24両が脱線転覆し、東海道線の上下線(東京起点170.508 km地点)および並走する静岡鉄道静岡清水線桜橋駅付近の下り線を塞いだ[1]
沿線各駅の保線員を総動員し、地元消防団員の協力のもと約800人体制で復旧工事に着手した。夜間帯であったことから夜行列車は軒並み立ち往生し、復旧の見込みは上り線が29日16時、下り線が同日18時とされた。
事故の連絡を受けた静岡鉄道川井健太郎社長は本社に幹部を招集して対策を協議し、唯一事故による影響を受けなかった静岡清水線の上り線を一時的に東海道線と接続して切替運転を行うことを国鉄に申し入れた。当時の静岡清水線は30 kgレールを使用していたため、重量のある国鉄車両を通過させることに不安が残ったが、国鉄側はこれを受け入れた。
両者の保線員によって東海道線と静岡清水線の接続工事が行われ、28日16時23分に試運転を完了した。30分後の16時53分に博多発東京行き進駐軍専用列車が最徐行で通過し、続いて東京発長崎行き急行列車が通過して単線運転が開始された。これによって東海道線の長期不通は回避され、その間に国鉄の復旧工事が進められた。このほか、静岡鉄道ではバス路線を一部休止し、清水・静岡両駅で足止めを食らった乗客のためにバス40台を用いて連絡輸送を行った。
これらの静岡鉄道による救援活動は、同年5月15日に大屋晋三運輸大臣から運輸大臣表彰状を授典され、加賀山之雄国鉄総裁からは感謝状が贈呈された[2]。民間鉄道事業者が運輸大臣表彰を受賞したのはこれが初の事例である。

奥羽本線三関駅列車暴走事件[編集]

1950年7月11日
奥羽本線三関駅構内のポイントが切り替わらず、通過中の貨物列車が安全側線に進入して脱線転覆した。
警察は、同年7月13日の時点で乗務員、駅員に過失がなく計画的妨害であったと判断[3]し、7月27日に三関駅の元線路工手を容疑者として逮捕した[4][5]

室蘭本線覚生川鉄橋列車脱線転落事故[編集]

1950年(昭和25年)8月1日 22時55分ごろ
錦多峰駅(現・錦岡駅)21時25分発の室蘭本線室蘭行き218列車(11両編成、牽引機C51 29)が同駅を1時間11分遅れで発車し、駅から約2 kmの地点の覚生(オコップ、またはオボップ)川鉄橋に差しかかったところで橋脚が崩壊した。1両目客車と2両目荷物車が大破して濁流に呑まれ、3両目客車は4両目客車内に車体を半分突っ込み、死者17人、重軽傷者57人、行方不明者12人[6][7][注 1]を出した。この218列車は、いわゆる「買い出し列車」であった。
事故の規模の割に死傷者が少ないのは、発車直後に車掌が函館駅以遠に向かう乗客を5両目以降に移動させたためであった。
なお、約200人を乗せた救援列車が翌日未明に苫小牧駅西方の錦多峰川鉄橋に差しかかったところ、そちらでも橋脚が崩壊したが、こちらは軽傷者2人で済んだ[8]
札幌鉄道管理局は、事故の原因として前日までの豪雨で上流部の木造橋が押し流されて鉄橋の橋脚に当たり、三度傾いたところへ列車が進行してきたため脱線転覆したものと説明している[9]
流失した荷物車には現金約800万円(2023年現在の貨幣価値で2億円前後)が載せられていたが、回収することはできなかった[10]

身延線列車火災事故[編集]

1950年(昭和25年)8月24日15時23分ごろ
身延線寄畑 - 内船間を走行していた富士発甲府行き普通列車第615電車(62系電車 (初代)32系電車による4両編成、進行方向からモハ30173+クハ101+サハ701+モハ62001)[注 2]が、同区間にある島尻トンネルを走行中に出火して全焼した。
当時の新聞によると、乗客500名(朝日)または400名(山梨日日)のうち9名が軽傷を負ったものの、死者は発生しなかった。
事故原因は諸説[注 3]あるが、トンネル進入時にパンタグラフが急降下して折り畳まれたことで、パンタグラフと架線との間にできたわずかな隙間にアークが連続発生したことで架線を溶断して垂下させ、最後尾のモハ62001の屋根に接触して全車両に燃え広がったものと推定されている[11][12]
なお、身延線のトンネルは国鉄の他の路線と比較して天地寸法が狭小であるため、通常車両限界ではなく縮小車両限界適用区間であり、その走行に対しては屋根高さやパンタグラフの折り畳み高さが低くなるようにした専用車両を要する。しかし、この編成に連結されていたモハ30173は、本来はトンネルのない富士駅 - 西富士宮駅間の区間運転用の車両であり、身延線のトンネル通過を禁じられていた車両であったが、運用担当者が誤って甲府行きに充当したために事故を起こしたとみられている。
編成全車両が全焼したが、モハ62001は焼損したまま西武鉄道へ譲渡され、モハ30173は国鉄豊川分工場でクハ47023に改造のうえ復旧[注 4]したが、中間のクハ101とサハ701については記録がなく廃車されたものと思われる。[13]
事故車両の62系電車は、身延線用として折り畳み時の高さを低く抑えたパンタグラフを導入していたが、この事故により離線距離が充分確保されていないものと判断された。事故後はパンタグラフ折畳高さ上限を3,960 mm[注 5]と定められ、同時に身延線を走行する車両に対してパンタグラフ搭載部を低屋根化する改造工事、および不適合車両の他地域転配などが行われている。
事故後に身延線へ投入された車両についても、パンタグラフ部の屋根高を低く抑えた車両や、狭小トンネルに対応したパンタグラフを搭載した車両が導入されている。分割民営化後の東海旅客鉄道(JR東海)においても、車両新造の際は一部の車両[注 6]を除いて身延線への入線を考慮した屋根高さで新規設計されたり、既存車でも折畳高を低く抑えられるシングルアームパンタグラフに載せかえるなどの対策を行っており、現在に至るまで建築限界上の特別な影響を受けている。
また、身延線同様に狭小トンネルを有する中央本線においても、狭小トンネルを45 km/h以下で通過することを条件に通常の屋根高さの車両が使用されることがあったが、当事故後にそれを一掃すべく、翌1951年7月からモハ30形7両を低屋根改造のうえで中央本線に専用配備したほか、防火性と狭小トンネルに対応した初の全金製低屋根電車であるモハ71形試作車も登場した。
この事故は、国鉄における車両火災・トンネル事故対策の契機にはなったものの、翌1951年には本件事故よりも多くの死傷者・被害を出した桜木町事故が発生している。

広島電鉄宮島線多重衝突事故[編集]

1950年(昭和25年)12月24日8時45分ごろ
広島電鉄宮島線楽々園駅西側の踏切にて自動車と上り電車が衝突し、電車が脱線。そこに走行してきた下り電車が衝突した(朝日新聞では三重衝突と表現している)。自動車の運転手1人が死亡、電車の乗員乗客12人が重軽傷[14]

1951年[編集]

桜木町事故[編集]

1951年(昭和26年)4月24日国鉄戦後五大事故
(京浜線桜木町駅電車火災事故、桜木町国電火災)
京浜線の電車(モハ63形、5両編成1271B列車)が、桜木町駅構内で碍子交換工事中に誤って切断され、垂れ下がっていた架線に接触、電流の短絡により炎上。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106名、重傷者92名を出す大事故となった。
その当時、京浜線電車に使用していた63系電車戦時設計に起因する粗悪な構造が死傷者を多くしたとして、国電の安全対策強化の契機となった。

1952年[編集]

青梅線小作駅貨車暴走事故[編集]

1952年(昭和27年)2月19日
青梅線小作駅構内に留置中の貨車(計4両)が動き出し、約3.7 km離れた福生駅まで暴走したのち引き込み線に入り、そこに停車していた貨車に激突して大破した。当時は三鷹事件などが発生した時期であり、この暴走事故も意図的に起こされた事件ではないかとして共産党活動家などが逮捕されたが、1968年に被告全員の無罪が確定した。

日暮里駅構内乗客転落事故[編集]

1952年(昭和27年)6月18日 7時45分
国鉄日暮里駅構内の南跨線橋の10番線に面した羽目板が利用客の重量に耐え切れなくなり破損し、数十人が7 m下の線路に転落した。そこへ走行してきた京浜東北線浦和行き電車にはねられ8名が死亡、5名が重軽傷を負った。
事故原因は跨線橋(1928年建設)が老朽化しており、さらに破損箇所は将来延長する予定だったため補強がされていなかった[15]こともあるが、当日未明に上野駅構内で発生した信号所火災の影響で東北本線の上り列車が日暮里駅に臨時停車していたことに加え、並行する京浜東北線でも6時56分に車軸が破損するトラブルがあって一時運転を見合わせていたため、平常以上の乗客で混雑していたためでもある。上野方に急カーブがあり見通しが利かず、運転士による発見が遅れたことも被害を大きくした。

まりも号脱線事故[編集]

1952年(昭和27年)6月28日 9時17分ごろ
函館本線余市駅構内を進行中の上り急行「まりも」の機関車(本務機関車+補助機関車)と客車5両が脱線。機関車の機関助手1名が軽傷を負った。少年の置き石が原因。
1951年5月17日に発生した「まりも号脱線事件」とは別件の事故である。

1953年[編集]

宮地岳線正面衝突事故[編集]

1953年(昭和28年) 7月8日7時40分ごろ[16]
西日本鉄道宮地岳線(現・貝塚線)西鉄新宮駅 - 三苫駅間で木造車と鋼製車が正面衝突し、4名が死亡、97人が重軽傷を負った。
新宮発下り(貝塚・福岡市内方面)の107号電車が三苫駅西方約200 m付近にて、昭和28年西日本水害の影響で地盤がゆるんだことによって発生した土砂崩れを発見。約10 mにわたって発生しており、線路が埋没していた。107号電車は乗客を現場で降車させて単線を引き返していた際、これを知らずに走行していた後続の109号電車と正面衝突したものである。107号車が徐行をしていなかったことと、乗客をほとんど下ろしていた107号車が鋼製車で、通勤・通学客で満員であった109号車が木造車であったことといった不運が重なり、衝突によって107号車は109号車に3 - 4 mほど食い込んだ。死者のうち2名は福岡市内へ通学する中学生で、重軽傷者の中にも通学中の中学生が多かったという。
三苫駅は無人駅であり、107号車の車掌はタブレットを持って徒歩で次の和白駅に知らせた。和白駅から連絡および救援要請を受けた新宮駅助役はタブレットのない107号車が引き返すとは思わず、109号車を現場に向けて発車させた。このような西鉄側のミスや運転規則無視を原因とし、糟屋地区警察署は関係者4人を業務上過失致死傷罪で立件した。

1954年[編集]

1955年[編集]

飯田線大表沢鉄橋脱線転覆事故[編集]

大表沢鉄橋脱線転覆事故現場
1955年(昭和30年) 1月20日21時5分ごろ[17]
長野県下伊那郡泰阜村飯田線の明島川にかかる大表沢鉄橋で、豊橋飯田行きの列車(2両編成、モハ14033+クハ18003)が線路上に土砂があるのを発見して非常ブレーキをかけたが間に合わず、土砂に乗り上げて脱線転覆。先頭車両は仰向け、後部車両は横倒しとなり大破。乗客33名のうち5名が死亡。

東海道本線東田子の浦列車衝突事故[編集]

1955年 (昭和30年)5月17日2時19分
東海道本線原駅 - 東田子の浦駅間の植田踏切で、京都東京修学旅行3138列車(EF58 66+客車11両・乗客837名)の機関士が立ち往生していた在日アメリカ合衆国軍トレーラーを発見。列車は非常ブレーキをかけたが間に合わず衝突し、120 mほど走行して停車した。衝突の衝撃で、大破したトレーラーの荷台に搭載されていた揮発油を原料としたペンキに引火した。
火は編成中3号車に組成されていたスハ32 266に延焼し、さらに機関車と客車4両を全焼、1両を半焼させた。深夜の事故にもかかわらず、機関士、機関助士、車掌、乗客、周辺住民が連携して後部6両が切り離され、延焼を回避した。また乗務員による乗客の避難誘導により重傷2名・軽傷31名を出したものの、死亡者は出なかった。
被災車両はいずれも大きく損傷したものの、全車廃車とならず以下の修復作業を実施した。
  • EF58 66:浜松工場で甲修繕を施工。
  • スハ32 266:名古屋工場でオハ46形に準じた広窓切妻鋼板屋根とした新製構体への載せ替えと台枠改造を施工しオハ35 1314に改番。
  • スハフ32 257:小倉工場でスハ32 266と同様の工事を施工しオハフ33 627に改番。
  • オハ35 342・923・スハ42 63:小倉工場で構体載せ替えを施工したが改番は実施せず原番号で復旧。

1956年[編集]

関西本線列車脱線水没事故[編集]

減水で姿を現した客車
1956年(昭和31年)9月27日7時20分ごろ
関西本線 - 加太間を走行中の亀山発湊町(現・JR難波)行き列車が、金場トンネルを出て150 mほどの地点で土砂崩れに巻き込まれ、客車6両のうち2両目の前後の連結器が外れて脱線、加太川に転落した。客車は水没し、乗客3名は救助されたが、残りの8名(旅客5名、職員3名)は激流に呑まれ死亡した。事故当時は台風15号が接近中であった。[18][19]

参宮線六軒駅列車衝突事故[編集]

1956年(昭和31年)10月15日
参宮線(当該箇所は現在の紀勢本線六軒駅での列車衝突事故。
同駅を通過の予定だった名古屋発鳥羽行き下り快速列車の機関士が、出発信号機の直前で停止現示を認めて非常ブレーキをかけたが、当該信号機手前に停止できず安全側線に突っ込み脱線し、本線上に横転したところに上り列車が進入して上下列車ともに衝撃大破した。死者42名、負傷者94名。客車上に大破した蒸気機関車が乗り上げて客車内に高温高圧の蒸気が吹き込んだため、やけどによる死傷者が多かった。

東京都水道局小河内線列車転覆事故[編集]

1956年(昭和31年)11月4日17時55分ごろ

1957年[編集]

東急玉川線乗用車追突・スタルヒン死亡事故[編集]

1957年(昭和32年)1月12日 22時40分ごろ
世田谷区三宿付近で、読売ジャイアンツ等に在籍していた元プロ野球選手のヴィクトル・スタルヒンが運転する車が東急玉川線の電車に追突した。スタルヒンは胸部打撲で死亡した。

常磐線急行「北上」脱線事故[編集]

1957年(昭和32年)5月17日 20時20分ごろ
常磐線大野駅 - 長塚駅(現・双葉駅)間で、上野青森行き下り急行「北上」が国道288号陸橋を通過した直後、牽引機関車(C62 19[20]と客車5両が脱線転覆。機関車と客車1両目は横転し、2両目から4両目は「く」の字の状態になって築堤下の土手に転落した。機関士と機関助士・乗客1名の計3名が死亡、乗客43名が重軽傷を負った[21][22]。原因は、陸橋下を大型トラックが通過しようとした際、積荷が橋桁にぶつかり、軌道を歪めたため。運転手は業務上過失致死傷他の実刑を求刑された[23]

三重交通北勢線列車脱線事故[編集]

1957年(昭和32年)11月25日 8時10分
三重交通(後に三重電気鉄道、近畿日本鉄道を経て2003年以降は三岐鉄道北勢線上笠田駅2006年廃駅) - 麻生田駅間にあるS字カーブ(山田川橋梁桑名寄り)で、阿下喜桑名京橋1961年廃駅)行列車(文献[24]によれば3両編成で、中間車はサ150形152、最後尾がサ100形)が速度超過のため脱線転覆。列車は通学客で満員であり、死者3人、重傷者3人、軽傷者多数(文献[24]によれば死者2人、重軽傷者172人)を出した。
その後、現場付近はカーブ緩和のため経路変更が行われ、1960年(昭和35年)10月6日に完成した。

1958年[編集]

山陰本線列車バス衝突事故[編集]

○…脱線した機関車
×…列車に衝突したバス
1958年(昭和33年)6月10日 15時28分
山陰本線八木駅 - 千代川駅間の川関踏切で、園部京都行き普通列車に京都交通の貸切バスが衝突、引きずられて大破し麦畑に転落した。この事故でバスに乗っていた亀岡市立亀岡小学校5年生一行のうち、4名が死亡、38名が重傷、50名が軽傷を負った。列車側も牽引していたC55形蒸気機関車が転覆し、客車2両が脱線した。
事故現場には同級生である卒業生有志により、1961年の事故日に慰霊碑が建立された[25]

特急かもめ米軍トレーラー衝突事故[編集]

1958年(昭和33年)8月14日 14時3分
山陽本線南岩国駅 - 岩国駅間にある菊池踏切で、博多京都行きの特急「かもめ」(10両編成)に米海兵隊岩国基地所属の米軍人が運転するトレーラートラックが衝突。トレーラーは50 m引きずられて大破、かもめ側も牽引蒸気機関車(C62 4)と1両目客車(ナハフ11 9)が脱線し「く」の字状に転覆した。また後続の客車2両も脱線した。この事故で特急の乗員乗客43名が重軽傷を負った。
事故原因はトレーラーの運転手の警報無視による。これは下り貨物列車の通過後、引き続いて上り特急列車が通過する警報が出ていたのを無視して横断を強行したため。踏切には遮断棒がなく、事故現場が緩やかなカーブであったことも被害を大きくした。
牽引機関車は廃車されたが、1両目のナハフ11 9は復旧された。

名鉄名古屋本線一ツ木駅衝突火災事故[編集]

1958年(昭和33年)11月24日昼前
名古屋鉄道名古屋本線一ツ木駅構内の踏切で、一時停止を怠ったオート三輪が新岐阜(現・名鉄岐阜)発豊橋行特急に衝突した[26]。オート三輪が積載していたシンナーから火災が発生し、約20 - 30 mもの煙が上がるとともに、列車側の前部の車両2両(3850系モ3857、ク2857)が全焼した[26][27]。石田運転士は停車と同時に脱出しようとしたが、この際に滑落して焼死した[27]。指導運転士として同乗していた松本運転士兼予備助役は、停車と同時に1両目の非常コックを開け、乗客を誘導退避させたうえで車内に引き返した[27]。松本は乗客がいなくなったのを確認し終えたが、脱出の際にやはり滑落し、火だるまになって焼死した[27]。殉職した乗務員2人(松本と石田)を含めて死傷者は36人に上ったが[26]、松本の行動によって乗客には1人の死者も出なかった[27]。松本には死後になって勲八等白色桐葉章が下賜されたが、運輸従業員としては全国初の事例である[27]
被災したモ3857とク2857は、翌1959年4月に車体を新製して復旧された[28]

1959年[編集]

阪急電鉄京都本線バス二重衝突事故[編集]

1959年(昭和34年)1月3日 22時50分ごろ
阪急電鉄京都本線上新庄駅(大阪市東淀川区)近くの島頭1番踏切で、踏切警手の遮断機の操作遅れで取り残された大阪市営バス路線バスに上下線の急行電車が衝突し、バスが電車の下敷きとなって大破した。電車の運転士は衝突直前に非常ブレーキをかけており、衝突時の速度は低かったものの、バスの乗務員と乗客7人が死亡、上り急行電車の乗客13人が負傷した。

播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故[編集]

1959年(昭和34年)4月6日 4時45分ごろ
播但線生野駅 - 長谷駅間の真名谷トンネル北側(生野より長谷方約4 km)で、福知山溝口行きの臨時回送上り8630列車(7両編成)が脱線転覆し、蒸気機関車 (C54 5) と前部3両が大破、福知山鉄道管理局豊岡機関区所属の機関士と機関助手の2人が即死した。機関車はトンネル内に前部を突っ込みながら横転、1両目は崖に乗り上げ、2両目は転覆、その上に3両目が乗り上げるという凄惨な被害状況を呈し、生野駅 - 寺前駅間が不通となった。C54 5も甚大な被害を受け、その後廃車、解体処分された。
この時、機関車は逆機運転をしており、炭水車側からトンネル側壁に衝突したため、運転室は炭水車に押しつぶされた状態になっており、乗務員の遺体収容は凄惨な状態だったという。原因としては、生野駅手前(新井駅側)にある生野トンネル (614.73 m) が、播但線において難所とされている生野峠から続く25パーミル (‰) という上り勾配で、かつ開口面積が狭いため、通過の際に乗務員が煤煙により意識を失い、登坂のために加減弁が引かれた状態のまま下り勾配を駆け下りたこととされている。
この事故の後、播但線の蒸気機関車乗務員に対して非常用のガスマスクが支給され、翌年には生野峠越え用補機として、当時最新鋭のDF50形ディーゼル機関車が配備された。
現場の線路脇に、遺族らが建立した慰霊碑が残されている(兵庫県神崎郡神河町渕地区)。

阪急電鉄西宮北口駅脱線正面衝突事故[編集]

1959年(昭和34年)6月17日 夕方
阪急電鉄神戸本線西宮北口駅(兵庫県西宮市)に到着しようとしていた梅田神戸行普通列車(4両編成[注 7])が、駅に停車し切れずに暴走、ダイヤモンドクロスを乗り越えて脱線し、特急電車を待避する為に神戸本線上りホームに停車中の梅田行普通列車の正面に衝突。重軽傷者44名を出した。
この事故で、神戸行普通列車の先頭車だった800形851号車は前面・側面を大破したが修理され、1982年(昭和57年)まで現役で使用された。

浜松駅準急「東海」衝突事故[編集]

1959年(昭和34年)10月8日 4時8分ごろ
東海道本線浜松駅構内に進入した、東京大垣行き下り準急309T列車「東海3号」(153系電車12両編成)が、同駅に停車していた機関車と衝突。乗客25名と運転士2名が負傷。原因は運転士の居眠りによるものとされた。「東海3号」の先頭車(クハ153-12)は、運転室部に大きな損傷はなかったものの、運転席側の客用扉戸袋窓付近が潰れて、前頭部がお辞儀をしたように車体が座屈した。浜松工場に収容された事故車は検証が行われ、衝突時の衝撃が台枠から側構に伝わり、強度的にいちばん弱かった戸袋窓部に集中した結果、車体がお辞儀をしたように変形したものと判明した。対策として、増備車では側柱部に補強を入れるなどの設計変更を実施し、戸袋窓の補強を行っている[29]

名鉄名古屋本線大里駅踏切衝突事故[編集]

1959年(昭和34年)10月11日20時ごろ
名古屋鉄道名古屋本線大里駅南側の踏切(遮断機・警報機なし)で、伊勢湾台風(同年9月26日襲来)の救援物資を積んだオート三輪が一時停止を怠り、豊橋新岐阜行特急(5000系6両編成、5003編成[30])に衝突した。列車は大里駅のホームに接触しながら1両目が一回転して線路脇の田に転落、2 - 4両目も脱線した。この事故で列車の乗客5人およびオート三輪側2人が即死、重傷12人、軽傷18人を出した[31]
なお、43年後の2002年には、現場から約500 m北で名鉄名古屋本線衝突脱線事故が発生している。

京浜急行電鉄花月園前 - 生麦間踏切衝突事故[編集]

1959年(昭和34年)11月7日17時50分ごろ
京浜急行電鉄本線の花月園前駅(現:花月総持寺駅) - 生麦駅間にある花月園第3踏切で、立ち往生していたトラックに品川浦賀行特急が衝突した。トラックに積まれていた直径約3センチメートル (cm)、長さ6 - 12 mの鉄筋用の丸棒が、衝突のはずみで1両目の車内に多数突っ込んだ。この事故で乗客5人が死亡、重傷15人、軽傷13人を出した[32]
なお、同月20日に発生した東洋化工爆発事故でも、京急線の乗客に多くの負傷者を出している。また、当該踏切は既に廃止されている。

1960年代[編集]

1960年[編集]

近江鉄道彦根口 - 高宮間正面衝突事故[編集]

1960年(昭和35年)8月22日[33]
近江鉄道本線彦根口 - 高宮間で、走行中のモハ7形モハ4[注 8][34]が、流転して無人のまま暴走してきたED311と正面衝突した[33]

阪急電鉄京都本線ダンプカー衝突事故[編集]

1960年(昭和35年)10月22日 10時48分
阪急電鉄京都本線上牧駅水無瀬駅間の桜井踏切(現在廃止)で、京都行急行(先頭車100形1522号車)が、踏切に侵入したダンプカーと衝突した。
この事故により、かねてから指摘されていた100形電車特有の連結幌の構造が運転士の視界の妨げになるのを解消するため、1522号車の事故復旧時に連結幌を着脱式に改造され、以後他の車両も改造されるきっかけとなった。
なお、1522号車は前年(1959年)7月24日にも、正雀駅茨木市駅間の踏切で、回送中の近鉄バスと衝突事故を起こしている。

姫新線列車バス衝突事故[編集]

1960年(昭和35年)12月12日 8時20分ごろ
姫新線美作追分 - 美作落合間にある遮断機のない踏切で、姫路発広島行き813列車が、中国鉄道バスの河内発勝山行きの路線バス(いすゞ製1950年式ボンネットバス)の側面に衝突した。この事故でバスは中央部がへし折れて吹き飛ばされ、乗員乗客64名中、10名が死亡、54名が重軽傷を負う大惨事になった。事故の原因はバス運転士の不注意とされた。

1961年[編集]

ダンプカー・東海道本線・横須賀線二重衝突事故[編集]

1961年(昭和36年)1月13日
東海道本線戸塚駅 - 保土ヶ谷駅間の秋葉踏切で、伊東発東京行きの東海道本線電車がダンプカーと衝突して脱線。そこへ東京発久里浜行きの横須賀線電車が進入して脱線車両と衝突。乗員乗客9人が死亡、13名が重傷、83人軽傷[35]

小田急線列車衝突転落事故[編集]

1961年(昭和36年)1月17日
小田急電鉄小田原線和泉多摩川 - 登戸間、多摩川左岸堤防上にある和泉多摩川2号踏切(事故当時は第3種踏切:踏切遮断機なし、踏切警報機のみ)で、新宿発各停向ヶ丘遊園行き下り列車(2400形4両編成)とダンプカーが衝突した。ダンプカーが警報機鳴動中の踏切を突破しようとしたことが原因とみられている。
この事故でダンプカーは鉄橋上約100 mほど登戸駅側に引きずられ炎上、運転者が死亡した。一方、列車は先頭車が多摩川の河川敷に転落、2両目は鉄橋から宙吊り、3両目は脱線、4両目(最後尾)は無傷。運転士1名と乗客約数十名が重軽傷を負った。この事故後、現場踏切は車両通行止めとなった。その後事故から40年余りが過ぎた2004年ごろに高架線が完成し、この踏切は廃止された。

急行「日本海」列車脱線事故[編集]

1961年(昭和36年)2月9日 13時45分
羽越本線村上 - 間島で、大阪発青森行きの急行日本海」が土砂崩壊現場に突入、牽引するC57 1と客車2両が脱線した。人的被害は機関士が軽傷を負った程度であったが、現場復旧作業が優先され破損した車両は2か月以上事故現場に放置。C57 1は4月27日に長野工場(現・長野総合車両センター)に入場し5か月の期間をかけ修復。その後も京阪100年号事故阪神・淡路大震災による破損など度重なる事故に遭遇するが2023年現在も車籍を有する。

大分交通別大線列車埋没事故[編集]

1961年(昭和36年)10月26日
大分交通別大線(1972年に全線廃止)で、大分亀川行き列車(電車205号)が走行中に仏崎トンネルから出た直後に土砂崩れに遭遇し埋没。電車に乗っていた下校途中の児童・生徒ら31名が死亡し、乗員2名と乗客34名が重軽傷を負った。当日は台風26号の影響で前日からの豪雨が続いていた。

名鉄名古屋本線パノラマカー踏切事故[編集]

1961年(昭和36年)11月29日
名古屋鉄道名古屋本線で、新岐阜駅(現・名鉄岐阜駅)行き特急列車(7000系)が走行中に、木曽川堤駅付近の踏切で、砂利を満載した大型ダンプカーと激突し、ダンプカーは40mも引きずられ、パノラマカーは286mも走った木曽川橋梁の中央部付近で停止した。なお、この事故による負傷者は乗客8名が車両のガラスによる軽傷を負っただけで、死者は出ていない。

山陽本線「さくら」・「あきよし」衝突事故[編集]

1961年(昭和36年)12月29日
山陽本線西宇部(現・宇部) - 小野田間で20系客車による東京発長崎行き下り寝台特急「さくら」に、2時間57分遅れで運転されていた山口発博多行き気動車準急「あきよし」(キハ55系気動車)が追突した。
この日は大雪の影響で通信不能となり、列車の運転は前方を目視で確認しながら15キロメートル毎時(km/h)程度の低速で一定時間間隔毎に列車を運行する隔時法によっていた。前方に先行列車を見つけて停車中の「さくら」に「あきよし」の運転士が気づいたのは「さくら」最後尾から約80 m手前で、45 km/hと速度を出していたこともあり非常ブレーキを扱ったが間に合わなかった。この事故を機に隔時法は廃止された。
この事故では双方の列車に乗客がいたが、「さくら」・「あきよし」で計50名の重軽傷者を出したものの、20系客車の軽量構造が衝撃を吸収し、客室部分の損傷を最小限にとどめ、死者は出さなかった。しかし、当時20系は予備編成が確保されていない状態での運転だったため、付属編成6両が不足する事態となった。そのため、急遽10系ナハネ10形・オハネ17形や旧形客車スハネ30形を20系と併結して、急場をしのいだ(→さくら (列車)#さくら・あきよし追突事故の影響も参照)。

東海駅 急行「いわて」脱線事故[編集]

1961年(昭和36年)12月29日
常磐線東海駅で副本線を通過しようとした上り急行「いわて」(C62 21牽引)が脱線大破。分岐器通過速度を超過し、機関車と客車2両が脱線転覆、他の客車も脱線。機関助士が死亡、5名が負傷。
この事故以降、副本線を通過する際でも一旦停車するよう規則が改められた。

1962年[編集]

鹿児島本線基山駅貨物列車脱線事故[編集]

1962年(昭和37年)4月4日 21時10分ごろ
鹿児島本線基山駅の3番線から、若い男女が心中を図り進入してきた下り181貨物列車に飛び込んだ。男女2名は即死し、181列車の機関士が非常制動を執ったところ同駅が急角度のカーブであったのが災いし、牽引蒸気機関車が浮き上がり、貨車38両のうち21両が脱線した。この脱線で運転台から放り出された機関助士が炭水車からこぼれ出た石炭の下敷きになり殉職、機関士ともう1名の機関助士も全身に火傷や骨折する重傷を負った。

常磐線三河島駅列車多重衝突事故[編集]

1962年(昭和37年)5月3日国鉄戦後五大事故
常磐線三河島駅構内で貨物線から下り本線に合流進入しようとした田端操車場水戸行きの下り貨物列車(蒸気機関車牽引)が、停止信号を冒進して安全側線に進入し脱線。先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し下り本線を進行して来た上野発取手行きの下り電車と衝突し、脱線した下り電車は上り本線を支障した。約6分後、さらにその現場に上野行きの上り電車が高速で突入。上り電車は線路上に避難していた乗客多数を巻き込みながら下り電車に衝突、双方の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両は築堤下へ転落して民家に突っ込み、死者160名を出す大事故になった。
下り貨物列車と下り電車が衝突した時点での人的被害は小規模だったが、下り電車の乗客が上り線路上へ出てしまったことと、約6分の猶予が有りながら事故現場へ接近する上り列車を非常停止させるための防護処置が行われなかったことが更なる事故を招来し、人的被害を大きくしてしまった。この事故が契機となり、自動列車停止装置(ATS)や列車無線の設置を推進することになった。

南武線踏切事故[編集]

1962年(昭和37年)8月7日
南武線津田山 - 久地間の第3種踏切で警報を無視して進入したトラックに下り電車(11系4両編成)が衝突。上り線を支障した下り電車に上り電車(11系4両編成)が衝突し、3名が死亡した。
踏切事故の多発が問題視され、踏切設備の改良や立体化など、踏切の抜本的な整備策が検討され、当面の対策として踏切支障警報装置の設置が進められた。

羽越線正面衝突事故[編集]

1962年(昭和37年)11月29日
羽越本線羽後本荘 - 羽後岩谷間で下り単行蒸気機関車(D51形)と上り貨物列車(DF50形ディーゼル機関車牽引)が正面衝突。ディーゼル機関車は前頭部が完全に粉砕されて炎上し、貨物列車の乗務員2名が殉職し、単行機関車の乗員3名が重軽傷を負った。

1963年[編集]

鹿児島本線踏切事故[編集]

1963年(昭和38年)9月20日
鹿児島本線香椎 - 箱崎間(千早駅は当時未開業)の第1種踏切上で故障して停車していた大型トラックに上り快速列車に充当されていた421系電車4両編成が衝突。脱線して下り線を支障した上り列車に下り普通列車(気動車1両)が衝突し、8名が死亡した。
前年に発生した南武線の踏切事故とほぼ同様の事故で、列車防護の措置をとる間もなく対向列車が衝突した。

東海道本線鶴見列車多重衝突事故[編集]

1963年(昭和38年)11月9日国鉄戦後五大事故
東海道本線鶴見 - 新子安間で、貨物線(現・湘南新宿ライン横須賀線の線路)走行中の下り貨物列車が脱線、そこに横須賀線の上下旅客列車がほぼ同時に進入して三重衝突事故が発生。合わせて死者161名、重軽傷者120名という大事故になった。
調査の結果、最初に起きた貨物列車の脱線はさまざまな要因が重なって起きる競合脱線が原因だとされた。

1964年[編集]

立川駅タンク車衝突事故[編集]

1964年(昭和39年)1月4日 7時6分
青梅線西立川駅に1月2日に到着したガソリン満載の米軍専用タンク車(タサ846)と事故当日の朝に到着した貨車を連結するための作業中に、担当者が規則ではタンク車のブレーキをかけるとともに車輪止めを設置することとなっていたが、ブレーキのかけ方が甘く車輪止めを使用していなかったことによる過失で転動。作業場所より65 m立川寄りの本線ポイント手前の本線合流ポイント手前に車輪止めがあったがこれをそのまま破壊して青梅線の上り本線上に進入し逸走した。そして約2キロメートル離れた立川駅に停車中だった青梅行き普通電車(電車5両編成)に衝突。これにより積荷のガソリンが引火して炎上した。火はまたたく間に近隣の建物にも燃え広がり、タンク車と電車のほか近隣住宅地の8軒11棟のべ1600平方メートルを全焼した。
事故当時、青梅行き普通電車やそのホームには約60名の乗客がいたが、西立川駅からの電話連絡を受けた駅員達がいち早く避難誘導したため死者が出る最悪の事態は免れた。しかし避難時に乗客2名が転倒するなどして重軽傷を負った。
その後の調査で上記の事故原因が判明し西立川駅の担当者は逮捕された。

京福電鉄電車衝突事故[編集]

1964年(昭和39年)1月5日
京福電気鉄道(現・叡山電鉄鞍馬線二ノ瀬 - 貴船口間の貴船口より約200 mの場所で、上り臨時電車(デナ21形1両)と下り電車(デナ21形2両編成)が正面衝突し、架線を切断して短絡したことによる火災が発生し、上り電車と下り電車の先頭車が焼失し69名が負傷した。
当日は鞍馬寺における初寅大祭のため臨時列車を運行していたが、臨時運行の伝達が徹底されなかったこと、下り電車の運転士が通票を確認しなかったことが主な要因とされた。
上り電車の乗客数は80名でほぼ満員の状態だったが、車掌は衝突して停車後にいち早く自動ドアを開けたため全乗客は線路上に避難でき、衝突の衝撃などで怪我人は出たものの死者の出る最悪の事態は免れた。また下り電車には20名ほどの乗客がいたが、こちらも怪我人は出たものの全員が無事に避難している。
事故の一報は、乗客の1人が貴船口駅まで駆けつけて駅員に伝えられた。一報を知った駅員は運行本部、警察、消防に連絡をした。
京都市消防局の消防車8台が現場に駆けつけ消火活動にあたるとともに救急車4台が駆けつけて怪我人を近隣の病院(浜田病院26名、富田病院23名、済生会病院10名、等)へピストン輸送した。
焼失したデナ121・123が廃車となった。
京福電気鉄道では、平成に入っても福井支社で半年以内に2回も列車衝突事故が発生し、もともと慢性的な赤字であったこともあって最終的には運行を停止するまでに至っている。詳しくは京福電気鉄道越前本線列車衝突事故を参照のこと。

中央線大久保 - 東中野間列車追突事故[編集]

1964年(昭和39年)1月14日 9時55分ごろ
中央緩行線東中野駅から大久保方400 mに停車中の下総中山発中野行き下り普通821C列車に、後続の船橋発中野行き下り普通819C列車が追突し、両列車の乗員乗客7名が重軽傷を負った。

東海道新幹線モデル線区飛込事故[編集]

1964年(昭和39年)2月26日 10時55分
開業前の神奈川県高座郡綾瀬町(現・綾瀬市)の東海道新幹線モデル線区で試験走行中の東海道新幹線用車両に男が飛び込んだ。このため先頭車両先端のスカートが大きくへこみ、2両目の電動発電機、3両目のブレーキ用空気パイプなどが損傷する被害を受けた。試運転車両は200 km/hほどで走行中だったため事故現場通過後に停車するまで2 km近くも走行した。その影響で死体は広範囲に散乱した。

名古屋鉄道新名古屋駅列車追突事故[編集]

1964年(昭和39年)3月29日 9時55分
名古屋鉄道名古屋本線新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)構内(新岐阜方面ホーム)で、停車中の大野町新木曽川行き急行列車(4両編成)に後続の新鵜沼行き特急列車(4両編成・碧南駅発と猿投駅発を途中の知立駅で併結)が追突した。追突された急行列車は後ろ2両、追突した特急列車は前2両がそれぞれ脱線し、運転席に挟まれた特急列車の運転士と乗客24名が重傷、乗客125名が軽傷を負った。
後続の特急列車の運転士が新名古屋駅構内のトンネルに進入時、ヘッドライトのスイッチを操作したが点灯しないため振り返って背面にあるメインスイッチを操作するなどしているうちに下り勾配で加速してしまい、気付いた時には急行列車に接近していたため非常制動を採るも止まり切れず追突した。
この事故を受け、名鉄は自動列車停止装置の導入を決定、名古屋本線から順次整備し始めたが、1966年(昭和41年)7月29日 にも常滑線の大江駅構内で正面衝突事故が発生してしまったため、速やかに全線への整備を行い、1968年(昭和43年)の7月に導入が完了した。以降、名鉄において列車同士の追突や正面衝突といった事故は発生していない。

「第一富士」脱線事故[編集]

1964年(昭和39年)4月24日 10時7分ごろ
東海道本線草薙 - 静岡間の現在の東静岡駅付近(当時、東静岡駅は未開業)を走行中の東京宇野行き下り特急第一富士」が、踏切内のダンプカーと激突し、先頭から6両目までが脱線した。この事故ではダンプカーの運転手が死亡し、先頭車両は大破した。また脱線した車両の多くは数多くの著名人が乗車する1等車であったことから在日イラク代理大使ら10名が重軽傷を負った。
この事故で先頭に組成されていたクロ151-7が廃車となったが、これは国鉄新性能電車の廃車第1号でもある。被災した151系電車は同年10月1日の東海道新幹線開業に伴い、九州乗り入れ改造をはじめとする転用計画に着手しており、代替車両を新造する猶予もなく、さらに予備車も皆無に近い深刻な車両不足状態となった。このため本来は急行列車用の153系電車を急きょ特急「こだま」に充当するなど、各地の予備車を総動員しての代走を実施したほか、廃車代替として急遽サロ150-3を先頭車化改造して対応した。

新潟地震による事故[編集]

1964年(昭和39年)6月16日 13時1分ごろ
新潟地震により新潟駅付近で跨線橋が落下し、直下にあったキハユニ17-2を直撃し車体が潰れた。回送列車のため乗客は乗っておらず、人的被害はなかったものの同車は復旧困難のため廃車となった。

東海道新幹線保線作業員死傷事故[編集]

1964年(昭和39年)11月23日7時32分ごろ
静岡県磐田市東海道新幹線の線路内で砂利固めをしていた保線作業員10名が、列車見張員の不注意から、静岡新大阪行きの「こだま207号」にはねられ、5名が即死、5名が重軽傷を負った。現場は田園地帯に土盛りをした直線の見晴らしの良い場所であったが作業員達は砂利を固める機械の音のため近づいてくる新幹線に気付かなかったという。こだま207号は事故現場から1 km以上も走って停車したため犠牲者の遺体は事故現場から延々と1 km以上にわたり線路に散乱していた。
新幹線開業から2か月足らずで複数の死傷者を出した国鉄は、この事故により安全対策の見直しを迫られることとなった。

1965年[編集]

北陸鉄道金沢市内線脱線転覆事故[編集]

1965年(昭和40年)6月24日 15時45分ごろ
北陸鉄道金沢市内線(1967年全線廃止)の小立野野町駅前行電車(300形309号車)が暴走後、脱線転覆し死者1名、負傷者多数を出した。
状況は、当電車が出羽町停留所発車直後に異常を感じて停止し、乗務員が下車点検したところ、現場が尻垂坂の頂上であったため転動、暴走したもの。電車はブレーキロッドが折損していた。乗務員は慌ててレバーを線路上に置いて止めようとしたが、電車はこれを乗り越え、続いて電車に飛び乗ったが、レバーを持っていないためなす術がなく、坂を下った兼六園下停留所付近で脱線転覆した。対策として単車を勾配の大きい路線で使用禁止としたほか、下り勾配での一旦停止などを行った[36]

東武鉄道北千住駅列車衝突事故[編集]

1965年(昭和40年)7月21日 21時40分ごろ
東京都足立区の東武鉄道伊勢崎線北千住駅構内の小菅方のポイントおいて、下り本線へ進行しようとした中目黒竹ノ塚行2015T列車(2000系・6両編成)の2両目に、同じく下り本線へ進行しようとした業平橋(現・とうきょうスカイツリー)発杉戸(現・東武動物公園)行の第K317貨物列車(ED5001牽引・26両編成)が衝突[37][38]。この事故で竹ノ塚行列車の2両目から4両目が脱線し、貨物列車側も機関車および1両目の貨車が脱線。脱線した車両は大きく傾き、貨物列車側は土手側へ傾斜したものの架線柱により転落は免れた[38][39]。この事故で負傷者は出なかったものの、貨物列車の1両目と2両目はそれぞれ揮発油とメタノールを満載したタンク車であり、事故による転落の危険があった事から周辺住民に避難命令が出された[38][40]
この事故の原因は竹ノ塚行列車側の信号無視とされた[38][41]。定刻では貨物列車は21時37分30秒、竹ノ塚行列車は21時39分00秒の発車となっていたが、当日は貨物列車が1分30秒の遅れで発車しており、竹ノ塚行列車と同時の発車であった[38][39]。このため竹ノ塚行列車は同駅を注意現示で出発し、合流点手前の停止現示で停車し貨物列車の発車を待った後に本線に進入する事になっていたが、この停止現示を無視して進行したものである[38]。当該運転士は業務上過失と往来妨害の疑いで逮捕された[38][39]

山手線品川駅列車衝突事故[編集]

1965年(昭和40年)7月31日 15時08分ごろ
山手線品川駅に15時06分30秒に着いた新宿発品川行内回り1462列車(101系8両編成)が、客扱い終了後15時08分ごろに回送として1番線から大崎方にある留置線に向かっていたところ、同駅に15時09分に到着予定であった後続の内回り1452列車(101系8両編成)が、品川駅ホームより約38 m大崎方にある同駅第72号ポイントを通過中の回送列車の後ろから3両目の側面に衝突し、10 m走行ののち右に傾いて停止した[42][43][44]。この事故で回送列車の後から3両目が脱線大破し衝突した側面が完全にえぐり取られた。一方の後続列車も1両目が脱線大破[44]、後続列車の運転士と乗客2名が重傷、乗客12名が軽傷を負った[42]。なお、もう1分遅ければ脱線した内回り列車が外回り列車と衝突し、三河島事故のような三重衝突事故に発展していた可能性もあった[45]
事故原因は後続列車の赤信号無視とされた[46]。同路線はATSが同年7月5日に導入されたばかりであったが、同列車の運転士は警報がうるさいことを理由としてスイッチを切っていたとされ、三河島事故以後安全確保に力を入れていた国鉄にショックを与えた[46][47]。また、回送列車の入庫から後続列車の到着までわずか2分30秒しかない過密ダイヤも事故の遠因とされた[43]
この事故で衝突された回送列車の後ろから3両目であるモハ101-201は修理扱いで車体を新造している。

急行「赤倉」衝突脱線事故[編集]

1965年(昭和40年)11月1日 9時50分ごろ
新潟県長岡市信越本線前川駅 - 来迎寺駅間の踏切で、新潟名古屋行の急行「赤倉」がコンクリートミキサー車と衝突。12両編成中10両が脱線し、2両が築堤から転落した。死傷者16名を出した[48]

京阪本線・京都市電稲荷線衝突事故[編集]

1965年(昭和40年)11月28日 6時15分ごろ
京都府京都市伏見区の京阪電気鉄道京阪本線伏見稲荷駅南側にある京都市電稲荷線との交差部おいて、京都駅前発稲荷行19号系統市電(800形859号車)の側面に、八幡町(現・石清水八幡宮)発三条行の普通列車が衝突、市電および普通列車の1両目が脱線した[49][50][51]。この事故で市電の乗客5名のうち3名が軽傷を負った[49][50][51]
この事故の原因は普通列車側の運転士が誘導を待たずに進行したものとされた[49]。当日の朝は京阪本線側において、4時15分ごろに発生した信号用高圧線の断線により三条 – 中書島間の信号が消灯していた[49]。このため同交差部では市電側の予備電源を用いて両側とも停止現示を出し、一旦停車ののち京阪の職員により交差部を走行する列車を誘導する事となっていた[49][51]。また、交差部の脱線ポイントについても同職員の手動操作となっていた[49]。同交差部には市電が先に到着し、職員の誘導を受けていたが、その後に到着した普通列車が、脱線ポイントが本線側に開通していたことから市電がいないものと思い込み、誘導を待たずに発車したものとされている[49]

1966年[編集]

南海電鉄高野線置石脱線事故[編集]

1966年(昭和41年)3月2日 20時25分ごろ
大阪府堺市香ヶ丘町の南海電気鉄道高野線我孫子前駅 - 浅香山駅間の大和川橋梁南詰付近で、難波三日市町行き直行電車(4両編成)が線路上に置かれた重さ約20キログラム(kg)の石に乗り上げ、1両目が脱線し、架線の鉄柱に衝突した。電車には約200名が乗車して満員状態だったが、この事故で乗客など十数名が負傷した[52]

新幹線ひかり号車軸折損事故[編集]

1966年(昭和41年)4月25日 19時ごろ
東海道新幹線名古屋駅を東京にむけて出発した「ひかり42号」(新大阪駅18時00分発・0系12両編成)が、熱田付近の曲線を走行中の最後尾の台車から異常振動と火花を出していることを車掌が視認した。その後異常なく走行していたが、豊川橋梁付近のカーブ(R2500)で再び異常振動と火花を出しているのを車掌が視認したため、運転士に通報し非常ブレーキをかけ通過予定駅の豊橋駅 を400 m過ぎた地点で停止した。ここで職員が降りて確認したところ後部車両の台車の第二軸に異常があり、中央列車指令の指示で「ひかり42号」を豊橋駅の第2副本線に退行して入線し、後続の「ひかり44号」・「ひかり46号」・「ひかり48号」・「ひかり54号」の計4本を臨時停車させて42号の乗客を代替輸送した。
事故自体は人的被害が出なかったため大きく報道されなかったが、故障車両を搬送機器に載せて浜松工場に回送後に行われた検査において、車軸が折損しており、かろうじて駆動装置と軸箱に支えられていたという相当深刻な事態であったことが判明した。
そのため折損した車軸が軸箱に引っかかっていなければ、名古屋駅を発車した直後に脱線転覆した可能性があった上に、車掌が異常に気付かず豊橋駅で停止していなければ、やはり高速運転中の急カーブで同様の惨事が起きていた可能性があったという。
車軸折損の原因であるが、鉄研・金属材料研究所での検査の結果、メーカーの製造段階で高周波焼入れ中に停電があったため、材質に欠陥があり金属疲労を引き起こしたというものであった。事故対策として、一層の品質管理と検査の徹底が行われることになった。

京阪電鉄蒲生信号所列車衝突事故[編集]

1966年(昭和41年)8月3日
大阪市城東区の京阪電気鉄道京阪本線蒲生信号所(現在は廃止)構内の複々線の緩行線(B線、外側線)と急行線(A線、内側線)との合流ポイント付近で、緩行線から急行線側に進行中の下り普通列車の側面に、急行線を併走中の下り急行が信号冒進して衝突。普通列車の先頭車両はその衝撃で上り線側に飛び出し、信号所の建物に突っ込み、上り線路を支障した。乗客など51名が重軽傷を負った。現場には上り区間急行列車が接近していたが、信号所の助役が負傷しながらも下り方向へ走り上り列車に対して列車防護を行った(停止信号を出した)。区間急行の運転士はこれに気付き非常ブレーキを作動させ、現場手前で停車し、二次衝突を避けることができた。原因は急行運転士の過労とされた。この事故を契機に京阪は自動列車停止装置の導入に踏み切った。

東武伊勢崎線バス衝突事故[編集]

1966年(昭和41年)9月22日
埼玉県越谷市東武伊勢崎線越谷駅より北約120 m離れた赤山踏切において、越谷駅行き東武バスに日光発浅草行き特急「けごん」が衝突。バスは約135m、越谷駅ホームまで引きずられ大破、列車も最後尾の1両を残して脱線した。この事故によりバス乗客ら4名が死亡、乗客ら12名が負傷した。事故当時、踏切付近は渋滞しており、バスが渡り始めた際に対向から小型トラックが来たことでバスが踏切内で立ち往生してしまい、そこに列車が衝突した。この当時越谷駅周辺は沿線の開発により、交通量が急増。踏切内の線形の悪さも加わり事故に至った。1か月後、同様事故を防止するため、近隣の2つの踏切を含め、踏切内を拡幅した。

近鉄河内国分駅列車追突事故[編集]

1966年(昭和41年)11月12日
大阪府柏原市近畿日本鉄道大阪線河内国分駅で、待避中の上本町(現・大阪上本町)発名張行き準急(1480系)に上本町発宇治山田行き特急(10000系、「旧ビスタカー」)が追突、特急列車の運転士が死亡、43名が重軽傷を負った。特急列車運転士の信号見落としが原因であった。この事故で損傷した宇治山田方先頭車のモ10007は流線型の前頭形状をやめて18200系に準じた貫通型で翌1967年に復旧したが、4年後の1971年には廃車された。

大阪市電・タンクローリー衝突事故[編集]

1966年(昭和41年)12月8日 夕方
大阪市電大阪市電阪堺線)が西成区津守町東6丁目(現・南津守)を乗客約70名を乗せて走行中、センターラインを越えて対向して来たタンクローリー車と衝突。この衝撃で市電は右前方の車体が大きくえぐられ、何人かの乗客はえぐられた部分から外へ放り出されるなどした。この事故により市電の乗客3名が死亡、タンクローリー車の運転手と市電の乗客27名が重軽傷を負った。事故原因はタンクローリー車がワイパーの故障した状態で、夕闇と折からの降雨の中で前方の視界がほとんどきかないにもかかわらず、強引に前方の車を追い越そうとして市電の軌道内に入り込んだもので、運転手はその場で現行犯逮捕された。
事故車の1720号車は証拠物件に指定され、大阪市電が1969年4月1日に廃止された後も保存予定車両と同じ施設で保管され、裁判が終わった後の1972年ごろに解体処分されている。

東武鉄道西新井駅列車衝突事故[編集]

1966年(昭和41年)12月15日 22時37分ごろ
東京都足立区の東武鉄道西新井駅構内で大師線の線路を走行していた大師前発西新井行2206D列車(5300系2両編成)が、伊勢崎線下り本線を走行中の中目黒発竹ノ塚行普通2155S列車(営団3000系6両編成)とすれ違った際、西新井行列車の1両目が脱線し伊勢崎線下り本線側に傾斜、竹ノ塚行の3両目に衝突した[53]。この事故で西新井行列車の1両目と竹ノ塚行列車の2 - 5両目が脱線し、衝突された3両目は側面がえぐり取られる形で大破した[53][54]。この事故で両列車の乗客7名が死亡、4名が重傷、16名が軽傷を負った[55]。なお、衝突時には伊勢崎線上り本線にも列車が走行していたが、この列車はパンタグラフを破損した程度で人的被害はなかった[53][54]
この事故の原因は、大師線側のカーブ部分におけるレールの摩耗とされている。事故現場であるカーブの出口から本線との渡り線付近はカーブ外側のレールが2 cm近く削られており、これにより進行方向左側の車輪がレールの上に乗り上げ、右車輪が引っ張られて分岐器のガードレールに衝突し脱線したものとされた[56][57][58][59]
なお、この事故において大師線が日ごろから新任運転士の、いわば実習線とされていたことが報道された[53]
営団3000系の事故編成は中間車1両を同じ番号で代替新造の上、運用に復帰した。

1967年[編集]

南海電鉄男里川橋梁列車脱線転落事故[編集]

1967年(昭和42年)4月1日
大阪府泉南郡泉南町(現・泉南市)の南海電気鉄道南海本線樽井9号踏切」で、難波和歌山市行き下り急行電車(11001系電車5両編成)が、大型車に対する通行規制はないものの、狭い同踏切に進入しエンストした大型トラック立ち往生[60]に気付き非常ブレーキをかけたものの間に合わずに衝突し、脱線転覆。男里川橋梁から1・2両目が5 m下の男里川の河原に転落し、乗客5名が死亡[60]、208名が重軽傷を負った。
事故後に運転士が自分の長男(当時3歳)を乗務員室内に入れて運転を行っていた上、非常ブレーキ操作後に乗客の避難を優先させずに、長男を抱いて乗務員室から脱出したことが発覚したため、同社の安全に対する姿勢が問われる結果となった。当時、子供に気を取られたのではないかとしていた報道もあった[注 9]

近江鉄道犬上川橋梁列車脱線転落事故[編集]

1967年(昭和42年)[注 10]6月29日[62]
滋賀県犬上郡甲良町の、犬上川の堤防上にある近江鉄道本線の踏切で、始発電車がダンプカーと衝突した[62]クハ1213形クハ1222[61]とダンプカーが犬上川橋梁から河川敷へ転落[62]モハ1形モハ2は橋梁上で宙吊りになった[61]。ダンプカー運転手が死亡、列車の乗客ら7名が重軽傷を負った[62]

南海電鉄箱作駅構内列車衝突事故[編集]

1967年(昭和42年)7月24日 20時11分ごろ[63]
大阪府泉南郡南海町(現・阪南市)の南海電鉄南海本線箱作駅で、同駅を通過しようとした難波発和歌山市行き急行第1903列車(2001形4両編成、和歌山市方よりクハ2810+モハ2013+クハ2804+モハ2021[64])が、赤信号を無視して別方向に開通していた分岐器から貨物ホームの6番線[注 11]に進入。同ホームから入換のため出発したばかりの貨物列車(ED5121形ED5129牽引2両編成[64])と正面衝突し、急行列車の前3両が脱線し1両目は機関車に、2両目は1両目の後部にそれぞれ1m近く食い込んだ[65][67][68][66]。一方貨物列車は全車両が横転、事故現場となった貨物ホームは50mに渡ってコンクリートが落ち、北側半分がえぐり取られた[67]。この事故で急行列車の運転士が重体、貨物列車の運転士および乗客8人が重傷、116人が軽傷を負った[65][69]
事故原因は上記の通り急行列車運転士の信号無視であり、場内信号機の一つ手前にある信号の注意現示を見落として80km/h程度で走行し、場内信号機の停止現示を見て慌ててブレーキを掛けたものの間に合わなかったとされる[70]。また、貨物列車が本線を横断して入換を行っていたことも問題視された[70]。貨物列車は和歌山市始発で[65]、19時59分に同駅2番線に到着、同駅発の貨車を連結したのち20時35分に堺駅に出発するダイヤとされていたが[70]、発車までに行う同駅構内の入換についてはダイヤで決められておらず、同駅の判断に任されていた[注 12][72]。また、その36分間には上下合わせて8本の列車が通ることになっていた[70]。当日は3分遅れで貨物列車が到着し、通常通り20時05分発の上り普通列車が出発してから20時10分の急行通過までの間に入換を行うことにしたが、荷扱いないし連結作業の遅れにより急行通過までに作業を完了する事ができなかったとされている[70][72]。輸送規則においては急行列車は優先的に運行するのが原則となっていたことから、その原則に反して入換を優先させた事も問題となった[73]
また当時、ATS(自動列車停止装置)は設置されておらず[注 13]、事故を起こした2001形の制御車には速度計が設置されていなかった[74]
問題となった貨物の取り扱いについては、事故後に大阪陸運局より「できる限り早急に廃止するべきで、荷主の同意が得られない場合には陸運局が仲介を検討する」とする意向を発表する事態となった(当時、貨物扱いの廃止は届け出制で荷主全員の承諾が必要であった)[72]
南海は同年4月の男里川橋梁列車脱線転落事故に引き続き、短期間で2回も事故を起こしたことから、運輸省の特別監査を受けることとなり、後日書類提出を伴う警告がなされた。(大阪陸運局管内では1964年の京福電鉄電車衝突事故に続き2度目)[72][75]
また、貨物取扱駅の統廃合も要請される事態となった[76]
南海側としては4月の橋梁事故後、5月20日より事故絶滅運動を展開していた矢先の事故であり、各メディアからその体質を厳しく批判されることとなった[77][67][78][79][80]
南海側は事故後の対策として
1. 適性の再チェックなどを含めた総合的な運転士教育を実施する
2. 現在のATS取付工事三か年計画を二か年に短縮する
3. 運転士の乗務時間を平均化する
4. 箱作駅の貨物取扱は廃止するよう努力する
の4点を挙げた[81]
その後、同年7月31日に箱作駅の貨物取扱廃止を大阪陸運局に申請し即日許可、廃止となった[82]
また、運輸省は事故後、運転関係者の再研修とATSの早期設置、作業要領の再検討を全国180の鉄道会社に[83]、昭和44年度末完成予定の各私鉄の60%にあたる重要路線にATS設置する計画を半年 ~ 1年前倒しするよう私鉄16社(大手私鉄14社および相模鉄道・神戸電鉄)に対し要請している[84][85]

米軍燃料輸送列車衝突炎上事故[編集]

1967年(昭和42年)8月8日
新宿駅構内で、渡り線を通過中の中央線立川行き貨物列車(電気機関車EF10形+タンク車18両)の側面に、中央線上りの浜川崎行き貨物列車(電気機関車EF10形+ホッパ車20両)が、停止信号を示していた場内信号機を越えて衝突。脱線・転覆したタンク車から漏れた航空燃料に引火し、機関車とタンク車3両が炎上した。この事故で死傷者は出なかったものの、激しい火災の消火と、炎上を免れたタンク車からの燃料の抜き取り作業や復旧作業に手間取ったことから復旧が遅れ、中央線は丸1日ストップした。

営団地下鉄日比谷線中目黒駅引上線車止め衝突事故[編集]

1967年(昭和42年)9月28日 20時13分ごろ[86]
営団(現・東京メトロ日比谷線中目黒駅構内の引上線(5号線[注 14])で、故障のため後続列車からの推進運転により同引上線に入った6両編成の前部列車(東武2000系)が、所定の停車位置で停車せずに車止めに衝突し脱線、並走する東急東横線の下り本線側に傾斜した[88]。この事故で前部列車は1・2・6両目が脱線し、前部列車の最前部に居た前部列車の運転士(以下、当該運転士と表記)が曲がった床板とヒーターの間に左足を挟まれ骨折、全治2か月の重傷を負った[88]。事故当時、傾斜した下り本線には下り列車が差し掛かるところであったが、20 m手前で停車し衝突は免れている[88]
この事故の原因は、乗務員間での連絡が上手くいかなかったためとされた[86]。事故を起こした前部列車は、北春日部発中目黒行きとして運転中、広尾駅にてヒューズが飛んだため後続の北千住発中目黒行き列車により推進運転を実施、恵比寿駅で回送になったのち事故の起きた引上線へ入る予定であった[88]。引上線で停車の際は当該運転士が前部列車の車掌にインターホンを通じて合図を送り、その後前部列車の車掌が後続列車で運転中の運転士に合図を送る事になっていたが、当該運転士が合図を送ったものの通じておらずそのまま15 km/hの速度で進行した[88]。そのため、当該運転士は40 m手前で非常制動を取ったものの、前部列車は広尾駅にてパンタグラフをおろしていた事から空気圧が低下、そのため制動力が低下しており及ばず、衝突したものとされた[88][86]。合図が通じなかった原因についてはインターホンの故障が疑われている[89]。また、事故が起きたのは引上線内であった事から、ATCは設置されていなかった[90]
この事故で大破した前部列車の先頭車であるモハ2109は代替新造(書類上は修繕扱い)となった。

急行「安芸」食堂車全焼事故[編集]

1967年(昭和42年)11月15日 1時30分ごろ
東海道本線三河三谷駅東京駅から広島駅に向けて走行中であった、急行「安芸」(14両編成)の6両目に連結されていた食堂車(マシ38 2)の進行方向後部から出火。火災発生後に急行は現場に急停車し、乗務員により食堂車部分の切り離し作業が行われた。この食堂車はそのまま炎上、2時50分ごろに鎮火した。出火した時刻が深夜だったこともあり、食堂車に乗客はいなかったが、鎮火後にこの食堂車の中から日本食堂の調理助手の男性と接客係の女性が死亡しているのが発見された。石炭レンジの過熱が原因とされた。

1968年[編集]

南海電鉄天下茶屋駅列車衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)1月18日 17時17分ごろ
南海電気鉄道春木難波行き臨時急行電車(11001系5両編成)が天下茶屋駅ホーム通過後、停止信号を無視して進行、別方向に開通していた分岐器を割り出し、その先の分岐器から分岐側に進入して、出発待機していた回送電車(モハ561形 2両編成)に正面衝突した。急行の先頭2両と回送の先頭1両が脱線し、急行電車の旅客と双方の乗務員合わせて296名が負傷した。
直接原因は急行運転士の信号無視と制動操作の誤りとされたが、競輪競馬競輪場のほか、1974年まで春木競馬場があった)の観戦客輸送で急行通過が10分程度遅れていたことを理由として回送電車の出発を優先し、急行に停止信号を出した駅員の運転取扱いも問題とされた。
南海電鉄は前年4月の男里川橋梁列車脱線転落事故と7月の箱作駅構内列車衝突事故に続き、1年以内に重大事故を3度も引き起こしたため(これらは「南海3大事故」と呼ばれており、同社の安全報告書にもその記述がある[91])、この事故を重くみた近畿陸運局(現・近畿運輸局)は南海に警告書を出し、また同業他社および各方面からもその体質を厳しく批判されることとなった。

営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故[編集]

1968年(昭和43年)1月27日
営団地下鉄(現東京メトロ日比谷線神谷町駅付近で、回送中の東武鉄道2000系(6両編成)の3両目の主抵抗器付近から出火して火災を起こし、1両が全焼、1両が半焼した。
事故列車は、六本木駅で主抵抗器が赤熱して付近から発煙していることが見つかったために営業を打ち切って乗客を降ろし、霞ケ関駅の側線へ向けて回送中だったので幸いにして乗客の被害は発生しなかったが、火災発生が駅と駅の中間だったために消火に手間取り、乗務員や消防士ら11人が負傷した。なお、全焼した車両は車体・機器ともすべて造り直され修理扱いで復帰した。
火災の原因は、主抵抗器が過電流により過熱して、上部にある樹脂電線管から出火し延焼したものとされた。この事故の1時間ほど前、この編成が中目黒行きとして運行中に主制御器の進段トラブルが発生し、その際3両目を含む第2ユニット開放の処置を行ったが、3両目の主制御器は並列段の進段途中で停止したままになっており、北春日部への折り返し運転時に運転士が転換器を操作しても(ユニットが開放されているため)極性が転換せず、走行中は常時発電ブレーキがかかっている状態となっていたのが主抵抗器過熱の原因である。
この事故で、当時の耐火基準の最高ランクだったA-A様式に該当する車両が1両全焼したことは可燃性の車両部品の使用を見直すきっかけとなり、事態を深刻と見た運輸省(当時。現在の国土交通省)は営団中野工場内での実車燃焼実験などを含む抜本的検討を行い、翌1969年(昭和44年)5月に従来の通達に代わる「電車の火災事故対策について」を通達することによって新たな耐火基準(いわゆるA-A基準)を定め、火災事故対策を強化した。この基準は世界的に見ても厳格なもので、以後の鉄道火災事故防止に貢献している。

米原駅構内列車衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)2月15日 12時55分ごろ[92]
滋賀県の東海道本線米原駅構内で、入換作業中の新潟操車場発吹田操車場行貨物列車(58両編成・26分遅れ)[93]に、発車したばかりの米原発播州赤穂行下り快速列車(列車番号 895M 8両編成)[94]が衝突した[95][96]。この事故で貨物列車は後部の9両が脱線しうち6両が転覆、一方の快速列車は前3両が脱線し先頭車は3 m下の田んぼに落下[95]、快速列車の乗客1名が重傷、5名が軽傷を負った[92]
この事故の原因は快速列車の信号無視とされている[97][96]。事故当時は雪のため視界が悪かった上[98]、ATSの電源を入れ忘れていた事から運転士は信号無視に気がつかなかった[97]。また事故を起こした運転士は事故当日の午前1時半ごろまで同僚と飲酒を行い、7時ごろに二日酔い状態で出勤・乗務していた。米原駅に到着後は引き込み線へ移動し事故当該の列車発車まで待機する事になったが、その間約2時間にわたり仮眠、その後発車直前に同駅の係員により起こされ、始業点検を行わずにホームへ入線させていたなどの問題が明らかとなった[94]
この事故と米軍燃料輸送列車衝突炎上事故をきっかけとして、国鉄は1970年7月に警報持続装置とATSスイッチが切の状態で3ノッチ以上を投入すると警報が鳴動する電源未投入防止装置[99]を追加した[100]
この事故で脱線したクハ111-418、モハ112-60、モハ113-60の3両は事故廃車となった。

上越線群馬総社駅構内列車衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)4月19日12時45分
上越線群馬総社駅構内で長岡高崎行きの上り6両編成電車が引き込み線に停車していた41両編成の貨物列車に衝突。この事故で乗員乗客約240名のうち69名が負傷。事故原因は当日駅構内のポイント工事中で手信号による列車誘導をしていたが、工事前にポイントを間違って切っていたため。

阪急電鉄甲陽線ホーム激突事故[編集]

1968年(昭和43年)6月5日7時40分
阪急電鉄甲陽線夙川駅に到着した普通電車(610系2両編成)が停止しきれず、先頭車の663号車が車止めを乗り越えて神戸線ホームに激突した。
この事故で電車の乗客が折り重なるように倒れたうえに、神戸線ホームにいた乗客は衝撃で吹き飛ばされたり破片を受けたりしたことから35名が負傷した。
事故原因は運転士がブレーキ操作を誤ったものだとされた[101]

伊豆急行川奈駅構内列車接触事故[編集]

1968年(昭和43年)6月18日10時30分
伊豆急行線川奈駅構内でホームに入ろうとしていた熱海発伊豆急下田行き下り7両編成電車の3両目に、約70メートル行き過ぎた伊豆急行の伊豆急下田発伊東行きの上り3両編成電車が接触して傾いた。60名が負傷。
事故原因は上り電車の運転士が居眠りし、信号の停止指示を無視して発車したことであるが、同運転士は事故前夜同僚と従業員寮で明け方4時まで徹夜麻雀をし7時に出勤するまでほとんど寝ていなかったことが判明、逮捕起訴された。
また伊豆急行では単線でほぼ全駅で列車を交換するダイヤであったが、ATSが未装備だった。そのため、早期のATS設置が決定した。

膳所駅脱線事故[編集]

1968年(昭和43年)6月27日 0時24分ごろ【列車脱線事故】
滋賀県大津市の東海道本線膳所駅構内で、同駅待避線にて停車予定であった吹田操車場青森操車場行上り貨物第2077列車「第4北海」(41両編成)が、進入する予定であった引き込み線との分岐点にて分岐器制限35 km/hのところを推定70 – 80 km/hで進入し脱線した[102][103][104][105]。さらに脱線した貨車が接触したことにより架線柱が倒れ隣の下り本線を支障、そこへ富山操車場発吹田操車場行下り貨物第3574列車(EH10形牽引・46両編成)が突っ込み脱線した[102][104]
この事故で上り列車は機関車と貨車31両が脱線し、脱線した貨車は西部信号扱所に衝突、連動装置を破損させた[102]。また脱線した車両のうち3両は下り列車が衝突した弾みで隣接する京阪石山坂本線の線路上に転落、架線を切断した[102][104]。この時の火花が貨車1両に引火・炎上した[102][104]。一方下り列車も機関車2両と貨車1両が脱線、下り列車の機関助士1名が軽傷を負った[102][104]
この事故の原因は上り列車機関士および機関助士が両者とも居眠りをしており、速度超過のまま進入、脱線したものとされた[102][105]。事故を起こした上り機関士の証言によれば、山科駅通過後から最初に機関助士が眠気を感じ、その後機関士も眠気を感じてそのまま寝入ってしまったという[105]。 機関士は事故の3日前より動労支部の大会や勤務、事故列車への勤務直前の非番時間は麻雀をしていた等、ほとんど休息を取っていなかった[105][106]。事故後、両名は警察に業務上過失往来妨害の疑いで逮捕されている[105]
この事故を受けて、ATSに分岐器過速度警報装置の機能が追加されている。

急行「おき」機関車脱線転覆事故[編集]

1968年(昭和43年)6月28日3時40分ごろ
山陰本線湖山駅構内で大阪発大社行き下り急行701列車「おき」を牽引中だったディーゼル機関車DD54 2が、場内信号機あたりを通過中に異常音に気付きブレーキをかけたが、推進軸(ユニバーサルジョイント)が破損し、垂れ下がった推進軸が線路に突き刺さり機関車は脱線転覆、続く客車6両が脱線する、いわゆる「棒高跳び事故」を起こした。いちはやく異常に気付き減速し、速度が低かったことから機関助手と荷物車掌が負傷したが、乗客人命の被害は無かった。事故車となったDD54 2は修理され現役復帰したが、DD54形ディーゼル機関車のエンジン本体や液体変速機の故障、推進軸が折れる事故などが多発した結果、同形式は1966年にDD54 1が落成したばかりにもかかわらず、1978年までに全車退役し廃車となった。

御茶ノ水駅電車追突事故[編集]

1968年(昭和43年)7月16日22時38分
中央本線・御茶ノ水駅で停車中の豊田行き2239F電車(10両編成)に、後続の高尾行き2201F電車が追突した。双方の電車とも5両ずつが脱線した。負傷者210名(昭和44年度運輸白書参照)。事故原因は2239F電車の乗客がドアに手を挟まれていたことから、発車した直後に非常停止の措置をとってホーム半ばに止まったところへ、後続2201F電車運転士の見込み運転による制限速度オーバーとブレーキ操作遅れによって追突したという人的ミスとされた。

相模鉄道瀬谷駅構内列車衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)8月17日11時45分
相模鉄道瀬谷駅構内で、貨物列車を牽引するために入れ替え作業中であった電気機関車に、横浜海老名行きの4両編成電車が追突。83名負傷。
事故原因は、追突した電車の運転士が居眠りをして信号の停止現示を見落としたため。なお、当時同線にはATSが設置されていなかった。

豊橋鉄道老津駅構内列車衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)8月26日19時30分
豊橋鉄道渥美線老津駅構内で新豊橋三河田原行きの2両編成の下り電車が、貨物引き込み線に突入し貨物列車(10両編成)に追突。はずみで貨車2両が脱線し、残りの貨車は車止めを突き破り駅の待合室の壁に衝突。乗員乗客58名が負傷した。事故原因は駅務掛の手動信号の操作ミス。

急行「かむい1号」脱線事故[編集]

1968年(昭和43年)10月12日9時20分
函館本線奈井江駅に停車予定だった下り気動車急行813D「かむい1号」が、運転士が停車予定を失念したため誤通過。駅構内の手動踏切[注 15]を横断していたダンプカーと衝突し8両編成中3両目までが脱線、衝突地点から170m離れた奈井江川にかかる鉄橋でようやく止まった。乗員乗客約400名のうち、ダンプカーの運転手など29名が負傷した。事故は運転士が停車を失念していたことが直接のきっかけであったが、奈井江駅の助役が停止合図の赤旗をホームで振っているのを無視した上、駅を出発する列車の汽笛を合図に踏切を手動で閉めることになっていたため、ダンプカーの横断を止めることができなかったことが事故の原因となった。

京阪電鉄京津線電車脱線事故[編集]

1968年(昭和43年)11月22日5時15分
京阪京津線で、四宮三条行きの始発電車が東山区三条通白川橋東4丁目で敷石が浮き上がっていたため急停車しようとしたが間に合わず、敷石に乗り上げて脱線。旧国道1号を横切って道路上の防護柵を突き破り民家の壁に衝突した。乗客2名が負傷。停車寸前の速度であったため民家を破壊するまで至らなかった。

籠原電車区構内脱線事故[編集]

1968年(昭和43年)11月23日5時40分ごろ
籠原電車区(現・高崎車両センター籠原派出)にて、籠原大宮行き普通列車に充当する新前橋電車区所属165系10両編成が出区線から移動中、ポイントが切り替わったため8・9両目が脱線した。回送状態であったために乗客に死傷者は出なかった。
原因は運転士の確認不足と事後対応のミスによるものである。まず当該編成が入線する予定だった籠原駅2番ホームに別の列車が在線していたため、出区線の信号が赤であったことを見落とし発車。続いてポイントが同駅下り4番ホームに向って開いていたことも通過後に気が付いて停止。さらに無断退行したものの、後退中に2番ホームの列車が発車したことで9両目通過中にポイントが自動的に切り替わったことから9両目と8両目が泣き別れ脱線した。
9両目のサロ165-24は架線柱2本に接触し倒壊させたため架線を切断、さらに車体が「く」の字に折れ曲がったことから修復困難となり1969年5月8日付で廃車された。なお、サロ165形で非冷房のまま廃車になったのは当車のみである。

山陽電鉄中八木 - 江井ヶ島間列車衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)11月23日18時20分
山陽電鉄の下り姫路行き普通電車(3両編成)が中八木駅を誤って通過し、次の江井ヶ島駅近くまで1.5 kmオーバーランした。運転士は通過した中八木駅に戻るために電車を逆走させたが、中八木駅西方650 m地点で後続の東二見行き普通電車(2両編成)と正面衝突した。この事故で後続電車の運転士が運転室で押し潰され殉職し乗客ら72名が負傷した。先行電車の運転士が考え事をしていて停車駅を誤通過した上、自身3度目の停車駅誤通過であったことから処分を恐れ、後続列車が来ないと思い込み後退したことが原因であった。先行列車の運転士は逮捕され、山陽電鉄を懲戒解雇された。なお、本事故で被災した車両のうち、250形253が翌1969年(昭和44年)に廃車となっている。

十和田観光電鉄正面衝突事故[編集]

1968年(昭和43年)12月29日15時10分ごろ
十和田観光電鉄(2012年で廃線)三本木駅(のちの十和田市駅)を出発した上り2両電車が上北郡六戸町七百で正面衝突し18名が負傷した。事故原因は吹雪のために線路に突っ込んでいたトラックがあったため、上り電車は三本木駅からの指示により停車していたが、そのトラックが自力で脱出したことから、車掌が三本木駅に連絡せず独断で運行を再開した。そのことを知らない三本木駅はダイヤでは七百駅で上下の電車を交換するところを高清水駅に変更する指示を下り電車に与えたため、正面衝突した。後日、連絡を怠った車掌が逮捕された。

1969年[編集]

紀勢本線 名古屋発天王寺行き921列車事故[編集]

1969年(昭和44年)1月24日 午前0時50分ごろ
和歌山県西牟婁郡日置川町(現・白浜町)の紀勢本線周参見 - 紀伊日置間の紀伊日置駅より南東400m付近の右カーブ(R200)において、名古屋発天王寺行き快速921列車(8両編成)が牽引していたディーゼル機関車が脱線し、1回転しながら7m下の水田に落ちて転覆。機関車から切り離されたことで客車には非常ブレーキがかかり、奇跡的に紀伊日置駅ホームに停車した。この事故で機関士と機関助士の2名が重傷を負ったが、乗客にけが人はいなかった。この事故では先頭客車前部も破損したが、乗客の大半は事故が起きた事すら気が付かなかった。この事故で転覆したDF50 39が事故廃車となった。

伯備線保線作業員死傷事故[編集]

1969年(昭和44年)2月13日14時18分ごろ (鉄道人身障害事故
鳥取県の国鉄伯備線上石見 - 生山(当時下石見信号場は未設置)の単線区間、上石見駅から700 m離れた線路内で、保線作業中だった国鉄米子保線区の作業員が岡山米子行きの普通列車943Dに接触し、作業員6名が死亡した。
事故当時、普通列車は濃霧で29分遅れていた。
作業責任者が上石見駅の助役に問い合わせたところ、「下り列車が遅れているので行き違い駅を変更し、先に上り貨物列車がそちらを通過する」と回答したため、作業員は上り列車を警戒していた。しかし、数分後、所定どおりの行き違い駅で列車交換することになり、実際には下り列車が現場を通過することになったことにより、事故が発生した。
駅の助役が再度の変更を連絡しなかったことが原因だが、当時の業務規定では駅から現場の保線要員に連絡する義務が無かったこと、また当時の工事用携帯電話は500mおきに設置された電柱のジャックボックスに接続する必要がある有線電話であったため、現場のジャックボックスと作業場所が離れていた場合は駅から発信しても現場保安要員が着信に気付かない可能性もあった。
そのうえ、上石見駅では普通列車の運転士に保線工事中である旨を注意喚起しなかったうえ、現場が下り勾配のカーブで、運転士が視認したときには30mの先であったため、減速することができなかった。また保線要員側も下り列車に警戒していなかったため、待避が間に合わなかった。
国鉄ではこれらの教訓から、列車接近警報装置の設置などの安全対策が図られた。また現場近くに「触車防止地蔵」という慰霊碑が建立されている。なお、同線では2006年1月にも同様の接触事故が発生しており、この時には3名が死亡している。

近鉄伊勢中川駅構内列車脱線事故[編集]

1969年(昭和44年)8月5日22時30分ごろ
近畿日本鉄道伊勢中川駅構内(大阪線から中川短絡線が分岐する地点)で上本町宇治山田行き特急が脱線、4両編成のうち2両が4 m下の畑に転落した。乗客ら61名負傷[107]。製造から日の浅い12000系2両が廃車となった。
車輪のフランジに欠陥があり、ポイントに引っかかったことが脱線の原因とされた。
対策として、現場の8番分岐器を12番分岐器に交換した[108]。結論を出すのに時間がかかり、運転士が業務上過失致死傷罪で起訴されるのは、事故発生からおよそ2年後のことであった[109][110]。なお、当時は現場と伊勢中川駅のホーム間は単線であり、複線化されたのは1973年のことである。

岳南鉄道岳南線正面衝突事故[編集]

1969年(昭和44年)9月30日7時すぎ
岳南鉄道岳南線本吉原駅の構内で、貨物列車が貨車の入れ替え作業を行っていたところに、朝の通勤時間帯の満員電車が進入して貨車が衝突。126名が重軽傷を負った。貨車の入れ替え作業は、電車が行き交うダイヤの隙間を使って行われていたが、時間にして5-6分しか余裕がなく最初から無理な作業であった。後に駅長、貨物列車の運転士、構内掛が業務上過失傷害の疑いで逮捕。名古屋陸運支局が特別監査を行った[111]

急行「よしの川」脱線事故[編集]

1969年(昭和44年)10月19日
阿波池田小松島港行き急行「よしの川」4号(気動車2両編成)が、下浦駅付近にある踏切で警報を無視して突っ込んできたダンプカーと衝突。ダンプカーは下浦駅のホームに吹き飛んだ上に、急行の1両目が脱線し近くの食料品店を営んでいる民家に飛び込んだ。
この事故で急行の運転助士が民家と車両に挟まれ殉職。ダンプカーの運転手や乗客ら22名が負傷。

総武本線海老川橋梁脱線事故[編集]

1969年(昭和44年)10月30日 11時22分ごろ【列車脱線事故】
千葉県船橋市総武本線船橋 - 津田沼[注 16]において、船橋駅を定時で出発した三鷹発津田沼行108C列車(8両編成)が海老川橋梁付近(御茶ノ水起点 25.1 km)に差しかかったところ、進行右側で工事中のバックホウが突然ブームを左側に回転したのを発見した[112]。直ちに非常ブレーキを掛けたものの及ばず接触、180 m過ぎた上宿架道橋上で傾いて停車した[112]。この事故で1両目は全軸が左側に脱線し先頭部が大破、架線柱2本が倒壊し列車の運転士と乗客2名、およびバックホウの操縦者が重傷、乗客14名が軽傷を負った[112]
事故原因は同区間の工事を請け負った戸田建設が、無届けの重機(バックホウ)を未完成の工事用踏切から無断で進入、掘削作業中に下請け業者の運転者の誤操作にて発生したものとされた[112]。当時同路線では複々線化工事が行われており、当時の作業は既設の複線をそれぞれ外側に新設した橋梁を通る新線に切換えた後、旧線にて新橋台を構築する仮設備の段取りであった[112]
前日に上記作業に関して、作業責任者が掘削を行いたいとの申告を行い、国鉄側より「手掘り作業なら許可する」との条件で許可を受けたにもかかわらず重機による作業を無断で行った[113]。現場には見張員が配置されており、列車接近に気づいてバックホウの運転者に笛を用いて警告を行ったものの運転者には伝わらなかった[113]
この事故で先頭車のクハ101-60が廃車となった。

江ノ電正面衝突事故 (1969年)[編集]

1969年(昭和44年)11月25日20時50分頃
柳小路駅 - 鵠沼駅間で正面衝突事故が発生し、数名が軽傷を負った。単線区間の鵠沼駅でのすれ違い停車を怠り、上り列車(鎌倉発藤沢行)が早く発車したのが原因であった[114]

草津線落石接触事故[編集]

1969年(昭和44年)11月29日 22時23分ごろ
草津線石部駅を定刻に出発した普通745D列車(現車3両)が約60 km/hで力行運転中、石部駅より約1 kmの地点(柘植起点 28 k 550 m)にて列車の前頭部に落石が衝突した。このため1両目および2両目の気動車が全軸脱線し、1両目は運転室が大破し、進行右側に横転し停車した。
当該列車には乗客約70名が乗車していたが、この事故により運転士1名が死亡、乗客17名、乗員2名が負傷した。その後吹田から操重車を迎え、30日17時20分に開通。この事故でキハ30 6が廃車となった。

寝台特急「日本海」北陸トンネル列車火災事故[編集]

1969年(昭和44年)12月6日 6時20分ごろ
北陸本線敦賀 - 今庄間の北陸トンネル内を走行中の青森発大阪行き寝台特急「日本海」の前側、機関車次位の電源車(カニ21形)から火災が発生した。
当時の国鉄の規則では「火災が起きた場合は速やかに列車を停止させなければならない」と定められていたが、トンネル内・橋梁の上・住宅密集地での出火時の対応は各管理局に委ねられ、本社レベルで基準を制定していなかった。
当時「日本海」の走行区間にあった鉄道管理局のうち、金沢鉄道管理局では「トンネル内と橋梁上はなるべく避ける」という消火作業に関する基準が1969年に出されていた他、新潟鉄道管理局でも同様に「橋梁、トンネル、人家密集地など危険な箇所を避け、消火に便利な場所に停止させる」という同様の基準が1964年に出されていた。
当該列車の機関士は「トンネル内での停車は危険」と判断し、あえて規定に従わずに走行を続け、トンネルを脱出後に非常停車して、消防車の協力を得て消火作業を行い、火元車両焼損のみで鎮火した。この運転士の判断は乗客の安全を守るために機転を利かせたものとして好意的に報道された。
なお、当該運転士が乗務停止の処分を受け、北陸トンネル火災事故後に撤回されたという説が後年に流布したが、後年の各種文献の調査では確認できなかったという。また、『大阪車掌区史』(日本国有鉄道大阪車掌区、1983年2月18日発行)では、当時の同区の専務車掌が運転士の好判断を讃え、区長が事故の対応に当たった専務車掌と乗務掛全員の表彰を大阪鉄道管理局長に上申したという記述があることや、上記の金沢・新潟の基準に適合した取り扱いであることからも、処分の有無については不明である。
この火災から3年後、「きたぐに」による北陸トンネル火災事故では乗務員がトンネル内で停車させて消火にあたったが鎮火することができずに多くの死傷者を出した。事故後に実車を用いた火災実験等を経て「トンネル内で火災が発生した場合には走行を続けてトンネル脱出後に停止する」と本社レベルで明文化した。

東武伊勢崎線多々良 - 館林間踏切事故[編集]

1969年(昭和44年)12月9日 8時13分
伊勢崎発浅草行き準急列車が、伊勢崎線多々良 - 館林間にある309号踏切にて、警報を無視して進入してきた大型クレーン車と衝突。死者7名、負傷者101名を出す大惨事となった[115]。東武鉄道は1971年(昭和46年)9月14日に跨線橋を設置し、踏切は廃止された[注 17]。この事故で大破したクハ8139号車は、1970年(昭和45年)4月に修繕扱いで車体新製された。東武鉄道はこの事故を『館林事故』と命名している。

1970年代[編集]

1970年[編集]

山陰線川棚温泉 - 小串間列車脱線踏切障害事故[編集]

1970年(昭和45年)3月30日
下関発京都行き上り普通第826列車(現車7両)が山陰本線川棚温泉駅を定時に発車し、55 km/hの惰行運転中、進行方向右側から第3種踏切を警報を無視し直前横断しようとするミキサー車と衝突。1両目客車は全軸脱線し、進行右側に横転破損し、2両目も全軸脱線した。乗客4名、ミキサー車運転者1名の計5名が死亡し、乗客29名が負傷した。

総武緩行線列車ドア開け暴走トラブル[編集]

1970年(昭和45年)5月18日16時45分頃
総武緩行線千葉発三鷹行1641B電車(101系10両編成)が幕張駅を発車し約80キロで惰行運転中、乗務員が進行右側のドアが全部開いたことに気付き、非常ブレーキをかけたが停止することなく津田沼・船橋・西船橋の各駅[注 18]を通過する。
さらにその間に、運転士・車掌は停止に奔走し本列車に搭載されているすべての制動装置をかけたものの停止せず、運転士は先行電車を認めたため窮余の策としてパンタグラフを降下したところ速度が落ちて下総中山駅を約30m行過ぎてようやく停車した。
原因は、電動機と駆動装置を繋げている撓み板が壊れてジャンパ線に刺さり、制御回路が短絡したため、主回路の電流が切れずに力行状態が続いたことによる。

根岸線脱線事故[編集]

1970年(昭和45年)5月20日 21時30分ごろ【列車脱線事故】
神奈川県横浜市磯子区の根岸線新杉田 - 洋光台間の洋光台駅から200m上り方のトンネル付近で、高さ2m、長さ50mに渡って土砂崩れが発生。折しも通過中であった大宮発洋光台行き普通1939A列車(103系・10両編成)の2両目付近に直撃し前3両が脱線、1両目は上り線に突っ込み、2・3両目はくの字状に持ち上がった[117][118][119]。この事故で運転士が重傷、脱線した車両に乗っていた乗客2名が軽傷を負った[117][118]
調査の結果、現場付近で住宅開発を行っていた日本住宅公団が道路工事に伴う排水工事を終えていなかったこと、同区間の工事を請け負った日本鉄道建設公団の擁壁工事ミスにより、排水が十分できなかったことなどが原因であるとされた[120][121]。事故現場の区間は小川を埋め立てた場所であり地盤が弱かったが、十分な対策がなされていなかった[122]。このためコンクリートの擁壁が雨水に耐えきれず崩落したものされている[120]。事故当日の横浜市周辺は大雨注意報が発令されており、事故当時現場は土砂降りの雨が降っていた[117]
この事故でクハ103-548・モハ102-169の2両が1971年3月27日付けで廃車となった[123]。国鉄時代唯一の103系事故廃車事例である。

房総西線保田 - 浜金谷間急行「うち房」脱線転覆事故[編集]

1970年(昭和45年)7月1日
房総西線(現・内房線保田 - 浜金谷間の鋸山トンネル千葉寄り出口付近で事故前日から当日未明に掛けて降った集中豪雨により土砂崩れが発生した。そこに乗客約300人を載せた7両編成の千倉両国行き急行「うち房」上り2号(当該区間では普通列車)が乗り上げ先頭から3両が脱線。さらに先頭のクハ165-202は転覆し右側の天王川河原窪地に転落。乗客4名が軽傷を負った。クハ165-202は搬出時に車体を2つに切断したため復旧困難となり、同年8月13日付で廃車となった。同車は1969年6月に落成したばかりで、落成後わずか1年3か月での廃車は「国鉄で最も短命な電車」とされている[124]

尻内駅特急「はつかり」脱線事故[編集]

1970年(昭和45年)8月12日
東北本線(現:青い森鉄道線)尻内駅(現:八戸駅)で、上野青森行き下り特急「はつかり2号」(583系電車13両)が尻内駅構内を通過中に前6両が脱線し、一部の車両はホームに乗り上げたのち横転した。乗客30名が重軽傷を負った。
原因はポイントの切り替えケーブルが腐食し、ポイントに異常電流が流れてポイントが切り替わったため。脱線した車両は修理して運用に復帰している。

東武伊勢崎線花崎駅踏切衝突事故[編集]

1970年(昭和45年)10月9日20時17分
東武伊勢崎線鷲宮 - 花崎間(花崎駅東側)の埼玉県道370号北中曽根北大桑線と交差する207号踏切で大型ダンプカーと浅草発伊勢崎行き準急列車が衝突、5名が死亡し、173名が負傷した[115]。この事故により7800系の1編成2両(モハ7808 - クハ808)が大破し、廃車とされた。東武鉄道では唯一の事例となる踏切事故による事故廃車である。東武鉄道ではこの事故を「花崎事故」と命名している。

湯前線多良木 - 東免田間列車衝突事故[編集]

1970年(昭和45年)11月15日
湯前線(現・くま川鉄道湯前線湯前駅から逸走した貨車2両が、多良木駅下り場内信号機の外方170 m付近に停止中であった気第623D列車に衝突し、旅客111名(重傷1名、軽傷110名)と、気動車運転士1名が負傷した事故。
貨第371列車(10両)の牽引機関車は、定時に湯前駅1番線に到着し、貨車6両を持って安全側線に引き上げ、3番線に留置中の貨車14両に連結した。しかし、多良木駅方の貨車2両(コトラ41426号積車、コトラ45402号積車)が転動し、31号転轍機を割出し、逸走した。入換監視中の当務駅長は、貨車2両が51号転轍機付近を転動中であることに気づき追走したが、これに及ばず、貨車が本線に逸走したため、駅本屋に戻り、多良木駅に通報し、逸走した貨物2両の停止手配方を依頼した。通報を受けた多良木駅当務駅長は、接近中の気第623D列車に対して下り場内信号機に停止信号を現示させ、逸走中の貨車2両の進路を2番線に構成しようとしたが間に合わず、貨車2両は、時速約60キロメートル(km)で多良木駅1番線を通過した。そして駅下り場内信号機の外方170メートル(m)付近に停止中であった気第623D列車に衝突し、停止した。
原因は、湯前駅3番線に留置中であった貨車14両のうち多良木駅方から2両目と3両目の貨車間の連結器が連結されていなかったこと、多良木駅方から1両目の車側ブレーキを緩解したこと、3番線の鉄製車輪止めを早期に解放したこと、貨車の逸走したことの通報が遅延したことである。
すでに車両逸走事故の対策としては、1968年4月5日の函館本線野幌駅で発生した故障のため解放した気動車が逸走した事故、1969年11月28日の士幌線士幌駅で発生した入換中に不連結の貨車7両が逸走した事故により、車両逸走のおそれのある駅を要注駅として鉄道管理局長が指定し、車両の留置方、入換作業方法、転動時の停止手配などについて再指導を行い、車両逸走の注意を促す逸走注意警標を設置する、木製車輪止めより性能のすぐれた鉄製車輪止めが開発されたため車両逸走のおそれのある留置線に設置するという対策がとられた。しかし湯前駅で発生した事故にかんがみ車両逸走事故防止対策が見直され、車両が逸走してくるおそれのある駅を隣接駅として要注駅から逸走してきた車両が到達する時分、進入速度を予測計算し具体的な停止手配の方法を検討し、通報、停止手配訓練を春と秋との年2回実施するという対策が追加された。
逸走車両に対する停止手配器材は、ヘムシュー、砂袋、布団、畳、枕木などを整備してきたが、停止手配訓練を実施したところ、ヘムシューを除いて停止効果がほとんどなく、時速30キロメートル(km)以上の高速度における停止効果が認められなかったため、新しい有効な停止手配器材の開発を行うこととなり、北海道総局の実験線における効果の確認などを経て1972年1月、新しい停止手配器材(カーキャッチャー)が開発され、順次整備された。

1971年[編集]

東北本線列車衝突事故[編集]

1971年(昭和46年)2月11日2時52分ごろ
東北本線野崎 - 西那須野間で、仙台会津若松行きの急行1103列車「あづま2号・ばんだい6号」(EF58+客車13両)が6.1 の上り勾配を後退、最後部の郵便車が後続の貨物第1167列車(EF65+貨車41両)の機関車に衝突し、郵便車と貨物列車の機関車・貨車6両の計8両が脱線した。40名が負傷。急行列車の機関士が宇都宮から酔っ払って乗務し居眠り運転、惰性走行中に上り勾配に差し掛かったため、自然停車して後退したもの。

富士急行列車脱線転覆事故[編集]

1971年(昭和46年)3月4日8時25分ごろ
富士急行(現:富士山麓電気鉄道大月線月江寺駅の富士吉田駅(現:富士山駅)方踏切(緑ケ丘第二踏切。大月駅起点21.990 km。第1種自動)で、河口湖大月行き電車(3100形3103+3104)が、踏切内に進入した小型トラック(積み荷の落下に気を取られブレーキ処置をしないまま運転者が下車したため、転動し遮断機を突破したもの)と衝突。車両の下に引きずり込まれたトラックが空気溜めを破損したためブレーキが全く使えなくなり、電車は逸走し約4 kmを暴走。月江寺 - 暮地(現在の寿)間の4駅を通過した後、暮地 - 三つ峠間(最急40 ‰の下り勾配)のカーブに猛スピードで進入し、進行方向左側の沢に転落し、後部車両が大破した。乗客約120名のうち17名が死亡、69名が負傷した。トラック側2名が負傷した。
この事故後、空気ブレーキの系統を多重化するなどの対策が採られるようになった。また、代替に5000形が投入されたが、同社ではこの事故以降、車両番号の末尾が忌み番である「4」および「9」の車両は存在しない(例:のちに登場した1000形のうち、1204 - 1304は欠番)。2両固定編成の5700形の場合、本来「4」と編成される「3」、および「9」と編成される「0」の車両も存在しない。
事故現場付近には慰霊碑が建てられている。

土佐電気鉄道鴨部正面衝突事故[編集]

1971年(昭和46年)5月5日
土佐電気鉄道(現:とさでん交通)の伊野線鏡川橋南詰 - 鴨部のカーブで、伊野発知寄町行き電車(200形203号)が手前の交換所で待避待ち(タブレット交換)をせずに進行し、知寄町発伊野行き電車(同205号)と正面衝突した。衝突後203はさらに、衝撃でブレーキが損壊し、下り坂を逆行、後方のダンプトラックとも衝突した。重軽傷66名。事故車のうち203は廃車。205は修理され運用に復帰した。鏡川橋 - 鴨部市場前間は、同年中に特殊単線自動閉塞式の信号方式に変更されている。

札幌市営地下鉄南北線脱線事故[編集]

1971年(昭和46年)9月3日 午後1時ごろ
開業前の札幌市営地下鉄南北線で、真駒内駅を発車した乗務員訓練用の列車(4両編成)が、切り替え途中で案内軌条が途切れたポイント部に進入。前方2両が脱線しシェルターへ激突した。列車には見習い運転士と指導運転士の2名が乗務していたほか、国鉄関係者5名を含む28名が試乗していて[125]、運転士2名と、試乗客3名が打撲などの負傷。車両の前頭部とシェルターが大破した[125]。ATCは工事中のため未使用で、運転士は本来必要な指令所の指示を待たずに列車を発車させていた。
当時、完成検査を受ける前だったが、同年1月ごろから市民などを頻繁に試乗させていて、北海道運輸局から関係者以外を乗せないよう何度も指導されていた最中の事故であった。札幌市交通局は事故発生当初、試乗客の存在を明かさず、負傷者は運転士2名だけと発表していたが、翌日になって報道機関からの指摘で虚偽が発覚。現場職員が試乗客の報告を怠っていたことが判り、隠蔽体質が問題視された。事故の影響で乗務員訓練は1週間中断され、再開後は試乗を取り止めた[126]

急行「雲仙3号」火災事故[編集]

1971年(昭和46年)10月6日 午前2時ごろ
山陽本線笠岡駅-大門駅間で京都長崎行きの下り急行雲仙3号の10号車洗面台から出火。列車は岡山県から広島県へ入った付近で緊急停止したものの10号車1両が全焼し、乗客1名が焼死、同4名が飛び降りるなどして負傷した。火災の原因は、洗面所に備え付けられていたポリエチレン製くずかごに、マッチか火のついたタバコが投げ込まれ燃えだしたことによるもの。雲仙3号は現地で4時間停車したのち焼失した車両を含む6両を切り離し、福山駅で6両増結した上で運転を続行した[127]。この事故で火元となった10号車のナハ10 55は同年11月2日付で廃車となった。

近鉄特急衝突事故[編集]

1971年(昭和46年)10月25日 午後3時58分ごろ
近鉄大阪線榊原温泉口 - 東青山間の総谷トンネル内で、上本町(現在の大阪上本町)発近鉄名古屋行き特急電車(4両編成:12000系・12200系)と賢島発近鉄難波(現在の大阪難波)・京都行きの特急電車(7両編成:12200系10100系18200系)が正面衝突した。死者25名、重軽傷者288名[注 19]。事故発生場所がトンネル内だったため、復旧まで長期間を要した。ATSの誤作動で名古屋行き列車に作用した非常ブレーキを緩解するため、供給コックを閉鎖して緩解したことによりブレーキが作用不能となったのにもかかわらず列車を発車させたため、下り勾配でブレーキをかけられずに停止信号を突破したもの。

1972年[編集]

京都駅構内貨物列車脱線事故[編集]

1972年(昭和47年)1月26日 午前1時3分ごろ
東海道本線京都駅の貨物3番線で、梅小路貨物駅(現京都貨物駅)発亀山行きの第782貨物列車の前方7両が脱線し横転した。機関士が打撲傷を負ったほか、脱線した車両が旅客用2番線を塞ぎ、同日の旅客列車の運行に支障が出た[129]

船橋駅構内追突事故[編集]

1972年(昭和47年)3月28日 午前7時21分ごろ
総武本線船橋駅で駅構内の信号機トラブルにより停車中の緩行線上り613C列車(中野行き、101系10両編成)に、後続の緩行線上り711C列車(三鷹行き、101系10両編成)が追突し、711Cの6両目が脱線し、758名が負傷した。死者は出なかったものの、朝の通勤時間帯で乗客が非常に多かったため、日本の鉄道事故としては被害者数が最悪の事故となった。
事故発生の直前、蕨変電所の送電線が断線したことにより信号系が停電し、そのため先行の緩行列車は船橋駅に停車中だった。信号系の停電で閉塞信号機、および場内信号機が消灯していて、通常であれば後続列車もこれを確認して直ちに停止の手配が取られるところだったが、太陽の直射に幻惑されて消灯との判断ができず、後続列車の運転士は信号系停電時にATS-B型の警報が確認ボタンを押しても鳴り止まないことを知らなかったため、鳴り止まないATS警報に気を取られて故障ではないかとATSスイッチを操作しているうちに、ブレーキ操作が遅れて追突したものである(信号機消灯は停止現示とみなして直ちに停止するよう規定で定められている)。

急行「阿蘇」郵便車炎上事故[編集]

1972年(昭和47年)4月13日 午前0時50分ごろ
名古屋発熊本行きの急行「阿蘇」が山陽本線三石 - 吉永間を走行中、機関車の次位に連結していた郵便車から出火。同列車は吉永駅に臨時停車し、客車と郵便車との連結を外し400 m引き離して消火活動をした[130]。負傷者はいなかったが郵便車は全焼。郵便物1万数千通が焼失し、現金書留など一億円以上の損失が出た。当初は煙草の不始末が原因とみて岡山県警は捜査をしたが、当時名古屋鉄道管理局勤務で事故の対応をした山之内秀一郎の著作[131]によれば、郵便車の蒸気暖房管の周囲にある木材が摂氏160度程度の温度で長時間暖められ蓄熱し、やがて発火に至る低温発火現象[注 20]が事故車両で発生したとされ、非常に希な現象であるため火災責任はないとして不起訴処分になったという。

日暮里駅構内追突事故[編集]

1972年(昭和47年)6月23日13時59分ごろ
京浜東北線北行第1332C電車(桜木町大宮行き:103系10両編成)が日暮里駅で客扱いを終了し、2分遅れで発車したところ運転台の戸閉表示灯が消灯したためブレーキを掛け、約90 m進んだ所で停止した。一方で、後続の山手線内回り第1370電車(103系10両編成)の運転士は(当時は線路保守のため、データイムは田端 - 田町間で山手線と京浜東北線が同じ線路を走行していた。この運転方式は現在でもリフレッシュ工事と称される工事が行われる際に見られる)、一つ手前の鶯谷駅を1分遅れで発車し日暮里駅に進入しようとする際、先行列車がホーム中央部分に停車しているのに気付き、非常ブレーキを掛けたが間に合わずに追突した。
負傷者は158名、うち重傷者は6名。追突した電車の運転士は動労組合員であり、追突された電車の車掌は動労とは犬猿の仲である国労の組合員であったことから、事故直後に被害者の救助そっちのけで口論が始まり乗客から非難を浴びた[132]
原因は山手線の運転士が場内信号機の制限速度を超過して運転したためで、この事故をきっかけに信号保安機器の検討がなされ、京浜東北線・山手線のATC化が決定されることになった。しかし車両面での準備が遅れたため、実施は1981年12月6日まで待たねばならなかった。
追突されたクハ103-544、追突したクハ103-111は数年後復帰した。

繁藤駅列車土砂崩れ転落事故[編集]

1972年(昭和47年) 7月5日 午前10時50分
梅雨末期の集中豪雨により、土讃本線繁藤駅近くの追廻山が土砂崩れを起こし、駅構内に土砂が流入した。角茂谷駅との間が不通になっていたために停車していた高知発高松行き普通列車(機関車+客車4両編成)がこの土砂崩れに巻き込まれ、機関車と客車は近くの穴内川に転落し押し流された。列車はすでにバスに振替輸送をしていたが、車内に数人の乗客がおり、2名が救出された以外は行方不明となった。また、同日朝に付近で発生した小規模の土砂崩れによって行方不明になった消防団員1名の救出作業にあたっていた町の職員や消防団員、国鉄職員らも巻き込まれ、合わせて59名[注 21]が犠牲になった。

北陸線北陸トンネル列車火災事故[編集]

1972年(昭和47年)11月6日
北陸本線北陸トンネル内を走行中だった、大阪発青森行き客車急行列車「きたぐに」の11号車食堂車オシ17形)喫煙室椅子下から火災が発生し、列車が当時の規則に基づいてトンネル内で停車した。しかし、密閉された空間であるトンネル内だったことから、乗客・乗務員の多くが一酸化炭素中毒にかかり、30名が死亡、714名が負傷した。
この事故の3年前に同トンネル内で発生した特急日本海火災事故では、トンネル外まで列車を引き出して消火し物損のみに留めた。この事例に基づき規則改正を図れば避けられた惨事であった。
国鉄ではこの事故を教訓に実験を重ねた結果、トンネル内火災では脱出してから消火する方が安全であると確かめられたことから、運行規則が改められるとともに、地下鉄や長大トンネルを走る車両の難燃化・不燃化の基準が改訂され、車両の出火対策が進められた。

日田彦山線火災事故[編集]

1972年(昭和47年)11月7日 18時18分ごろ
福岡県田川郡添田町日田彦山線彦山筑前岩屋間にて、門司港日田行下り普通735D列車(5両編成)の最後尾車両(キハ55 190)床下付近から火を噴いているのを乗務員が発見、釈迦岳トンネル直前で緊急停車した[133][134][135]。乗客は前3両に避難し乗務員の手により、後部2両を切り離した。火は最後部から4両目(キハ26 458)に燃え移り、1時間後に消火したが2両とも全焼した[133][134][135]。この事故によるけが人は無かった[133][134][135]
事故後の調査では火元は5両目の第二エンジン付近とされ燃料系統から漏れ出た軽油が排気管の熱で発火したものとされた[136][137]
この事故で全焼した2両は事故廃車となった。

地下鉄日比谷線広尾駅車両火災事故[編集]

1972年(昭和47年)11月21日
帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)日比谷線下りB871S電車(3000系8両・全電動車)が、広尾駅600 m手前で過負荷継電器により編成内の電源が落ち、復旧後もノッチ操作に制御器が応答せず力行不可能となった。電車は広尾駅で運転を中止し乗客を降車させた。
直後の点検では車両に異常は認められなかった。しかし、乗客から「4両目の床下からボーンという音がした」「床下から少し煙が出ていた」という話を聞いた乗務員と駅係員は、上記の北陸トンネル火災の直後ということもあり、大事をとって編成を広尾駅の側線に待避させ、パンタグラフを降下させた上で再度点検することにした。
点検中、5号車(運転中の前から4両目)の断流器から発煙しているのを発見。粉末式消火器で消火を試みたが、作業中に爆発音とともに煙の勢いが強くなり、待避した。その後煙がおさまらないため消防に通報。
3539号車の断流器焼損、高圧ツナギ箱などの床下機器を一部焼損した。死傷者は無し。

1973年[編集]

東海道新幹線大阪運転所脱線事故[編集]

1973年(昭和48年)2月21日
東海道新幹線大阪運転所(鳥飼基地)からの回送715A電車(0系電車16両編成)が本線との合流地点で停止信号を冒進、直前で運転士が気付いたが間に合わず分岐機を破損して本線上で停止。さらにCTC指令員の不手際から、十分な状況確認をせずに車両を後退させたため、分岐器上で脱線した。事故による死傷者は発生しなかったが復旧に約18時間を要し、ダイヤが正常に戻るまで2日かかるなど大幅に混乱した。
ATC管理下の信号冒進・脱線事故で絶対停止03信号の添線軌道回路48 mを突破した停止システムの根幹に関わる事故であったことから大問題となったが、現車を使用した再現実験の結果、現場手前のカーブ地点でのレール潤滑油(レールと車輪の磨耗や、騒音を低減する)の過剰塗布が原因で、ATC自動ブレーキが十分に作用せず滑走したことが主要因と判断され03信号の添線軌道回路を50 mに延長した。また事故報告書では、運転士はATCの停止信号現示を見落としたため、脱線直前まで気付かなかったとされたが、この点については信号現示に異常があったとする運転士・組合側から反発を受けることとなった。
この後1974年 9月12日には東京運転所(品川基地)11月12日には新大阪駅構内で異常信号によるダイヤ混乱が発生。この事態を受けてATCを2周波方式の全国共通型ATC-1D/ATC-1W型に改良した。
また想定を超える設備劣化による車両故障やレール欠損事故などが立て続けに発生したことから、1974年から翌年にかけて「新幹線安全総点検」として半日運休を、さらに1976年から1981年まで「若返り工事」を行うこととなった。しかし、これらの措置は同時期に行われた国鉄料金体系の大幅な値上げや、同時期の国鉄で相次いだストライキをはじめとする労使紛争などと相まって、それまで新幹線が絶対的優位を保っていた併走ルートの近鉄名阪ノンストップ特急が再起するきっかけとなった。

赤羽駅脱線事故[編集]

1973年(昭和48年)6月19日 10時08分ごろ【列車脱線事故】
東京都北区の東北本線赤羽駅構内の下り方1kmの地点で、旅客線から貨物線へ転線中だった尾久高崎行試運転列車(試第6991レ EF58 51牽引・5両編成)の最後部1両(スニ41 2013)が脱線した[138][139][140][141][142]
この事故でけが人等はなく、東北本線は一時運転を見合わせたものの事故発生から約30分後に運転を再開した[138][139][140][141]
この事故の原因は分岐器のレール踏面に浮き錆が発生したことにより、軌道短絡不良が発生し分岐器が誤作動したものとされた[142]。問題の分岐器を分岐方向に進む列車は事故発生当時毎週日・月曜日を除く1日1本の列車のみで、事故発生日は火曜日であった事から事故当該は72時間ぶりに通過する列車であった[142]。この間小雨があったこともあり分岐器の上は相当な浮き錆が発生しており、このため列車が渡り線に進入すると列車を検知する事ができなくなっていた[142]。そのため実際には渡り線を走行中であるのにも関わらず分岐器の転換が可能な状態となってしまい、脱線に至った[142]
事故後、レールメッキによる短絡感度向上、および使用回数の少ない進路においては短絡不良が発生しても誤転換する事がないよう、一定時間進路変更ができないタイマーを追加するか使用停止措置にする対策をおこなっている[142]

急行「仙山」衝突脱線転覆事故[編集]

1973年(昭和48年)9月8日
仙山線愛子 - 陸前白沢間で上り急行「仙山」1号が、踏切内で立ち往生していたトラックと衝突。同列車に充当されていた仙台運転所(現・仙台車両センター)所属455系電車6両編成中のうち5両が脱線。この事故で乗員乗客66名が重軽傷を負った。
先頭車に組成されていたクハ455-45は転覆大破し同年10月16日付で廃車された。代替として金沢運転所(現・金沢総合車両所)でビュフェ営業停止などによって余剰休車となっていたサハシ455-18を郡山工場(現・郡山総合車両センター)でクハ455-201へ改造施工し、1975年10月3日付で仙台運転所へ配置された。

特急「さざなみ」衝突脱線事故[編集]

1973年(昭和48年)11月23日 17時21分ごろ
内房線那古船形 - 館山間で、東京発館山行き下り特急「さざなみ6号」(183系電車9両編成)が、踏切で立ち往生していた約20トン(t)の船舶用エンジンを積載したトレーラーと衝突し、35名が重軽傷を負った。
この事故で先頭車両だったクハ183-17は、トレーラーの荷台に乗り上げ約100メートル(m)を脱線したまま走行し大破。前面部分が「く」の字型に折れ曲がり、修復困難となったことから1974年2月12日付で廃車となった。
なお、同車は1972年6月に落成後約1年半での廃車。代替として1975年にクハ183-39が製造された。

関西線平野駅列車脱線転覆事故[編集]

1973年(昭和48年)12月26日
関西本線平野駅構内を走行中の湊町(現:JR難波)発奈良行き上り普通722K列車(113系電車6両編成)の運転士は、8時12分ごろ、上り第1閉塞信号機の減速信号および平野駅場内信号機の注意信号の確認を欠き、分岐器に対する制限速度を超過したまま運転し、平野駅3番線で第56号転轍機にさしかかった際に制限速度35 km/hを超過していることに気付き、非常ブレーキを使用した。当該列車は、第56号転轍機のトングレール先端から34 m進入した上り本線と上下待避線のわたり線で進行右側に脱線、196 m進行して停止した。先頭車両(クハ111-55)が全軸脱線、車体が進行右側に横転転覆、2 - 6両目車両も全軸脱線転覆し、3名が死亡、149名以上(156名とも)が重軽傷を負った。
事故の直接的な原因は制限速度35 km/hの分岐器を70 km/h以上で通過したことによるが、当該列車が関西線では快速運用に入ることが多かった113系電車による編成だったことから運転士が平野駅を通過する快速と勘違いしていたとされることや、当該列車の運転士が意識朦朧となった状態で運転していたことも原因とされている。
この事故を契機に関西本線における113系の運用はJR発足まで長らく、日中帯は快速運用に限定されることになる。さらに関西本線ではトランスポンダ式Pとの比較で廃止された変周式ATS-P[注 22]の長期試験も実施された。

1974年[編集]

鹿児島本線特急列車曲線過速度脱線事故[編集]

1974年(昭和49年)4月21日 13時50分ごろ
鹿児島本線西鹿児島(現・鹿児島中央) - 上伊集院間(当時広木駅は未開業)で特急「有明」上り2号に充当されていた583系電車12両編成がR300の曲線に制限速度65 km/hを大きく超える推定95 km/hで進入して1両目・2両目車両の第1軸が脱線した。負傷者78名。原因は遅延を取り戻すために運転士が出発以降速度制限を無視して加速を続けたこと。
曲線過速度脱線事故のひとつであり、後の2005年4月25日に起きる福知山線脱線事故と似通った発生条件である。

羽越本線脱線事故[編集]

1974年(昭和49年)7月10日 2時42分ごろ【列車脱線事故】
秋田県本荘市の羽越本線西目 - 羽後本荘間の船岡トンネルの羽後本荘側入口付近にて、推定70km/hにて走行中の八戸貨物発百済(現・百済貨物ターミナル)行臨時特急コンテナ貨物列車8090レ(ED75形電気機関車重連牽引・16両編成)が、崩落した土砂に乗り上げ脱線、コンテナ車4両はトンネル入口付近で転覆、機関車2両はトンネル左右の壁面に衝突しながら50 mも暴走した[143][144][145][146]
この事故で機関車2両とコンテナ車4両が脱線し、機関士1名がトンネルの壁面と機関車の間に挟まれ死亡した[143]
付近では台風8号の影響で前日朝から雨が降っており[147]、この雨の影響で線路脇の崖から幅20 mに渡り約250立方メートルの土砂が崩落したものとされた[143]。同線では1時間雨量で25ミリ降ると羽後本荘駅に設置された警報が鳴る仕組みであるが、事故前夜は35ミリの雨が降ったものの断続的であったため作動しなかった[148]
事故後の調査では、土砂が粘土質で脆い・出水が多い・新旧トンネル[注 23]とも法面の角度が急である点が指摘された[145][150]。その他の要因としては、現場の崖の上にある水田と斜面に植えられた杉の木が挙げられている。水田は昨年まで休耕田だったが、事故の年は水を入れ田植えを実施、その上前述の大雨で水田の堰から水が溢れる状態であった[145]。斜面に植えられた杉については豪雪により大半が根本より折れており水が浸透しやすい状態となっていた[145]
秋田鉄道管理局では土砂崩れ・落石警戒区域を設定していたが、事故現場はこの区域に入っていなかった[145]。また動労側でも2年前に五能線で発生した事故をきっかけに独自で危険個所を洗い出していたが、これにも事故現場は含まれておらず、両者とも土砂崩れが発生する場所と認識していなかった[145]
事故後、国鉄では現場の崖の上にある水田を含む土地と斜面の買い上げを行い、法面の傾斜を緩やかにし、排水用パイプを設けるなどがけ崩れ防止対策をおこなった[150][151]
この事故で先頭の機関車であったED75-736は現地で解体され搬出[152]、1974年8月12日付で廃車となった。

東北本線列車脱線衝突事故[編集]

1974年(昭和49年)9月24日
東北本線古河 - 野木間で大宮操駅郡山操車場行き貨物列車が脱線、上り方面の線路を支障した。そこへ、上野行きの急行「まつしま5号」「ばんだい4号」(455系電車13両編成)が突入。上野方の「ばんだい4号」は左側前面の一部を破損して脱線転覆。52名が衝撃で跳ね飛ばされたり、ガラス片で手足を負傷するなどした。

1975年[編集]

西鉄大牟田線列車衝突脱線事故[編集]

1975年(昭和50年)3月1日 19時6分
西鉄大牟田線井尻 - 雑餉隈間の井尻3号踏切において、西鉄福岡大牟田行き特急1803列車(2000形電車2041編成)が踏切内に進入してきた自動車(中型ライトバン)と衝突、先頭車両が横転、後続車両も脱線した。
重傷者2名(うち自動車運転者1名)、軽傷者41名(うち公衆2名)を出したが、横転事故にもかかわらず死亡者は出なかった。

信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故[編集]

1975年(昭和50年)10月28日
信越本線軽井沢 - 横川間(碓氷峠)の上り線で、単行機関車列車(回送列車)列車番号単5462列車(4両編成、EF63 5, 9+EF62 12, 35)が下り勾配でブレーキが利かなくなり、速度超過のため曲線のトンネル内で脱線し、そのままトンネル出口から築堤下へ転落した。この事故で乗務員3名が重軽傷を負った。事故機は4両とも廃車となり現場で解体された。このうち、EF63形については24・25号機が代替製造されたが、EF62形については汎用機のEF81形の代替製造で対応している。
この区間には最大66.7 ‰の急勾配とR350の右カーブがあるため、下り勾配を走行するEF63形は発電ブレーキ抑速ブレーキ)を使用して、列車の速度を一定に保ちながら降坂する。その際にすべての列車は、過速度検知装置 (OSR) によって最高速度を旅客列車40 km/h、貨物列車25 km/hに制限されており、機関車の回送列車である当該列車は貨物列車と同じ扱いで制限速度25 km/hで走ることになっていた。ところが、何らかの理由でこのOSRが正常に作動せず(機関士が誤って旅客列車側にスイッチを入れていたとの説もある)、事故に至ったものと推定されている。
この事故を受け、EF63形の全車両に設置されているOSRをより強固なものに変更することも検討されたが、過密ダイヤをさばくには横川駅付近の緩勾配区間を速やかに通過することが求められた(この付近ではOSRを切って運転される)ため、強制的な速度制限機能の付加は見送られた。この区間において類似の事故は、これ以降1997年の廃線まで一切発生しなかった。

山陽線須磨駅ホーム転落事故[編集]

1975年(昭和50年)12月27日 15時50分ごろ
須磨駅にて新快速153系または165系 6両編成)の通過待避をしていた各駅停車の車掌、大山健一(入局2年目)が、泥酔状態でホームから転落した老人を見つけ、救助しようと線路に飛び降りたが、間に合わず新快速電車にはねられ殉職、老人も死亡した。救助しようと飛び降りた時には新快速電車は約50メートルまで接近していた。線路とホームとの間の隙間は狭く人が身を寄せられる余裕もなく、ホームの下の空洞になっている退避場所は五、六十メートルおきにあり、大山車掌は咄嗟に退避場所を探したが近くにはなかった。プラットホームにいた運転主任が、赤旗を振り五十メートル走って新快速電車の運転士に知らせていた。大山車掌は老人をレールとホームとの間の側溝に伏せさせ、自分も老人の上から覆い被さるように伏せるも、3、4両目の床下の機器に触れて身を裂かれたという[153]。現在、事故現場近くには顕彰碑が建てられている。

1976年[編集]

根室本線庶路駅付近で発生した脱線転覆事故[編集]

1976年(昭和51年)4月13日15時30分ごろ
根室本線庶路駅付近で特急「おおぞら」3号が脱線転覆する事故が発生した[154][155]

高松琴平電鉄志度線列車正面衝突事故[編集]

1976年(昭和51年)8月1日 午前10時20分ごろ
高松琴平電気鉄道志度線今橋駅付近にある向良横踏切(高松市松島町)で上下2両編成電車時速約30 kmで正面衝突した。当日は日曜日海水浴に向かう家族連れら約450名が乗車しており、重傷者17名を含む負傷者224名を出す事故となった。なお、事故車両(上下いずれも1000形)は運転台が潰れたため廃車になったが、同社にとって有責事故による廃車は唯一である。
事故は志度線が全線単線であり、上下電車が今橋駅で交換するダイヤだったにもかかわらず、下り電車の運転士が失念。赤信号を無視して出発した人為的ミスだった[156]。また当時志度線にATSは設置されていなかった。

東海道線蒸気機関車接触事故[編集]

1976年(昭和51年)9月4日
この日、東海道本線の京都 - 大阪間で同区間の開業100周年を記念し、蒸気機関車C57 1が牽引するイベント列車の「京阪100年号」が1往復運行されていたが、その上り列車に茨木駅付近の線路内で撮影をしていた小学校5年生の男児が接触し、死亡した。
事故そのものは、国鉄側に責任のない鉄道人身障害事故だったが、国鉄における蒸気機関車の動態保存に対する考え方を大きく変えた事故となった。

函館本線駒ヶ岳貨物列車過速度脱線転覆事故[編集]

1976年(昭和51年)10月2日 午前4時42分ごろ
函館本線駒ヶ岳 - 姫川間の60 km/h制限下りR300カーブに、下り貨物4781列車(DD51形ディーゼル機関車+貨車41両)が推定110 km/h余りで進入し、貨車41両中40両とDD51形機関車が脱線転覆した[157]。脱線車両数としては国鉄最大の事故となった。現場付近は登坂線を小沼湖畔まで登って大沼駅から分岐する短絡本線の緩勾配を登り、駒ヶ岳駅先から事故発生の急勾配20 ‰急曲線R300の連続で姫川信号所に降り海岸まで下っている。居眠り運転により大沼駅からの緩勾配と平坦部で加速し下り急勾配中のR300カーブに進入したとされている。

1977年[編集]

上越線急行「佐渡」脱線事故[編集]

1977年(昭和52年)3月8日
上越線津久田 - 岩本間で直径3.7 m・重さ30トン (t) の巨大な岩が崖から落下し、この現場に上野発新潟行下り急行列車「佐渡3号」(165系電車12両編成)が激突。前から4両が脱線し、837名の乗客のうち1名が死亡、111名が負傷した。被災車両のうち6m下の国道17号に転落した先頭車両のクモハ165-3、横転した2・3両目のモハ164-3・クハ165-58が復旧困難により同年5月18日付で廃車。本事故後に「防災補助金制度」が整備された。

信越本線急行「信州」脱線事故[編集]

1977年(昭和52年)7月25日14時15分ごろ
信越本線(現・しなの鉄道線上田 - 西上田間の蟹町踏切付近で異常高温によりレールがゆがむ障害が発生した。その後、当該区間に約90 km/hで上野発長野行き下り急行305M列車「信州2号」(169系電車12両編成)が進入し、約200メートル暴走。この結果、後側7両が脱線し乗客7名が負傷した。当該車両のうちモハ168-5が大破したため、1978年3月10日付で廃車された。なお、当日の上田市は30 ℃を超える最高気温を記録している。
また、廃車となったモハ168-5のMM'ユニット相手方であったクモハ169-5は、被害が大きくなかったことと製造から10年以内[注 24]減価償却資産の耐用年数等に関する省令(昭和40年3月31日大蔵省令第15号)に定められた鉄道用車両における電車の償却年数である13年に満たない状態であったことから、復旧後は休車となった[注 25]。しかし、1982年に償却年数である13年を経過していたクモハ169-9が大規模な車両故障を起こし、修復を行わず廃車となった際にMM'ユニットの相手を失ったモハ168-9とMM'ユニットを組み直し運用に復帰した。

1978年[編集]

阪急電鉄十三駅扉挟み死亡事故[編集]

1978年(昭和53年)1月20日 午前8時47分ごろ
阪急電鉄十三駅の4号線ホーム(宝塚本線上りホーム)で、梅田行き普通列車が発車する際、扉に挟まっている乗客を見落とし、テレビカメラで監視していた保安スタッフが出発合図を送ったことにより列車を発車させた。その後、異変に気づいて21 m走行したところで停止したものの、乗客はホーム上を5 m引きずられた後、軌道内に転落して列車にひかれ死亡した。
1995年(平成7年)の東海道新幹線三島駅乗客転落事故と類似の事故である。

営団地下鉄東西線列車横転事故[編集]

1978年(昭和53年)2月28日 21時34分ごろ
営団地下鉄(現:東京メトロ東西線中野行き(快速)(5000系 5818F、10両編成)が葛西駅を出発して南砂町駅(当時は西葛西駅が未開業)へ向けて走行中であった。荒川中川橋梁に差し掛かった際に竜巻による突風を受けて後部2両が西船橋方面の線路上に横転し、1両が脱線。23名が負傷した。
事故は橋梁上で発生したが、車両がワーレントラス橋の筐体内で横転したため、車両が橋から転落する余部鉄橋列車転落事故のような事態は免れた。
当時の営団は事故防止のため、
  • 風速が毎秒15 m以上でブザーが鳴動し、注意運転をするよう呼びかけ
  • 20mで運転見合わせ
  • 25m以上で運転休止する
よう指示することになっていた。
荒川中川橋梁から800mの地点に風速計が設置されていたが、大手町運輸司令所では警報ブザーは鳴動しなかった。当時、東京上空には21時の気圧配置において北緯40度・東経137度付近に春一番をもたらした、現在で言う「爆弾低気圧」と寒冷前線1本がかかっており、非常に不安定な気象状況だった。竜巻突風による被害は21時20分頃に神奈川県川崎市で突風により民家8戸が全壊、60戸の屋根が飛ぶなど、幅は300 - 500mの範囲に被害が集中していた。川崎市から市川市東方までの30kmの範囲、時間は25 - 30分間に集中した。竜巻突風は時速80 - 100km/hの速さで東北東に進んでいた。
当時、5000系ステンレスカーの車重が問題となったが、その後の調査により、走行中の列車を竜巻が直撃する確率は50 - 100年に1回と計算され、不可抗力という結論になった。
さらに、この事故現場が事故車両の撤去を妨げていた。現場は荒川と中川をまたぐ橋の中で車両が横転しており、また真下には川があったことで、クレーン車などの作業車が来るのは困難であり、脱線・転覆して復帰が困難とされる後部2両(5818号車・5252号車)については現地で解体することに決定し、翌年に同番の2両を川崎重工で代替新製することで補った。

高松琴平電鉄長尾線列車障害事故[編集]

1978年(昭和53年)11月3日 14時35分ごろ
高松琴平電気鉄道長尾線平木 - 白山[注 26]の鹿伏中央踏切で、警報を無視して踏切内に侵入した大型ダンプカーに長尾瓦町行き電車(750形2両編成)が時速約70 kmで衝突した。電車の先頭車がダンプカーを20 mほど引きずる形となったのち線路脇の水田に転落・大破し、電車運転士とダンプカー運転者が死亡、乗客と車掌計3名が重軽傷を負った。事故原因は過積載と速度超過状態で走行していたダンプカーがブレーキが間に合わず踏切内に進入したためとされた。なお、損傷の激しかった先頭車(750形770)は現場で解体処分された。

1979年[編集]

常磐線列車衝突脱線転覆事故[編集]

1979年(昭和54年)3月29日15時5分ごろ
常磐線神立 - 土浦間の鹿島街道踏切(警報機、遮断機付)で平(現在のいわき)発上野行き上り普通482M列車(403系電車12両編成)が警報を無視して進入したダンプカーと衝突。ダンプカーは大破。電車は1両目が前部を大破して約70 m暴走した後脱線、進行方向左側約2 m下に転覆。2両目以下も約200 m暴走し、2両目が脱線した。ダンプカーの運転手1名が死亡、乗客57名と電車運転士1名が負傷した。この事故で架線を切断したため、取手 - 友部間で翌日の10時30分ごろまで運休した。事故車の先頭車(クハ401-52)と2両目(モハ402-1)が廃車となった。事故後に鹿島街道踏切は閉鎖され、既に完成していた常磐線を越える立体交差に移行させると同時に現場近くには線路の下を潜る通路が設置された。
2021年(令和3年)3月26日にも付近で似たような事故が発生している。

信越本線篠ノ井駅列車衝突脱線事故[編集]

1979年(昭和54年)6月2日4時31分ごろ
信越本線篠ノ井駅において、入換中の貨車7両と長野行き臨時修学旅行電車165系電車8両編成)が衝突。電車の先頭車1両(クハ165-190)と貨車2両が脱線・転覆し、乗客の中学生と教師ら364名が負傷した。
当時、駅構内で貨車の入換中だったが、貨車を機関車から突放する際に、突放された貨車に飛び乗ってブレーキをかける構内係が待機しているか否かを確認しないまま、操車係が入換機関車に突放指示を出したため、機関車より突放された7両の貨車はブレーキをかけられることなくそのまま構内を800 m逸走し、分岐器を割り出して篠ノ井線の本線へ進入し、駅に進入中の修学旅行電車が衝突したものである。衝突時の速度は貨車が約5 km/h、電車は非常制動をかけたこともあって約30 km/hと比較的低い速度での衝突だったが、衝突した両数が多かったためか多くの負傷者を出す惨事となった。その後、長野県警によって操車係3名が逮捕された。
先頭車のクハ165-190は同年11月27日付で廃車。

江ノ島鎌倉観光(江ノ電)藤沢駅構内暴走脱線事故[編集]

1979年(昭和54年)6月6日15時46分ごろ 【列車衝突事故】
江ノ島電鉄江ノ島鎌倉観光線(現・江ノ島電鉄線藤沢駅に進入中の電車 (301F) 2両が所定停止位置を超え、車止めの砂利を乗り越え車止め標識と線路終端施設に衝突し乗客乗員負傷者70数名をだした。死者はなし。この事故で先頭車デハ301の前部台車が脱線した。
終点のため減速しながら所定停止位置に止めなければならないところ、運転士の供述では「パチン!と音がしブレーキが利かなくなった」状態になり、そのまま20数km/hの速度で線路終端施設に衝突した。後に機械的な不具合は発見されず、運転士の操作ミスとして逮捕起訴され執行猶予付き禁固刑が確定。当時の江ノ電にはATSなどの保安装置が無く、この事故を契機に保安設備の充実が図られ、以後は中小ローカル私鉄としては十二分な保安設備向上が図られたが、沿線の鎌倉市周辺は山に囲まれている地形や線形の複雑さから、現在でも列車無線が100 %の威力を発揮できずCTCなどの集中制御方式は見送られた。しかしATSによる細かい速度規制などにより、監督官庁の査察が入るような事故は皆無である。

京王帝都電鉄京王線列車障害事故[編集]

1979年(昭和54年)10月3日 【踏切衝突事故】
京王帝都電鉄(現・京王電鉄京王線武蔵野台駅東側の飛田給11号踏切にて、トラック(2名乗車)の荷台から転落した重機(ショベルカー)に高尾山口新宿行き上り急行列車(5000系7両編成[注 27])が衝突。衝突現場が左カーブの付近だったため、重機が前に押し出されて下り線の線路を支障したところに、新宿発京王八王子行き下り特急0015列車(5000系7両編成[注 28])がさらに衝突。前2両が重機に乗り上げて脱線転覆、落下した重機を載せたトラックに衝突した。重機を退かそうとして重機に乗り込んだトラックの運転手が重機ごと電車に轢かれて死亡し、列車の乗員・乗客ら52名が負傷した。トラック運転手が荷物重量制限の確認注意を見落とした可能性に加え、荷台の重機をロープ等で固定していなかったため、傾斜のある踏切を渡った際の振動で重機が踏切線路上に落下したとみられる。事故当日は武蔵野台駅近くで駅舎改築に伴う道路舗装工事をしていたが、降雨のために中止となり、重機を撤収・移送している途中での事故だった。武蔵野台駅の東側(同駅 - 飛田給駅の間)はカーブになっており、最初に衝突した急行列車が重機に衝突の際に緩やかな左カーブの位置だったため、重機は前に押し出されて下り線の線路を支障し、さらに今度は見通しの悪いカーブから下りの特急列車が間に合わずに衝突され、重機に乗り上げて脱線転覆(駅南側の駐車場に先頭車両(クハ5871号車)がのめり込み、落下した重機を載せたトラックに衝突した。)したとみられる。なお、事故から43年が経過した2022年5月現在もカーブおよび、事故現場の踏切、駅南側の駐車場は移設せずに残っている。当該トラックに乗車しており生存していた運転手1名は道路交通法違反(積載不備)、業務上過失致死罪過失往来危険罪府中警察署現行犯逮捕された[159]。この踏切には障害物検知装置が未設置であったことから、本件以後京王での踏切安全対策強化が進められた。事故車両は高幡不動駅構内の高幡不動検車区に運ばれ、損傷が酷かった京王八王子方の先頭車1両(クハ5871号車)が1979年11月16日付で廃車となり、翌1980年1月末に同検車区にて解体された[160]。このクハ5871号車は1968年(昭和43年)に通勤電車として初の冷房が採用された試作分散冷房車であった。

武蔵野貨物線生田トンネル貨物列車追突脱線事故[編集]

1979年(昭和54年)11月18日【列車衝突事故】
武蔵野貨物線府中本町駅 - 梶ヶ谷貨物ターミナル駅間の生田トンネル内を走行中の貨物列車が、機関士の居眠りにより停車。停車位置が上り勾配であったために自然後退し、停止信号で停車中であった後続の根岸宇都宮貨物ターミナル駅行きの石油貨物列車に衝突。貨車4両が脱線転覆、11両が脱線した。先行列車機関士の運転中の居眠りによる過失と断定され、先行の貨物列車の機関士および貨物列車の車掌が書類送検された他、職場そのものの士気低下も問題視された。

1980年代[編集]

1980年[編集]

京阪電気鉄道置石脱線事故[編集]

1980年昭和55年)2月20日20時59分【列車脱線事故】
大阪府枚方市京阪電鉄京阪本線枚方市 - 御殿山間の磯島茶屋町付近で、枚方市立第一中学校に在学で同市内の中学生5人組のグループが悪戯で線路脇のケーブルトラフ(コンクリート製U字形溝)の蓋を線路上に置いた[161]ため、同地を通過した淀屋橋三条行きの急行電車(5000系7両編成・乗客約400名)の先頭3両が脱線、先頭車輛が民家に突っ込み、2両目は横転[162]。幸い死者は出なかったが、負傷者104名の大事故になった。
この事故により先頭車両5554号車は廃車となり、同じ番号の車両がその年12月に代替として新製された。
中学生グループおよび保護者に対して京阪電鉄は損害賠償を求め、5人のうち4人は1人あたり840万円の示談金を支払うことで示談が成立した[163]。しかし、残りの1人とは示談が成立せず、1982年2月に京阪側が損害賠償を求める裁判を起こす[163]。この親権者は「グループには入っていたが、実行行為に関与していなかった」と主張し、大阪高等裁判所がその主張を認めた[164]。しかし、1987年最高裁判所は謀議に入った者も賠償責任が発生するとする旨の判決[165]を出し、大阪高裁に差し戻した。同年の差し戻し審では、他の元中学生4名と同じく840万円を支払うとの和解が成立した[166]。京阪は約4200万円の賠償金を受け取ることになったが、これは実際の損害額の約10分の1である。残る9割の損害は保険で対処した。
この経験から、対策として京阪を筆頭に、鉄道事業者各社においては、沿線から線路に侵入させないようなフェンスや有刺鉄線をきわめて積極的に設置した。さらに、先頭車両への排障器の設置と、先頭台車への補助的な排障器具の設置を進めた。

中央線大久保 - 東中野間列車追突事故(1980年)[編集]

1980年(昭和55年)10月17日 9時25分ごろ
中央緩行線東中野駅から大久保方340 mに停車中の西船橋発中野行き下り普通列車に後続の千葉発中野行き下り普通列車が追突し、両列車の乗員乗客12名が軽傷を負った事故。

1981年[編集]

長崎本線特急「かもめ・みどり」脱線事故[編集]

1981年(昭和56年)6月7日13時53分ごろ【列車脱線事故】
長崎本線久保田 - 牛津間を走行中の博多長崎佐世保行き特急2021M列車「かもめみどり11号」(485系電車12両編成)が、柳掘橋梁(長さ7.3 m)付近の左側半径800 mのカーブを約時速90 km/hで走行中、左側レールが2箇所、横波状に曲がっているのを運転士が発見し非常ブレーキをかけ300 m走ったところで停車したが後ろ寄りの6両(「かもめ」後ろ2両と「みどり」全編成)が脱線した。負傷者23名。原因は、暑さ(当日は佐賀県で32.3度の最高気温を観測していた)でレールが伸びたことと、同橋梁で使用していた橋梁構体と枕木を固定するボルトが粗悪品で折損したため。同橋梁では全部で18本あった枕木の締め付け部に平均2 cmの隙間が開いており、該当列車が通過前、暑さでレールが伸びた際に枕木が左右にずれ、同列車が高速で侵入した際ボルトが折損し後部車両が脱線大破した。このボルトは溶接箇所が断面積の20 %しか溶接されていない粗悪品で、1973年には国鉄本社で使用中止にし、以降枕木交換の際に継ぎ目のない一体成型品に交換していたが、同橋梁では1978年に枕木を交換した際に、なぜか右側のみ交換され、左側は古いものがそのまま使用されていた。
この頃暑さにより同様の事例が多発していたことから、塩川正十郎運輸大臣高木文雄国鉄総裁(いずれも当時)に注意を行い全国で緊急に線路状況点検が行われた。
脱線した車両のうち特に損傷の激しかった「みどり」編成後部に組成されていたモハ485-117・モハ484-221・クロ481-53の3両が廃車となった。同系列が国鉄時代に事故廃車された唯一の事例である。

1982年[編集]

寝台特急「紀伊」機関車衝突事故[編集]

1982年(昭和57年)3月15日 2時16分ごろ【列車衝突事故】
機関車付け替えのため名古屋駅に運転停車中の東京紀伊勝浦行き寝台特急「紀伊」(14系客車6両編成)に、連結しようとしていたディーゼル機関車DD51形717号機)が約20 km/hで衝突し、客車3両が脱線した。負傷者14名。事故を起こした機関士は当該仕業前の仮眠時間に飲酒しており、それによる居眠り操縦をしたことが原因だった。この事故は、国鉄に対する世間の信用を失墜させただけでなく、当時マスメディアを中心に展開されていた、国鉄職員のモラル欠如への批判キャンペーンをさらに強めることとなり、国鉄と国労などでは、本社職員幹部を更迭するなどし、マル生運動破綻以来の労使癒着関係を解消させることにもつながった。またこのころ相次いだ「たるみ事故」に「職場規律を正します」との中吊りが車内に掲示され、一部組合も協力して職場規律回復の動きが行われた。機関車と事故列車の先頭車(スハネフ14 102)が廃車となった。

東北本線で発生した踏切障害事故[編集]

1982年(昭和57年)4月6日 8時30分ごろ[167](踏切障害・列車脱線事故)
埼玉県北葛飾郡栗橋町(現在の久喜市)佐間の通称「呉服踏切」で、上野発小金井行きの普通列車(115系電車15両編成)と、立ち往生していた3.6 t牛乳運搬用自動車(タンクローリー)が衝突し、列車は自動車をおよそ60 mほど引きずったのち先頭車両が脱線した[167]。その衝撃で、列車の乗客と運転士合わせて12名が軽傷を負ったほか、自動車は大破し、積み荷の牛乳が線路に飛び散った[167]。警報機が鳴っている踏切に自動車が無理やり突入して出れなくなったのが原因であり、自動車の運転手は業務上過失傷害罪過失往来危険罪で現行犯逮捕された[167]

中央本線鳥沢駅構内列車脱線事故[編集]

1982年(昭和57年)5月28日 13時27分ごろ[168](列車脱線事故)
山梨県大月市富浜町の中央本線(中央東線)鳥沢駅構内で、松本発新宿行きの特急「あずさ8号」(189系電車12両編成)が、高温によってゆがんだレール上を通過した際に12両中8両が脱線し、乗客2名が負傷した[168]。当日11時前に大月保線区員が巡回した際にはレール温度は問題なかったものの、隣の猿橋駅構内でそれを検測したところ45度になっており、事故当時の鳥沢駅周辺の気温が31度に達していたことも踏まえると、事故当時の鳥沢駅構内のレール温度はおよそ50度くらいに上昇していたと推定された[168]。その影響でレールが膨張し、さらに列車の負荷によってゆがみが発生したと考えられた[168]

石北本線特急「オホーツク」脱線事故[編集]

1982年(昭和57年)6月11日 12時ごろ【列車脱線事故、線路障害】
石北本線留辺蘂 - 相ノ内(現・相内)間で枕木交換作業中の現場に定刻より遅れてきた札幌網走行き31D特急「オホーツク1号」が進入、脱線した結果27人が重軽傷を負った。原因は現場に「オホーツク1号」が遅れていることが伝わっていなかったことと、下請け業者が丁寧さを欠いた手抜き工事をしており本来1本ずつでしか交換してはいけない枕木を一度に6本抜いていたことによる。この事故により当該車両のキハ82 59・902、キハ80 9・76、キロ80 35、キシ80 4の6両が現場で解体され同年7月6日(キハ82 902, キハ80, キシ)、16日(キロ)、27日(キハ82 59)付で廃車となった。

国鉄外房線脱線事故[編集]

1982年(昭和57年)6月27日 5時18分ごろ【列車衝突事故〈土砂災害によるもの〉】
外房線太東 - 東浪見間で勝浦千葉行き上り普通224M列車(113系電車6両編成)が土砂崩れに遭遇し、前2両が脱線した。乗客3名が負傷したが、運転士に怪我はなかった。
脱線したクハ111-1308は198