成田空港問題の年表
成田空港問題の年表(なりたくうこうもんだいのねんぴょう)は、三里塚闘争をはじめとする、成田国際空港(旧・新東京国際空港)に係る諸問題に関連する出来事を時系列順に述べるものである。
なお、年表中の役職はいずれも当時のものである。
年表
[編集]1930年代まで
[編集]1871年
[編集]1875年
[編集]1885年
[編集]1923年
[編集]1931年
[編集]1938年
[編集]1939年
[編集]
1940年代
[編集]1941年
[編集]1942年
[編集]- 下総種畜場が下総御料牧場と改称[3]。
1944年
[編集]- 国際民間航空条約(シカゴ条約)が採択される。
1945年
[編集]- 第二次世界大戦終結(日本の降伏)。GHQが羽田空港建設計画を出したことにより、東京市飛行場計画は廃止[7]。東京飛行場を接収した米軍は直ちに拡張に着手し、周辺住民3000人が強制立ち退きの憂き目に遭う。
- 沖縄出身者らが宮内庁に御料牧場の払い下げを要求[8]。
- 東峰地区で開拓が始まる[8]。
- 11月:GHQから航空禁止令が出される[9]。
- 11月9日:「緊急開拓事業実施要領」が閣議決定される(戦後開拓)[10][11]。
1946年
[編集]- 天浪・木の根・古込・桜台(東三里塚)の各地区で開拓が始まる[8]。
- 1月:食料増産を目的とした政府の緊急開拓計画等の施策により、下総御料牧場内883町歩が帝室林野局に移管される[12]。
- 1月4日:GHQが、ポツダム宣言に基づく日本民主化政策の一環として、「好ましくない人物の公職よりの除去覚書」を発する(公職追放)[13]。
- 3月5日:ウィンストン・チャーチルが鉄のカーテン演説。
- 3月6日:入植を希望するも進展がないことに業を煮やした沖縄県出身者らが三里塚での開拓をはじめる。同月16 日に天浪地区での入植許可が下り、沖縄出身者らは土地争いなどを経ながらこの地に定着していく[11][14][15]。
- 5月19日:飯米獲得人民大会(プラカード事件)。
- 7月27日:帝室林野庁から千葉県知事に対して「御料地内可耕地使用承認の件」が通知される[16]。
- 11月22日:農地調整法改正法施行[17]。
- 12月29日:自作農創設特別措置法施行[17]。
1947年
[編集]- 御料牧場の第2時払い下げにより、天浪・木の根地区などの山林や原野が配分される[8]。
- 大旱魃により陸稲が全滅し、開拓者が大きな打撃を受ける[8]。
- 開拓者への資金貸出が始まる[8]。
- 1月31日:GHQの指示により、全官公庁共同闘争委員会議長の伊井弥四郎が二・一ゼネスト中止を発表(逆コース)。
- 10月24日:「開拓事業実施要領 」が閣議決定され、開拓の目的が「引揚者の雇用確保・帰農促進」から「土地の農業上の利用の増進と人口収容力増大」に移行[11]。
1948年
[編集]- 開拓農協の設立ラッシュ(宮下・古込・三里塚第一・天浪第一・下総・木の根第一・恵美)[8]。
- 御料牧場第3次払い下げ[8]。
- 御料牧場のうち131ヘクタールが農林省の管轄となる[8]。
- 6月:ベルリン封鎖。
- 6月1日:古込開拓農協設立[14]。
- 7月16日:三里塚第一開拓農協設立[14]。
- 8月11日:天浪第一開拓農協設立[14]。
- 9月9日:朝鮮民主主義人民共和国建国。
- 11月27日:木の根第一開拓農協設立[14]。
- 12月3日:伊藤音次郎ほか伊藤飛行機の元社員らが、恵美開拓農協を設立[14]。
1949年
[編集]- 開拓農協の設立が続く(駒の頭・檜山・天浪第三・朝日台・松翁)[8]。
- 1月23日:第24回衆議院議員総選挙で日本共産党が躍進。吉田茂首相(日本自由党)が、公職追放を受けた党人に代わり各省庁から引き抜いた官僚を擁立し、吉田学校(官僚派)を形成。池田勇人(元・大蔵次官)・佐藤栄作(元・運輸次官)が初当選。
- 3月25日:駒の頭開拓農協設立[14]。
- 4月4日:団体等規正令発令。
- 6月30日:平事件。
- 夏:国鉄三大ミステリー事件が発生。
- 7月:世界初のジェット旅客機デ・ハビランド DH.106 コメットが初飛行。コメットは1950年代前半に連続墜落事故を起こして多数の犠牲者を出すこととなるが、この事故調査で得られた知見が以降に開発されるジェット旅客機の安全性向上に寄与する。
- 7月4日:マッカーサーが日本共産党非合法化法案の検討を示唆[18]。
- 7月9日:桜台開拓農協設立[14]。
- 8月22日:天浪第三開拓農協設立[14]。
- 8月29日:ソビエト連邦が核実験に成功(RDS-1)。
- 9月1日:朝日台開拓農協設立[14]。
- 10月1日:毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言。
- 12月:中華民国政府が台湾へ移転。
- 12月9日:松翁開拓農協設立[14]。
1950年代
[編集]1950年
[編集]- 御料牧場第4次払い下げ(採草地の配分)[8]。
- 1月6日[19]:コミンフォルムが、『恒久平和のために人民民主主義のために!』において日本共産党の平和革命戦術を批判(コミンフォルム批判)[20]。
- 2月:アメリカ合衆国上院のジョセフ・マッカーシー議員が、国務省内の共産主義者のリストの存在を主張(マッカーシズム)。
- 5月3日:マッカーサーが日本共産党が法の保護に値するか疑問であるとの声明を出す[18]。
- 6月6日:GHQが、日本共産党幹部の公職追放を指令(レッドパージ)[18][21]。
- 6月25日:朝鮮戦争勃発。
- 9月30日:トルーマン米大統領がNSC-68に署名。アメリカの対ソ連包括的封じ込め戦略が決定づけられる。
- 10月:日本共産党の指導者、徳田球一が中華人民共和国に亡命し、北京機関に合流。
1951年
[編集]- 木の根地区に電灯が導入され、天浪と本三里塚の間に通学道路が設けられる[8]。
- 4月:マッカーサー更迭。
- 6月:新土地収用法制定。
- 9月8日:日本国との平和条約(サンフランシスコ条約、ソ連は調印拒否)・日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安保条約)調印。
- 10月:日本共産党が「51年綱領」を採択。各地で共産党分子が蜂起。
- 10月10日:木の根第四開拓農協設立[8][14]。
- 10月25日:日本航空株式会社(特殊会社の前身)が国内民間航空定期便の運航を開始。
1952年
[編集]- 2月28日:日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(日米行政協定)締結[22]。
- 4月9日:航空禁止令が解除。朝鮮戦争で消耗した米軍機の修理を日本国内で行うことを期待しての措置と言われる[23]。
- 4月28日:サンフランシスコ条約が発効。公職追放令廃止。
- 5月1日:血のメーデー事件。
- 6月:日米合同委員会で、航空交通管制について日本が自主的に実施可能となるまでの一時的な措置として、米軍が軍の施設で行う管制業務を利用して民間航空の安全を確保することについて合意[24][25][26]。
- 7月:航空法・航空機製造事業法制定。日米合同委員会で、日米行政協定に基づき横田飛行場を含む施設区域を米軍に提供することについて合意[24][25][26]。
- 7月1日:羽田空港が返還され、「東京国際空港」と改称。
- 7月21日:破壊活動防止法施行。
- 10月1日:第25回衆議院議員総選挙。鳩山一郎・三木武吉ら追放解除された戦前派党人らが政界に復帰。吉田首相が「鳩山復帰後は総裁を譲る」という約束を事実上反故にしたことで、自由党内での官僚派と戦前・党人派を中心とした対立が深刻化する。
1953年
[編集]1954年
[編集]- 下総御料牧場解放促進同盟が、さらなる御料牧場の払い下げを要求[8]。
- 2月2日:日本航空が戦後の本邦社として初めての国際定期航空便を開設(ダグラス DC-6による、東京-ウェーク島(テクニカルランディング)-ホノルル-サンフランシスコ間の運航)[27]。
- 3月31日:成田町・公津村・中郷村・久住村・豊住村・遠山村の1町6村が合併し、成田市が誕生。
- 5月7日:ディエンビエンフーの戦いでフランス連合軍が敗北。
- 5月8日:昭和天皇・皇后が下総御料牧場を視察。この際、元宮内庁職員らの戦後開拓地を訪問[12][14]。
- 7月21日:ジュネーヴ協定締結(第一次インドシナ戦争におけるフランスの事実上の敗北。ベトナムは17度線で分断され、アメリカが介入を継続)。
- 11月24日:鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結党。
- 12月7日:第5次吉田内閣が総辞職。
- 12月10日:鳩山一郎内閣が発足。
1955年
[編集]- 7月1日:武射郡二川村と同千代田村が合併し、芝山町が発足[8]。
- 7月:第6回全国協議会で日本共産党が極左軍事冒険主義を転換[28]。山村工作隊等に参加し武装闘争を行っていた学生らは梯子を外された格好となり[29]、後に共産党指導部に不満を持つ者たちによる新左翼党派結成につながってゆく[30]。
- 10月13日:社会党再統一。
- 11月15日:保守合同により、自由民主党(自民党)が発足(55年体制)。保守政党はほぼ一本化されたものの、旧自由党系議員と旧日本民主党系議員は中選挙区内で保守票を奪い合うこととなり、対立は継続した。
- 11月22日:ソ連が水爆実験に成功(RDS-37)。
1956年
[編集]1957年
[編集]- 1月:日本トロッキスト聯盟が結成(同年、革命的共産主義者同盟に改称)。
- 2月25日:岸内閣が発足。
- 10月:スプートニク・ショック。米ソの軍事的パワーバランスが逆転したものと目され、翌月の毛沢東による「東風が西風を圧した」との宣言やソ連の対日工作も相まって、党内左派に押された日本社会党は反米路線を鮮明にしていく[31]。
1958年
[編集]- 10月:本格的な民間ジェット時代の嚆矢となる、ボーイング707が初就航。
- 10月16日:日本社会党や日本労働組合総評議会などが警職法改悪反対国民会議を結成[32]。
- 12月:共産主義者同盟(第一次ブント)結成。
1959年
[編集]1960年代
[編集]1960年
[編集]- 1月19日:「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(新日米安保条約)調印。同日、日米行政協定を継承し、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」(日米地位協定)調印[33]。
- 5月19日-20日:妨害活動を行う野党議員らを清瀬一郎衆議院議長が警官隊を使って排除。自民党単独で会期延長可決のうえ、衆議院で新日米安保条約を承認。安保闘争が活発化する[34]。参議院での審議は行われず、衆議院の優越により6月19日に自然承認となる[35]。
- 6月10日:ハガチー事件。
- 6月15日:安保条約反対のデモ隊が国会議事堂への突入を図り、全日本学生自治会総連合(全学連)の樺美智子が死亡[34]。
- 6月23日:新日米安保条約発効。岸首相が辞意表明[35]。
- 7月19日:池田勇人内閣が発足。
- 7月22日:日本航空初のジェット旅客機(ダグラス DC-8-32)が羽田空港に降り立つ[36]。
- 12月27日:国民所得倍増計画が閣議決定される[37]。
1961年
[編集]- 宮台(東三里塚)地区にゴルフ場(三里塚カントリークラブ)が建設される[8]。
- 6月:公共用地の取得に関する特別措置法制定。
- 7月15日:後に「成田空港の生みの親」と呼ばれることとなる丸居幹一が、航空局技術部飛行場課長に就任[38]。
- 9月頃:大蔵省が「飛行場整備は段々カネが要るだろうから、初めて長期計画を作ったらどうか」と運輸省に指示。検証の結果、1971年4月には羽田空港の処理能力の限界である年間発着回数17万5000回に到達することが判明し、衝撃を受けた丸居飛行場課長らは新空港の検討を開始[38][39][40][41]。
- 9月25日:日本航空が、国内線初のジェット旅客機(コンベア880)を就航[42]。
1962年
[編集]- 3月31日:昭和37年度予算に新空港調査費118万円が計上される[40][41](名目は「空港長期整備計画調査費」[43])。運輸省は、この予算を使って海外調査を実施[44]。
- 8月30日:戦後初の国産旅客機YS-11が初飛行。
- 10月-11月:キューバ危機。
- 11月16日:羽田空港の行き詰まり打開策として、池田内閣が第2国際空港建設方針を閣議決定(池田勇人首相は外遊中のため、川島正次郎が臨時首相代理を務める)[40][41][44]。
- 11月29日:イギリス・フランス両政府が超音速輸送機(SST)の共同開発協定を締結(コンコルド計画)[45][46]。
1963年
[編集]- 1月-3月:具体的な候補地(浦安・印旛沼・九十九里・霞ヶ浦・谷田部・白井)の調査がヘリコプターなどを使って始まる[40][41][47]。
- 3月:自民党政務調査会交通部会が航空局幹部を呼んで新空港問題のレクチャーを受け、新空港対策小委員会の設置方針を認める。この会議で初めて霞ヶ浦埋め立て案が出される[47]。
- 3月30日:昭和38年度予算に新空港調査費1000万円が計上される[41]。
- 4月17日:友納武人が千葉県知事に就任。
- 5月1日:丸居飛行場課長が独断で「東京第2国際空港計画室」を設置。既成事実を作ることを目的としており、飛行場課員のほか、日本空港ビルデングから2人、日本航空から1人、航空局内他課からの応援を受けて、12~13人で発足[38][41]。
- 6月:池田首相が河野一郎建設相に「新空港建設早期着工」を指示[48]。
- 6月1日:「東京第2国際空港計画室」が「新東京国際空港計画室」に改称[41]。

- 6月10日:運輸省航空局が「新東京国際空港」(いわゆる「青本」)を発行。立地箇所は特定せず[39]。
- 6月15日:ケネディ米大統領が、SST開発計画推進を発表[41]。
- 6月中旬:綾部健太郎運輸相が「浦安沖案」、河野建設相が「木更津沖案」を発表[41]。
- 7月3日:友納千葉県知事が、副知事・全部長・審議室主幹を集め、空港問題について初庁議を開く[49]。
- 7月4日:綾部運輸相、河野建設相、川島正次郎自民党副総裁、友納千葉県知事が初の四者会談。浚渫業を営む小川栄一がイギリスの港湾埋立業者に設計させた青写真を示して木更津案を推す河野に対し、綾部が運輸省の浦安案を主張。河野は「綾部君、君は事務当局がいないと何もできないのか[注釈 1]」となじり、険悪な雰囲気となる[47][51]。結局、具体的な建設地について一致することはなかったが、
- の3点が川島のとりなしによって一旦合意に至る。友納知事は帰庁後に「新東京国際空港対策協議会」を立ち上げ、運輸省・建設省との話し合いの進展に応じられる体制作りに取り組む[49][52]。一方、1962年の第二国際空港建設方針閣議決定前から「富里空港」について千葉県庁で突っ込んだ話し合いを重ねていた[53]丸居飛行場課長をはじめ、運輸官僚はこの決定に反発し、栃内一彦航空局長が綾部運輸相に再考を求め、候補地の再検討の了承を得る[50]。同日、池田首相と佐藤栄作が、新産業都市や第二国際空港建設問題について話し合い[54]。
- 7月18日-7月24日:運輸省が霞ケ浦周辺・白井・富里地区を調査[41]。
- 7月29日:綾部運輸相が霞ケ浦周辺・富里地区を新空港候補地とすることを了承[41]。
- 7月30日:運輸省内で新空港関係各省の実務者での打合せ(連絡会議)が行なわれる。運輸省から栃内一彦航空局長、建設省から町田充計画局長、農林水産省からは関係課長ら十数人が出席、千葉県側からも渡辺一太郎副知事と高橋良平審議室主幹が出席する。航空管制上の問題から浦安沖を推す運輸省と埋立工事を考慮して木更津を適地とする建設省が対立する。この中で内陸部を含めて検討を行うこととなり、千葉県富里村と茨城県江戸崎町が候補に挙げられる[41][49]。
- 8月2日:運輸省が千葉県に浦安・木更津領候補地に管制上難点がある旨説明[41]。
- 8月8日:運輸省に航空局長及び港湾局関係者、建設省・農林省関係者、岩上二郎茨城県知事、千葉県の高橋主幹らが集まり、運輸省側から「建設・運輸両相の了承を得たので千葉、茨城両県の内陸部について調査をしたい」と切り出される。岩上知事は「この問題で千葉県と争う気持ちは全くない。茨城県側に決まれば協力は惜しまない」と応じる。一方、高橋主幹は千葉県の立場として「大臣発言で千葉県内ではいろいろの騒ぎや波紋が生じた。しかし、これ以上騒ぎを大きくするのは本意ではない。四者会談を尊重したいので、第2回四者会談を開き、その方針が決定するまでは内陸案に応じられない」と発言[49]。
- 8月12日:友納千葉県知事が、県議会全員協議会で「運輸省は北総台地を候補地として検討したい意向である」と報告。高橋主幹も石井美雄富里村長・山本昇八街町長に同様の連絡[49]。
- 8月20日:綾部運輸相が「新東京国際空港の候補地及びその規模」について航空審議会(会長:平山孝)に諮問[41][49][55]。富里案が公式に登場する。航空審議会では、パイロット・管制技術者・土木技術者等各分野の専門家からなる小委員会を設け、各候補地について、空域・航空管制・気象条件・地形・施工条件・都心とのアクセス手段など多岐の観点から比較検討した[40]。
- 8月27日:第2回四者会談(綾部運輸相、河野建設相、川島自民党副総裁、友納千葉県知事)が行われる。冒頭で綾部運輸相が「前回は候補地を東京湾上に捜すということで合意したが、その後検討の結果、千葉県の北総台地と霞ヶ浦を候補地に加えたい」と発言し、会談はいきなり荒れ模様となる。別室に控えている岡本悟運輸事務次官や航空局長を呼んでから説明しようとした綾部に対し河野が「綾部君、君は吏僚がいなければ議論ができないのか、突然北総台地等を持ち出したのは吏僚にいわれたからか、君はそれでも大臣か」と怒鳴り、綾部も「埋め立て屋のいう通りにいかないよ」と河野の背後にいる浚渫業者の存在をあてつけて言い返す。川島のとりなしにより事務次官と航空局長により「羽田は拡張に限界がある」「浦安沖は地盤が悪く、後背地が密集市街地であり空域が羽田と競合するうえ、漁民からの強い反対がある」「木更津は羽田に近いので空港の機能が落ちて問題にならない」と説明が行われる。これに対し木更津案を譲らない河野建設相は「羽田など廃港にしてしまえばいい」と激高し、川島も「1500戸の農家をどうやって移転させるのだ。羽田と管制塔を一緒にして浦安沖に作ったほうが有利だ」と主張。事務次官と航空局長は「国内線の需要が激増しているので、便利な羽田を廃港はできない」と譲らず、空港建設の主体となる空港公団を発足させるための45億円予算について運輸省が大蔵省と折衝中である旨も明かされる。次回までに池田首相の判断を仰ぐことになり散会したが、四者会談がその後開かれることはなかった[49][51][52][56]。
- 9月12日:友納千葉県知事が「運輸省は富里村案を検討中」と県議会全員協議会で報告[49]。
- 9月18日:この日から富里村・八街町の推進派と反対派の双方が陳情を開始[39][49]。以降、12月にかけて市川市・八街町・富里村・山武町の反対派らによる陳情が激化[41]。
- 10月1日:羽田空港での深夜・早朝のジェット機発着禁止[41]。
- 10月7日:富里村空港反対部落連合会(代表:久保忠三)が約500人で反対陳情を行う[49]。
- 10月8日:富里村空港反対部落連合会が県庁デモを行う。同日、浦安町議会が臨時議会で飛行場建設絶対反対の意見書を採択、山崎清太郎議長名で県知事・運輸相宛に提出[49]。
- 秋:富里・八街空港反対同盟が結成される[57]。
- 10月10日:友納千葉県知事が、「早くもない、遅くもない時期に候補地を決定したい」と説明会で述べる[58]。
- 10月15日:富里村新空港問題調査特別委員会に対し、千葉県総合企画室の高橋主幹や航空局飛行場課の丸居幹一課長・林課長補佐が候補地選定の経過について説明。この中で、高橋主幹が「県は最後まで富里案に反対であったが、8月13日に運輸省から再び候補地の対象にしてもらいたいとの要請があった」旨を伝える[58]。
- 11月15日:富里の反対派農民らが富里から千葉県庁までの往復60キロメートルを耕運機でデモを行い、沿道の住民や県民にアピール。デモにあたっては日本社会党の小川国彦県議らが「200台もの耕運機にノロノロと国道を走られたら、交通の大渋滞を来す。とても許可はできない」と難色を示す成田警察署長と折衝を行い、83台によるデモの許可を取り付けていた[57]。
- 12月11日:航空審議会が新東京国際空港の候補地について、第一候補・富里村付近、第二候補・霞ヶ浦と答申。規模は滑走路が5本(4000メートル×2本、他3本)、面積約2300ヘクタールとされた[41]。これに対し河野が不賛成を表明するなど自民党実力者の支持を得られず、池田勇人首相も「答申の東京周辺にこだわらず調査するよう」指示するなど、閣内で見解が分かれる[49][56]。
- 12月19日:友納千葉県知事が綾部運輸相と栃内航空局長を訪ね、「答申まで出た今、それを否定する意見や再調査しなおすという発言は、閣内不統一のそしりを受けよう。それでは地元も困る」と詰問。綾部は答申を尊重するとしつつも「広い視野で候補地を探す立場も守る」等とあいまいな態度に終始する[49]。
1964年
[編集]- 2月11日:羽田空港C滑走路供用開始[41]。
- 3月4日:松永安左エ門の私設シンクタンクである産業計画会議が、新空港の建設整備と運営には民間方式を組み入れることや、羽田空港との管制問題など既存施設にとらわれることなく東京湾内中北部海域(千葉県木更津・幕張沖等)・首都圏東部(八街・富里地区)・首都圏西南部(厚木・相模原地区)等なるべく数多くの候補地について技術的調査と経済的な検討を行うことを勧告[59][60]。
- 3月7日:富里村関係者らが友納千葉県知事を訪問。友納知事は「県の態度としては、新国際空港は積極的な誘致はしない。どうしても千葉県につくってほしいというなら海のほうがよい。また、どうしても富里にしてくれというなら、県自身として政府の誠意(「補償」・「換地」・「騒音対策」・「周辺の都市計画」の4点)を打診する」「県自身として、検討して現在成案をつくりつつある」と述べる。また、県の公式見解として、厚木・相模原の在日米軍施設を返還してもらい、羽田空港をそこに移転させて木更津に新空港を建設するか羽田を残して厚木・相模原に新空港を建設する案があることや、航空局が富里地区を益々最適地として強めつつあり、4月下旬か5月上旬に再び話が出てくるであろうことが伝えられる[58]。
- 3月22日:日本社会党千葉県委員会が「新空港設置反対」を決議[39]。
- 3月24日:参議院予算委員会で、社会党議員の加瀬完の質疑に対し、綾部運輸相が「私どもといたしましては、航空審議会の意見に従いましてその検討を進めておるのが現状でございます」、河野建設相が「私は、これほどの大きな事業を決定することでございますから、運輸省で一存でおきめになることは困る」「あまり遠方におつくりいただきましても、そこまで道路の計画がございません。道路五ヵ年計画は一応つくっておりますが、その計画に全然入っていないところにむやみときめられても、私自身困ります」とそれぞれ異なる答弁を行う[61]。
- 3月31日:昭和39年度予算に新空港調査費1億円が計上される[41]。
- 4月1日:海外渡航自由化[41]。
- 5月12日:衆議院建設委員会で、河野建設相が、空港の問題については池田首相の命により建設大臣が推進することになっているとしたうえで「東京湾の中にどこか適当な、埋め立て可能であって、地盤のいいところはないかという意味で、いまの海底の調査をいたしておるわけであります。」と答弁[49][62]。
- 5月19日:参議院内閣委員会で、綾部運輸相が「東京湾の内部は地質が非常にヘドロと申しますか、軟弱でございまして、何百万坪を埋め立てましても、地盤が陥没したり、いろいろな事故が起こりましてむずかしい」との運輸省見解を述べる[63]。
- 5月25日:友納千葉県知事が、「住民の意思を無視してまで空港が建設されるものではない。県は主管の運輸省なり池田総理といった正規の窓口を通じ、県民感情を背景に話し合いを進める」と、政府内の空港建設を巡る動きについて記者会見でコメント[49]。
- 5月26日:閣議で河野建設相と綾部運輸相が激しく言い争う。池田首相は「所管は運輸省だが、この問題は東京湾全体を含めて調査してみよう」と結論を下さず[49][64][65]。佐藤栄作日記:「空港問題で綾部、河野の論戦在り。けだし出すぎた河野発言にたまりかねた綾部君の発言で、一寸すごいものがあった。池田首相の態度にも解せぬ物がある。航空審議会をふるに利用すべきではないか[66]」
- 5月27日:衆議院建設委員会で河野建設相が前年12月の航空審議会の答申について意見を述べるつもりがないとしつつ、答申の内容とかかわりなく東京湾中で基礎調査を行っており、河野個人は特に浦安沖を適地として考えている旨を答弁[67]。
- 5月28日:佐藤栄作日記:「鈴木貞一君八時前から来宅。次期政権は占領政治から完全に脱却する事を説く。例の東京湾埋立の案をきく。けだし過日の河野くんの発言があったので、これを確かめた。それによれば、別に木更津が狙いで、その為にも、もます戦術らしい[66]」
- 6月:丸居飛行場課長が航空局から異動[68]。
- 6月1日:航空局に新東京国際空港担当参事官・新東京国際空港計画課・新東京国際空港調査課が設置される[41]。担当参事官に手塚良成が就任[69]。
- 6月23日:日本最大級のダム反対運動(蜂の巣城紛争)が展開されていた下筌ダム建設で第一次代執行が行われる[41]。
- 7月10日:1964年自由民主党総裁選挙。現職の池田が佐藤の挑戦を受け、「ニッカ、サントリー、オールドパー」などの隠語が飛び交う激しい争いとなる。この選挙で河野は池田に貸しを作り、存在感を高めた[70]。
- 7月18日:内閣改造により、松浦周太郎が運輸大臣就任。
- 8月:トンキン湾事件が発生し、以降アメリカ合衆国のベトナム戦争介入が本格化する。
- 8月13日:友納千葉県知事が松浦運輸相を訪ね、「政府の不統一見解は地元に深刻な動揺を与えているので、一刻も早く候補地を決定するよう」と異例の申し入れを行い、松浦運輸相は「富里は現在も第一候補である。とくに霞ヶ浦へ移そうとしているものではない」と言明[56][65]。
- 8月17日:友納千葉県知事が「木更津沖なら積極的に誘致、内陸なら消極的にならざるを得ない」と立場表明。
- 9月9日:池田首相が国立がんセンターに入院。池田は7月の自由民主党総裁選挙の前後から喉の痛みを訴えており、本人には伏せられていたが既に喉頭癌が進行していた[71]。
- 9月15日:新空港建設について、大蔵大臣・農林大臣・運輸大臣・建設大臣・自治大臣、防衛庁長官・内閣官房長官からなる「関係閣僚懇談会」(関係閣僚懇)発足[40]。
- 10月1日:東海道新幹線開業。
- 10月10日-10月24日:1964年東京オリンピック。
- 10月15日:与党幹部も参加する新国際空港問題懇談会の初会合を政府が開くが、田中角栄大蔵相・赤城宗徳農林相・河野国務相が「富里に空港を作るとして、千五百戸の農家をどこにどう立ち退かせるのか」と反発し、紛糾[49][65]。
- 10月19日:第1回関係省庁次官会議が開かれ、運輸省から栃内航空局長・手塚参事官が出席。政治家や他象徴が用地の問題を重視する中、手塚参事官は手製の資料で空域の重要性を説く[69]。
- 10月25日:池田首相が退陣を表明(池田は翌年8月13日に死去)[71]。
- 11月10日:佐藤内閣が発足。
- 11月11日:佐藤栄作首相が松浦運輸相に候補地決定を急ぐよう指示[49]。
- 11月13日:佐藤首相から新国際空港問題懇談会座長に任じられた河野国務相が、「富里・木更津・霞ヶ浦・羽田沖の四候補地を白紙に戻し、再検討を考慮中。500戸以上の移転は不可能」と発言、地元を当惑させる。これに対し友納千葉県知事が「河野大臣が内陸部不適当ということ自体は納得できる。だが政府の意見のとりまとめ方に地元の迷惑を考慮しない点があり残念だ」と地元不在で迷走する政府に苦言を呈し、県内の反対派・誘致派の活動が活発化する[49]。
- 12月4日:佐藤栄作日記:「閣議。発言して、予算編成に際しては圧力団体を利用したり又はこれに利用される事なくして、党独自の主張で編成に協力されたしと発言する。ラッシュに時差通勤を支持し、後河野君と第二空港、沼田ダム等につき打合せする[72]」
- 12月18日:閣議で「新空港建設に関する基本的態度」を確認。「新空港は1970年完成を目標とする」「候補地についてはさらに検討」など[55]。
- 12月23日:富里村の空港反対派が「血判状」を佐藤首相に提出する[39]。
- 12月24日:伊能繁次郎・水田三喜男らの県選出の自民党議員が、友納千葉県知事も交えて緊急会議を開く。新空港を県内に受け入れることでは一致したものの、建設地については意思を統一できず[49]。
- 12月28日:昭和40年度予算の大臣折衝で、新東京国際空港公団の設立と政府出資を5億円とすることが合意される[41]。長岡實主計官の計らいがあったという[73]。
1965年
[編集]- 「シルクコンビナート構想」により、遠山(旧・遠山村)地区で養蚕組合が設立される[8]。
- 1月20日:手塚参事官が岩上茨城県知事を訪ね、霞ヶ浦埋め立てを打診。岩上知事は「千葉でもっと探すべきだ。茨城に話を持ってくることは迷惑」という反応[69]。
- 1月27日:手塚参事官が友納千葉県知事に富里案を打診[69]。
- 2月3日:友納千葉県知事が川島副総裁や伊能繁次郎とともに佐藤首相と会談し、新空港建設にあたり地元の意向を無視しないよう要請。佐藤首相から「政府としては、新空港の設置に結論を出す段階に来ていない。設置決定の際は地元知事の意見を十分尊重し、事前に相談する」との言質を得る[49][74]。同日、栃内航空局長・手塚参事官が自民党政務調査会交通部会に新東京国際空港公団法案要綱を説明[69]。佐藤栄作日記:「友納知事、川島君、伊能君等と『富里』飛行場問題を打合せする[75]」
- 2月11日:佐藤栄作日記:「空港問題懇談会に顔を出し、午前中院内にたむろする[76]」
- 2月:松浦運輸相が、記者会見で「新空港は地元の知事や県議会が反対するところには造らない。用地買収金額は知事にも、ある程度責任を負わせるつもり」と発言[49]。友納千葉県知事が佐藤首相と会見し、新空港建設にあたっては地元の意向を無視することがないおう申し入れ。佐藤首相は、決定の際には知事の意見を尊重し、事前に相談すると約束[77]。
- 2月15日:佐藤栄作日記:「金丸冨夫、田辺国男、細田吉蔵等空港問題で、又鹿内信隆君は沖縄問題で連絡に来る。これは一寸大事な問題のようだ[78]」
- 2月16日:松浦運輸相の記者会見発言に対し、友納千葉県知事が「空港の問題に関する閣僚発言はいったいだれが政府を代表しているのか、さっぱりわからない。首相の発言以外は問題にしない」とコメント[49][65]。佐藤栄作日記:「江戸君を官邸に迎へる。富里空港に反対[78]」
- 2月27日:新東京国際空港公団法案が国会に提出される[41]。
- 3月29日[41]:関係閣僚懇が候補地について、(1)富里のほか、(2)埋立ての検討も必要な東京湾や霞ヶ浦などについても関係事務次官会議で検討し、早急に調査を実施する、(3)米軍使用の飛行場について外交ルートで打診する、の3点を決定[40][41]。
- 4月1日:関係各省事務次官会議で、空域[注釈 2]・渉外[注釈 3]・土木技術[注釈 4]の3小委員会が設置される[41]。
- 4月5日:霞ヶ浦沿岸の漁民らが「空港設置反対集会」を開催[39]。
- 4月16日:富里村総合開発懇談会が開催される[58]。
- 4月20日:富里村総合開発懇談会が、16日の協議に基づき、「村は意見書や請願書によって地元の苦哀を訴え、早期結論に達するよう要望してきたが、足掛け3年の歳月を空費しており、民心が極度に同様悪化し、村行政もその運営に大いなる支障をきたしている」「当局はいたずらに結論を遷延することなく、民心の安定と行政正常化のために格段の配慮を求める」とする要望書を、松浦運輸大臣・友納千葉県知事・栃内航空局長宛に提出[58]。
- 4月30日:衆議院運輸委員会が、新東京国際空港公団法案に「将来に亘る航空輸送需要の急激な増加と航空機の急速な進歩の趨勢とにかんがみ、新国際空港の建設は必須かつ緊急の問題である。政府においては、このような事態に対処するため、航空審議会の答申に基づき速やかに候補地の決定を行なうとともに、建設及び管理に当る公団の設立を促進するよう万全の措置を講ずベきである」とする附帯決議を付して原案通り可決[79]、引き続き本会議でも可決[41]。
- 6月1日:参議院運輸委員会が、新東京国際空港公団法案に「政府は新東京国際空港の建設に当っては、いやしくも当該地域住民の生活権をそこなうことのないよう万遺憾なきを期するとともに、当該地域における農業の振興ならびに産業経済の伸展を阻害しないよう配慮すべきである」とする附帯決議を付して原案通り可決[80]、引き続き本会議でも可決。法案が成立する[41][81]。
- 6月2日:新東京国際空港公団法が公布される(昭和40年法律第115号[41]、施行は1966年7月7日)。
- 6月3日:中村寅太が運輸相就任。
- 6月12日:秩父宮妃・高松宮宣仁親王・三笠宮崇仁親王が成田市の養蚕団地(シルクコンビナート)を訪問、記念の桑苗を植える。関係者が将来の姿を説明すると「しっかりやって下さい」と気さくに声をかける[82]。
- 6月16日:中村運輸相が空から視察を行い「候補地は富里、霞ヶ浦のいずれかにする」「霞ヶ浦調査期間を早める」と言明[49][74]。
- 6月22日:日韓基本条約が調印され、北朝鮮との距離が近かった社会党を中心に反対運動が展開される。
- 6月23日:下筌ダム建設にかかる第二次代執行が実施される[41]。
- 7月:運輸省が霞ヶ浦でのボーリング調査を開始[41]。
- 7月8日:埋め立て方式の推進者であった河野一郎が急死する[49]。中核派・社学同・解放派の3派が都学連を結成[83]。
- 8月25日:富里村新空港問題調査特別委員会の委員長・副委員長が深草克巳運輸省大臣官房・佐藤光夫航空局長を訪問[58]。
- 8月30日:反戦青年委員会が結成される[83]。
- 9月11日:霞ヶ浦沿岸の漁民1,000人が漁船300隻で湖上反対デモを行う[41]。
- 9月24日:富里村新空港問題調査特別委員会の委員らが手塚良成参事官と会談。手塚参事官は候補地が富里と霞ヶ浦の2箇所であることを認め、霞ヶ浦のボーリング調査を行い富里と比較検討を行っていることや(関東ロームに覆われた洪積台地にある富里は、大規模な地質調査を必要としないとされた)、これ以上の羽田の増設は制限表面により東京湾内の船舶航行に支障をきたすことなどを説明。霞ヶ浦側からも、船大工の組合から位置決定がされないため舟の建造修理が受注できないことや、水産加工業者が設備投資の判断ができないなどの陳情があることが明かされる[58]。
- 9月28日:富里村新空港問題調査特別委員会中間報告。「空港位置の最終決定は閣議によって行なわれる」「目下調査が完了していないのでいずれが有力ともいえない」「富里は候補地から除かれたわけではない」[58]。
- 10月5日:運輸省が中村運輸相に霞ヶ浦を不適当とするボーリング調査結果を報告[41]。
- 10月18日:友納千葉県知事が胃潰瘍治療のため入院[49]。
- 11月15日:富里村空港反対派がトラクター50台で千葉県庁までデモを展開。知事室に乱入する騒ぎとなる[55]。

- 11月18日:関係閣僚懇が富里を新空港建設地に突如内定、翌日に閣議決定することを橋本登美三郎官房長官が記者会見で発表。療養中の友納千葉県知事に代わって職務を行っていた川上副知事の問い合わせに、川島副総裁は閣僚懇が勝手に決めたことで自分は関与していないと回答。千葉県側は中村運輸相からの呼び出しに応じず、「農地の収用は最小限に、騒音対策は万全に。敷地決定は、保証金など具体的条件をつめてから」という公約を掲げて再選していた友納知事は、過去の佐藤首相や歴代運輸相と交わした内陸に空港建設地を決めるときは十分地元に相談するとの約束を盾に県独自の判断で対処することを表明。川上副知事は地元町村長・社会党議員・反対同盟幹部・記者クラブと順次会見を行って友納の意向に沿って決意表明するとともに、至急電報で閣議決定延期を政府側に要請。田中角栄幹事長も「政府は、私や赤城政調会長も参加させないで、内定してしまったな。霞ヶ浦だと、利根川上空を飛べば、市街地に対する防音対策上もいいと思ったのに……」と不満を表明[49][84][85]。
- 11月19日:「富里案内定」の政府発表に対し、千葉県側が「事前連絡不充分」と不満を表明[41][55]。空港建設反対派が千葉県庁に陳情[65]。
- 11月21日:富里村国際空港設置反対同盟が、「これまで何度も関係省庁等に候補地から外してほしいと陳情し、決定の際は必ず住民の納得を得ると度々言明されていた」「霞ヶ浦設置と見せかけ突如として県や町村に何ら通告なく内定を発表し直ちに決定に持ち込まんとする国策に名を借り我々の生存権を無視し農民を見くびった処置である」「今や富里村は危急存亡の岐路にあって、緊急事態に直面しているので、この際村民一致団結絶対反対し断固阻止すべし」とする旨の声明文[58]。
- 11月22日:富里村長が有線放送で「村民は軽率な行動を慎むよう」声明を発表[65]。
- 11月23日:富里村反対派が、村民の三分の二に相当する空港反対署名を集める[65]。
- 11月24日:伊丹空港での深夜・早朝のジェット機発着禁止[41]。
- 11月25日:富里村議会と八街町議会が、それぞれ「空港設置反対」を決議[49][55][84]。友納千葉県知事が、「空港は地元の大多数が反対ならば、建設は不可能」としながらも「誠意があれば検討」とする[86]。
- 11月26日:川上千葉県副知事が「内定の理由と、空港の位置を明らかにした上、代替地、騒音地域とその対策等をはっきりさせない限り協力できない」と県議会で答弁[86]。
- 11月27日:富里・八街・山武の「空港建設同盟連合会」が、運輸省に「建設促進」を陳情[41]。同日、社会党系の「反対県民会議」が発足[49]。
- 11月29日:佐藤栄作日記:「運輸大臣は日米航空(交渉)も順調な経過を辿る由報告在り。尚『富里』第二空港は地元の反対あるもまとまる方向と報告をうける[87]」
- 11月30日:反対派農民1500人が県庁へ抗議[49]。
- 12月1日:友納千葉県知事が職務復帰し、「国が誠意ある対策を示さなければ、地元側に立ち、場合によっては富里新空港を拒否する」と述べる[49][65]。
- 12月3日:若狭得治運輸事務次官・佐藤光夫航空局長・手塚参事官が友納千葉県知事に富里内定を正式に連絡し、協力を要請[41][73]。運輸大臣による説明会実施(7・8日開催)が決められ、友納千葉県知事名義で周知される[86]。
- 12月6日:中村運輸相が友納千葉県知事を訪ね、協力を要請[73]。
- 12月7日:県庁で中村運輸相・佐藤航空局長・手塚参事官による「富里空港」の説明会が行われる。冒頭の友納千葉県知事の挨拶の途中に関係町村(2町1村[77])の町村長や反対同盟員は中村大臣に反対決議書を渡し、説明を受ける前に怒号を浴びせながら退出。説明会は県庁職員らへのレクチャーの体となる。加瀬完らが説明会不参加を呼びかけており、友納知事を激怒させる[49][86]。
- 12月11日:富里・八街住民が、自動車130台を連ねて県と県議会に抗議[49]。
- 12月12日:定例県議会で友納千葉県知事が「地元民の説得は至難の状況下にある。運輸省は富里が唯一の候補地かどうか再検討してほしい。また、富里地区の住民対策を早急に示し、最低3か月の検討期間をおき、国と協力し住民説得の見通しをつけたい」と発言。浜田幸一県会議員の質問に答える形で「県が地元を説得できると判断される補償、代替地、騒音、転職の4つの原則」(4原則)[注釈 5]について明らかにする[49][77]。
- 12月13日:千葉県が運輸省に「土地補償等」「代替地」「騒音対策」「職業転換対策」の4原則を提示[41]。友納千葉県知事は記者会見で「このままなら県は空港建設を断るつもり」と発言。このとき県庁は「内定を白紙に戻せ」「知事やめろ」等のシュプレヒコールをあげる反対派農民ら千数百人に取り囲まれていた。同日、八街町議会が絶対反対決議[49]。午後1時から県庁ホールで友納知事と反対同盟の会見が行われる。議論は平行線をたどり激高し「知事を帰すな」と叫ぶ反対派住民らに友納知事が取り囲まれるが、「知事は病人だ」という行動隊長のとりなしにより解放される[86]。
- 12月16日:佐藤栄作日記:「友納千葉県知事、空港問題でやって来た。仲々反対論が強い様なので、ゼスチュアもあり閣議決定を本年中はしない事とする[89]」
- 12月17日:佐藤首相と友納千葉県知事が会談。友納知事が「できれば富里以外にしてほしい」と述べたのに対し、佐藤首相は「ずいぶん探したが、富里以外にはない」と回答[65][84]。
- 12月18日:日韓基本条約批准書交換(日韓国交正常化)。「朝鮮において韓国が唯一の合法的な政府」と確認[90]。
- 12月20日:富里村の反対血判請願書(741世帯、2500人)が佐藤首相らに送付される[86]。
- 12月21日:酒々井町議会が「空港建設反対」を決議[49][84]。
- 12月24日:芝山町議会が「空港建設反対」を決議[49][84]。
1966年
[編集]- 1月9日:富里で反対総決起大会に3000人が集結[49]。
- 1月22日:社会党大会で空港設置反対決議[84]、同日成東町議会が反対決議[49]。
- 1月28日:佐藤栄作日記:「党との連絡会議で川島君と富里問題を相談し、大体の見通しはいゝ。然し尚、紆余曲折はある事と思ふ[91]」
- 2月4日:全日空羽田沖墜落事故。当時としては世界最悪の単独機事故であり、更に翌月にカナダ太平洋航空402便着陸失敗事故が立て続けに起こったことから、貧弱な羽田の着陸援助能力が問題視され、空港問題について世論が沸騰する[92][93]。佐藤栄作日記:「十一時すぎまで全然様子つかめず気をもむ。乗客一二六、乗員七、計一三三、絶望と見ゆ。極力捜査した結果、零時すぎ遭難機の破片見つかり遺体亦収容。全員遭難死と思れる[94]」
- 2月5日:空港整備5箇年計画が閣議了解される。5年間の空港施設等の投資規模は、新国際空港が2850億円、一般空港1850億円、航空路施設250億円、地方単独事業等150億円、予備費500億円の計5600億円とされ、財源として利用者負担の強化を図りながら、強力に推進するものとされる[95]。衆議院予算委員会で前日の全日空事故への質問が相次ぎ、中村運輸相が「羽田の飛行場が狭いために事故が起こるというようなことが心配せられるのではないかという御配慮でございますが、現時点に立ちましては、事故につながるほど羽田が狭いということではございませんが、近い将来にはやはり羽田の飛行場が狭隘に過ぎて、やがて事故等にもつながるおそれなしといたしませんので、新しい空港をすみやかに設置して、その危険をなくするという方向で進めておる次第でございます」と答弁[96]。
- 2月6日:佐藤栄作日記:「快晴なるも全日空事故の遺体、思ふ様にはあがらない。捜索に困難を来して居る様子。このことや明日の質問に備へて在宅勉強[96]」
全日空羽田沖墜落事故と富里空港反対派の千葉県庁乱入事件を報じる、1966年2月7日付の毎日新聞夕刊 - 2月7日:「富里空港設置反対抗議県民大集会」を千葉公園で開催。集会後に空港反対派1,500人のデモ隊が千葉県庁に集結し、普段であれば「空港反対」であるところ「友納やめろ」とシュプレヒコールをあげ、一部がプラカードや旗竿で玄関のガラスを破るなどして乱入。反対同盟代表との面会を求める小川国彦県議とデモ隊の退去を求める川上副知事とが押し問答をしたのち、代表20人が川上副知事に決議文を読み上げる。農民3人が逮捕される。うち1人は誤認逮捕[49][93][97]。同日、社会党の吉田忠三郎が衆議院本会議で4日の全日空機事故に触れ、羽田空港は「予算不足のために、窮屈な、無理な空港になっている」「継ぎはぎ式に拡張したため、スポットと整備施設の地域が滑走路で分断をされている」などと日本の空港の脆弱性を訴える。これに対し佐藤首相は「時代の要請にこたえるような空港でなければならない」と答弁[98]。
- 2月8日:社会党の井岡大治が衆議院本会議で4日の全日空機事故に触れ、東京上空の航空管制が非常に困難になっているとしたうえで「東京周辺に第二空港を設けるべきでない」と訴え、更に遠隔地での空港建設を主張。これに対し佐藤首相は「すでに狭隘を感じております羽田のかわりに、東京の近くに第二空港を設置することは、ただいまの事情から申しまして、最も必要な緊急を要する事柄だと思います。さような意味におきまして、まだ閣議決定はいたしておりませんけれども、第二空港を東京の近くに設置する、かような方針で進んでおります」と答弁[99]。佐藤栄作日記:「三時十分から衆議院本会議で、全日空の事故の緊急質問。本会議を終り、松尾日航社長から事情聴取。やはり小生の予想通り、専門家は操縦あやまりと云ふ[94]」
- 2月11日:社会党が佐藤首相に対し東京第二国際空港建設候補地として富里案撤回に関する申入れ[100]。
- 2月26日:自民党千葉県選出国会議員団と県議団が友納千葉県知事と協議、友納知事は「事態の推移を慎重に静観、注視する」と表明[84]。
- 2月28日:県議会開会冒頭、友納千葉県知事が地元無視の政府の態度に不満を示した上で、「こんご政府に対しても条件を提示を求めず。地元住民に対しても説得の態度をとらず。事態の推移を慎重に静観注視することにした」と態度表明[41][52][65][93]。
- 3月:自民党政務調査会交通部会(田邊圀男・長谷川峻・関谷勝利・江藤智・中馬辰猪)が秘密会談を行い、三里塚での空港建設の検討を始める[64]。
- 3月3日:閣議で、関係閣僚懇を「臨時新東京国際空港閣僚協議会」(関係閣僚協)に改組して体制を強化することを決定。関係閣僚協は大蔵・農林・運輸・労働・建設・自治の各大臣、総理府総務長官、官房長官で構成される。また、総務副長官・官房副長官・各事務次官からなる幹事会も設置される[40][41][92][101](s:臨時新東京国際空港閣僚協議会について)。
- 3月4日:カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故。佐藤栄作日記:「カナダ航空のDC8、香港からの帰途着陸前事故発生。羽田空港西端で炎上。乗客七十一、乗員七。大半六十は即死。生存者数名あるも、果して加療はきくか危ぶまれる。大変な濃霧で一旦引きかへす積りになったが、やゝ霧がうすれたので着陸し様〔ママ〕として防波堤に激突炎上したもの。全日空の事故に引つゞき一月後にこの事故。いずれも無理がたゝった模様で、民間航空としては念には念を入れる事が大事だ。全日空といゝ今度といゝ、一寸した無理が大事故を引き起こした原因だ[102]」
- 3月5日:社会党の野原覺が衆議院予算委員会で前日の事故に触れて「私どもの考えでは、どうしても東京の第二空港を急いでつくらなければならない、こう思うのであります。そこで、この第二空港をつくるに当たっては、与党も野党も党利党略を離れて、そして国民の各層、各界の学識者の見識に尋ねて、私どもは急いで、絶対に事故のない、構造の上からも欠点のない、立地条件からいっても問題のない、あるいは設備の点においても完成されたほんとうに飛行場としてはすばらしいものをつくらなければならぬ、これは急いでつくらなければならぬ」と述べたのに対し、佐藤首相が「第二空港設置の要、これはまことに緊切なものがございます」「第二空港、このことは日本の国家的な事業だ、かように考えておりますし、一佐藤内閣の問題ではない、国の基本的な国策として破り上げるべき問題」「これは超党派、各党の協力を得て、そしてぜひとも万全の空港を設立するように、さらに最善の努力を払っていくつもり」と応える[103]。同日、英国海外航空機空中分解事故が発生。佐藤栄作日記:「午前十時から予算委員会の総括しめくくり質問に入る。野原覚君が大変かげんをしながら質問を終わる[102]」
- 3月6日:事態の打開を図るため、友納千葉県知事と若狭運輸事務次官が水面下での交渉を開始[49][55][93]。佐藤栄作日記:「朝刊は一斉にBOACの事故を報ずる。今年に入って飛行機事故頻り。去年は国内炭鉱事故に手を焼いたが、今年は航空か。殊に昨日の事故は高空での分解事故で、衝突や接触もないのにこの惨事、誠にいたましい。航空事業は当分赤信号か。富里空港の装備〔ママ〕を急ぐ。又国際空港といはれる伊丹も不十分、整備を急ぐ[102]」
- 3月7日:佐藤栄作日記:「参院の予算委員会。第一陣は社会党佐多忠隆君。冒頭に関連質問でBOACの事故から富里空港へと発展。本質問はわずか二分なのに一時間余を費やす[102]」
- 3月9日:自民党内に「新空港建設推進本部」が設置され、初代本部会長に就任した綾部健太郎元運輸相が「空港問題がこのようにこじれた最大原因は政府方針が決まらなかった―ということにつきる。いまや、まちまちの意見を吐いているときではない。あいつぐ事故からも、新空港は急務である」と会見で力説[92]。第1回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設促進に関する件と羽田・伊丹の整備強化について話し合われる[104]。
- 3月10日:第1回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港の建設促進に関する件と羽田・伊丹の整備強化について話し合われる[104]。
- 3月11日:橋本官房長官が閣議で、富里新空港建設促進(関係閣僚協による補償策の早期決定、運輸省への推進本部設置による推進体制の整備)について発言し、承認を受ける[105]。自民党新東京国際空港推進本部が「閣議協の決定に拘らず富里案を基本的に検討する。富里以外の候補地も検討する」と表明。
- 3月13日:八街緒民議会が結成され、1000人が反対を決議。同日、富里をはじめとする5町村長会議が「白紙返上」声明[49]。
- 3月13日:佐々木更三社会党委員長が友納千葉県知事と会談し、「内陸反対」の党所信を表明[49]。
- 3月14日:佐藤栄作日記:「石坂、植村両氏は航空事業再編につき意見を求められる。よって中村運輸相を次官と共に招いて速進方ハッパをかける。綾部健太郎は富里問題、赤沢正道は人事局問題、木村武雄、三池信、塚原俊郎挨拶に[106]」
- 3月15日:富里・八街・山武・芝山・酒々井の5町村長会議が、空港の白紙返上声明書提出を決定[84]。
- 3月16日:第2回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設の促進について話し合われる[104]。
- 3月22日:第3回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設の促進について話し合われる[104]。
- 3月25日:佐藤栄作日記:「富里問題で副総才〔ママ〕と話合ふ[107]」
- 4月6日:社会党が東京第二国際空港の富里地区建設に関する申入れ。現地は不測の事態の発生が予想されるほど険悪な空気に包まれており、現地調査や参考人の意見聴取により事態の解決に当たるべきとした[108]。
- 4月7日:川島副総裁が河野密社会党副委員長と伊藤卯四郎民社党副委員長と面会し、「富里は空港には最適地ではある。しかし、空港問題は超党派で解決しなければならない。社会、民社の意見を尊重する。木更津、霞ヶ浦を再調査させよう」と約束。一方中村運輸相が福田赳夫大蔵相と富里空港の用地買収価格について談義[65]。
- 4月8日:日本共産党が佐藤首相に抗議文を提出し、富里新国際空港建設撤回を申し入れ。「(新空港建設は)アメリカ帝国主義と独占資本のための『国策』であって、けっして日本人民のための『国策』ではない」とした[109]。
- 4月14日:佐藤首相が木更津案の調査検討を了承[65]。
- 5月4日:富里・八街等の反対派婦人代表93人が友納千葉県知事に農地死守を宣言[49]。
- 5月13日:川島副総裁が「運輸省のやり方では新空港はつくれない。中村(運輸相)君は政治を知らない」として、富里案の撤回と羽田を拡張し木更津(埋立)と一体にする案を提唱[77][64]。
- 5月14日:川島副総裁が橋本官房長官に「富里案の推進を中止し、木更津案を再調査」することを申し入れ[84]。
- 5月16日:中華人民共和国で「中国共産党中央委員会通知」(五一六通知)が伝達される。(文化大革命開始)
- 5月18日:富里・八街空港反対同盟が農地不買運動(一坪マンモス登記運動)を開始する[39][41][55]。
- 5月29日:富里中学校体育館で新国際空港即時撤回総決起大会[58]。
- 6月1日:友納千葉県知事が川島副総裁と会談し、「富里には反対者が多く、規模を半分に縮小しても土地買収に五年はかかる」と申し入れる[65]。
- 6月2日:川島副総裁が自民党政調会交通部会で木更津沖案推進を強調。自民党空港問題協議会が木更津沖への空港建設促進の意見を出す。若狭運輸事務次官は「木更津に空港を作るなら、新空港がもう一つ必要である」と主張[77][65]。同日、空港公団総裁に内定していた運輸相経験者である、宮沢胤勇が急死[110]。
- 6月3日:三木武夫通産相が「木更津沖に建設するのはムリだ。富里の地元民を説得するのは不可能ではない」と述べる[65]。
- 6月7日:中村運輸相が「新空港問題は大詰めの段階を迎えたが、富里地区に建設されると思う」と発言[65]。
- 6月8日:千葉県空港調査室が「三里塚案」について検討[93]。
- 6月17日:自民党政調会交通部会が三里塚案を提示[83]。中村運輸相が川島副総裁と会見、木更津案は航空管制上の難点と都心から遠距離であるため不適と報告[77][49]。夕刻、川島副総裁が友納千葉県知事に経過説明[41][49]。友納知事が藤倉武男成田市長に三里塚案を自民党政務調査会交通部会のあっせん案として電話で伝える[77][110]。藤倉市長が同日夜に成田警察署長にこのことを伝える[111]。
- 6月18日:友納千葉県知事が藤倉成田市長及び小川重雄成田市議会議長と知事公舎で会談。2月26日に"政府に対しては条件を提示せず、地元住民に対しては説得の態度をとらず、事態の推移を慎重に静観する"と所信表明しあくまで"静観"の態度で公には中立的立場をとってきた友納知事は、「千葉県の将来を考えるとこの三里塚案に協力せざるを得ないのでどうか地元の市長さんとしても是非ご協力を願いたい」と、藤倉市長に対し協力を強く要請[110][111]。
- 6月21日:中村運輸相が記者会見で「新空港は富里・八街しかない」と発言[39][65]。自民党交通部会の田辺・長谷川両議員が佐藤首相に三里塚暫定案を進言し、「これいじょうのびれば佐藤内閣の威信にかかわる」と決断を求める[64]。川島副総裁が中村運輸相と協議し、「友納千葉県知事は地元の反対が強いので、反対派を納得させる努力をしてほしいとの意見である」と伝える[112]。
6月22日:午前、友納千葉県知事が知事公舎で川上副知事・高橋主幹らと県の態度を協議し、「三里塚御料牧場に暫定空港をつくることであれば、県として検討の余地がある」と首相に進言することを決める。富里・八街・菅野空港反対同盟の代表7人が友納知事・菅野儀作自民党県連幹事長と面会し、絶対反対を申し入れる[113]。午後3時、佐藤首相と友納知事が会見(橋本官房長官・川島副総裁も同席)。三里塚案が初めて公にされる。佐藤首相が面積を原案の2分の1に圧縮した宮内庁下総御料牧場等の国有地がある三里塚での空港建設案を提示[注釈 6]。佐藤首相は友納知事に「新空港は、三里塚の御料牧場と周辺の県有地を中心に、極力、民有地に係る面積を圧縮して建設したい」と協力要請し、これに対し再度十分な補償と対策を求める友納知事へ「純民間空港を作るというのは開闢以来の偉業であって、成田はすべての公共工事の前例としないで、政府の威信をかけ行う」と明言。会談後に開かれた会見で、友納知事は「富里の反対運動は、農地を取られたくない、住まいをよそに移したくない、というもので、これ以上はっきりしたものはない。だからこそ、これまでの運輸省の態度を責めたい」と述べる[49][92]。成田市新空港対策特別委員会が緊急開催され、伊能繁次郎議員から「(この案が自民党政調会交通部会で)突然出たことは遺憾だ」としながらも「最後にはつくらなければならないので反対しないでくれ」という要請があったことが報告され、対策委員会の立ち位置(県との中間に立ち有利な条件を引き出すか、或いは反対の立場を貫くか)等今後の方策が話し合われる[58]。佐藤栄作日記:「中村運輸相は富里空港の打合せに友納知事がくるので、その前に打合せに。友納知事と川島、橋本等と三里塚を中心にしての空港建設を相談する。今度は知事も腰をあげるか[115]」佐藤首相と友納知事の会談を写真付きで報じる1966年6月23日付の毎日新聞 - 6月23日:三里塚案が大々的に報道され、三里塚・芝山の地元住民の多くが三里塚案を初めて知る。同日、友納千葉県知事が自民党県連七役会に前日の総理要請について説明・相談、七役会は已むを得ないではないかと了承。若狭運輸事務次官が千葉県を訪ね、関係閣僚協幹事会のメンバーに副知事を加えることや県の要望を早急にまとめることを要請[49][58][111]。宇佐美毅宮内庁長官が「三里塚空港案についてはなんの連絡もなく、フに落ちない」と述べる[65]。佐藤栄作日記:「中村運輸相をよんで三里塚案の内容整備をはかる[116]」
- 6月24日:午前、友納千葉県知事が県選出国会議員団(水田三喜男・臼井荘一・小沢久太郎は欠席)・若狭事務次官と3時間会談。「この線で諒承すべきである」と結論。午後、成田市新空港対策特別委員会委員らが友納千葉県知事・高橋主幹に事情聴取。友納知事から、22日の佐藤首相との対談で「内陸に大規模の空港計画は不可能であり、民有農地を極力避け、最低の面積にとどむべきである」「空港建設は国が主体となり、県は協力斡旋し、国、県の意志統一がなければならない」「羽田空港も不足の自体を避けるため、新空港と並行して拡張を実施してほしい」「国の段階で各政党間の意志統一をすべきである」旨を要請し、同意を得られた旨を明かされる。友納知事は、「成田市の意向は十分に聴く」「県議会の以降を聴く」としたうえで、空港建設については、住民の生活に心配のない態度ができてから国の要請に応える旨を述べる[58][65]。
- 6月25日:友納千葉県知事が成田市役所を訪問し、藤倉成田市長に新空港建設の協力を要請。同日、藤倉市長による住民向け説明会が三里塚小学校で開かれたが、市長は理解と協力を求めるのみで、住民からの質問に応えることが出来ず、説明会は大荒れとなる[110]。吊し上げを食らった市役所関係者らが警察の警護を受けて脱出すると、会場に残った三里塚住民らが今後について話し合い、富里住民らの指導を受けて反対同盟結成を決める[111]。佐藤首相が参議院本会議で成田空港案を発表[65][117]。佐藤栄作日記:「参本 に出席。柳岡君から第二空港選定の経過につき緊急質問あり。丁度いい機会と思ふので、三里塚中心に空港を造るとPRする[118]」
- 6月27日:成田市役所で地元説明会が行われる[110]。三里塚空港反対青年同盟の約30人が成田市役所・農協を訪れ、空港反対を陳情[119]。第4回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港の建設の促進について話し合われる[104]。
6月28日:三里塚住民らが遠山中学校の旧学習院初等科正堂で「新国際空港反対総決起集会」[120] を開催し、三里塚新国際空港反対同盟が3千人の参加で結成される。三里塚の農機商店を営むクリスチャンの戸村一作を代表、木の根の小川明治と天神峰の石橋政次を副委員長とする[93][110][121]。三里塚住民らが決起集会を開いた、学習院初等科正堂 - 6月28日:認証官となった官房長官の認証式の為に参内した佐藤首相が下総御料牧場の栃木移転を昭和天皇に内奏[49]。同日、川上紀一千葉県副知事と若狭運輸事務次官が新空港設置計画前の最終会談を行い、伝統ある古村の取香・駒井野及び戸数が多い三里塚市街地が建設地から外される[110]。佐藤栄作日記:「三時から橋本君の認証式。内奏は単簡だが三里塚空港、国会(臨時国会)、台風等、御下問も多いので約一時間[122]」
- 6月29日:運輸省が三里塚での新空港設置計画を発表。千葉県との調整の結果として、空港建設予定地からは古村が外され、開拓村ばかりが対象となる。千葉県議会において、友納知事が政府が補償対策に誠意を尽くすことを条件に「三里塚案」の受け入れを表明。友納知事に対し、三里塚空港反対同盟80人が空港絶対反対の抗議文を手渡す。友納千葉県知事が定例県会議で「私は国家的要請とはいえ愛着の深い土地の提供を求められる地元住民の方々の団長の悲しみを思うとき、情において忍び難いものがあるが、国の最高責任者である総理が最終決断を下したものであり、政府が住民の補償対象に誠意をかたむけて万全を期するならば、この成田空港案は了承せざるをえないものと考える」と述べる[55][93][110][119][123]。
- 6月30日:芝山町農協主催で反対集会「三里塚空港設置粉砕全組合員大会」[120] が開かれ、芝山町空港反対同盟が結成される。シベリア抑留経験者で社会党との係わりが深く、森林組合の理事や農協役員を歴任している用地内農家[124]の瀬利誠を委員長、内田寛一を副委員長とする[93][110]。
- 6月30日:千葉県庁内の県民ホールで運輸省による公式の新空港説明会が開催される。運輸省からは若狭事務次官・手塚参事官ら、県側から友納知事・川上副知事、県会議員ら、地元市町からは成田市の藤倉市長・小関貢新空港特別委員長、芝山町の寺内元助芝山町長、この他に市議・町議、農協代表、関係区長ら100人が出席。若狭事務次官は質疑の中で三里塚空港について「首相が裁決を下し、各省庁もすでに建設に向かっているので、三里塚の変更は全くあり得ない」と回答。同日、三里塚空港反対同盟が藤倉市長に空港反対での善処を申し入れ。芝山町農協主催の「三里塚空港設置粉砕全組合員大会」が開催され、大会後に50人の抗議団が川上副知事に抗議[110][119]。
- 7月1日:芝山町議会議長が友納千葉県知事に絶対反対の陳情書を提出[119]。同日、成田市農協が「成田市農協空港反対期成同盟」を結成[125]。佐藤栄作日記:「成田努君をよんで空港公団を引きうけて貰ふ[126]」
- 7月2日:政府と千葉県が補償対策について合意し友納千葉県知事が正式に三里塚案を了承[55]。芝山町反対期成同盟90人と成田市農協組合員180人が川上副知事に対し反対陳情[119]。藤倉成田市長・新空港対策特別委員会委員らが地元住民ら約150人と話し合い。藤倉市長は「閣議決定しても地元が賛成しなければ賛成しない」と述べる[58]。
- 7月4日:佐藤栄作内閣が、新東京国際空港の建設予定地を千葉県成田市三里塚地区の宮内庁下総御料牧場付近に閣議決定。この日の閣議では、(1)新東京国際空港の位置を定める政令(2)新東京国際空港公団法の施行期日を定める政令(3)s:新東京国際空港の位置及び規模について(4)s:新東京国際空港の位置決定に伴う施策について が決定される[127]。開港目標は1971年4月とされ、「新東京国際空港の位置決定に伴う施策」では地元住民対策、道路・鉄道の整備計画などの政府の方針が打ち出される。地元住民対策を県の要望によって細かく閣議決定するのは極めて異例[40][55][81]。佐藤栄作日記:「鎌倉から一時間で帰京し、閣議に出席。日米経済会議の為、繰上げ閣議。これと云ふ問題はないが、過日第二空港の目はなもついて来たので、閣議決定と本格的に最終決定。然し米価は仲々難航。もちろん午前中ではきまらぬ。漸く三役一任をとりつけたが党との調整はあまり楽ではない様だ[128]」
- 7月4日:戸別訪問を行って市議らに反対決議案への署名を迫った住民ら1000人以上が庁舎を取り囲む中、成田市議会が「三里塚空港建設反対決議」を可決。これに反発した自民党県議らが与野党協議で議会最終日に提出することになっていた「三里塚空港建設促進決議」を千葉県議会で採決を強行して同日夜に可決させる。市議会内部でも「反対派の圧力に屈した決議はおかしい」との声が上がる[81][93][110][111][129]。第2回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港について話し合われる[104]。
- 7月5日:「新東京国際空港の位置を定める政令」公布(政令第240号)[40][41][130]。
- 7月6日:千葉県が企画部企画課空港係と国際空港調査室を設け、佐倉市の印旛支庁内に「国際空港相談所」を設置(13日に成田市の県農業改良普及事務所に移転して業務開始)[41][111][131]。成田土地改良事務所が増築され、「航空局成田分室」が設置される[111]。同日、「新東京国際空港公団法の施行期日を定める政令」(政令第243号)公布[40][41]。民主社会党が三里塚新空港建設反対に関する申し入れ[132]。
- 7月7日:新東京国際空港公団法施行[40]。現地説明会開始のため、第一陣となる運輸省の係官7人(黒澤明の映画になぞらえ、「七人の侍」と呼ばれる)が成田に到着する。中央官庁による地元説明は日本初[110]。
- 7月9日:運輸省による初の住民向け説明会が大栄中学校の講堂で行われる。500人が集まり、運輸省の係官が空港の必要性・規模・買収方法・騒音・代替地・離職者対策等の説明を行うが、説明後に前列に陣取った反対派農民らに「やろう、ぶっ殺せ」等とやじと罵声を浴びる。対象区域への説明会は年内いっぱい続けられたが、農協を中心として町ぐるみで反対運動を行う芝山町では実施できなかった[110]。
- 7月10日:三里塚公園で三里塚空港反対同盟及び芝山町空港反対同盟が主催する「新空港閣議決定粉砕総決起大会」が行われ、4000人(又は3000人[119])が集結する。三里塚地区と芝山町の反対派農民・住民が連合し、三里塚芝山連合空港反対同盟を事実上結成。三里塚の戸村一作が代表に就任。芝山反対同盟で委員長だった瀬利誠は副委員長に就任、副委員長であった内田寛一は軍隊での経験を買われて行動隊長に就任。事務局長に北原鉱治が充てられる。集会には「絶対反対」の鉢巻きを巻いた寺内芝山町長も参加し、参加者らから盛んな拍手を浴びる。用地内の民家325戸が加入(成田:298戸、芝山:27戸)。空港予定地周辺でデモが行われる[41][81][93][120][133]。
- 7月14日:佐藤栄作日記:「川島君やって来る。成田空港につき理事に一人町長を推薦。どんなものか[134]」
- 7月20日:芝山町議会が「成田空港建設に強く反対する決議」を可決[41][81][93][110][135][136]。
- 7月21日:三里塚空港反対同盟青年行動隊・芝山町空港反対同盟青年部員・戸村反対同盟代表が、態度表明を保留する藤倉成田市長に抗議[119]。
- 7月22日:友納千葉県知事・菅野儀作幹事長・藤倉市長以下成田市議らが知事公舎に集まり、自民党県連が会談。冒頭に菅野幹事長が「打ちとけてゆっくり話しあいたい。理想的な空港をつくり上げるのに自民党は責任がある」と挨拶し、成田市議らが地元の情勢や要望を伝える。これに対し友納知事は「空港敷地については市街地への影響を考え、周辺部落(三里塚・取香・駒井野・大清水・東三里塚等)をなんとかはずすように、今後も相当顧慮する」「(現状日本国内において)軍用基地以外は考慮されていない騒音対策についても考え、駒井野の前面にはターミナルを置くように配慮した」「三里塚部落を早く放棄する必要はなく、横風要滑走路ができてからでもよい」「移転者の代替地、代替地提供者へも格別の配慮を行う」としたうえで、「当事者に相談しないで決定したことは不満だと思う」「シルクコンビナートは知事が責任をもって処理する」など反対決議を出した成田市の立場に理解を示し、「市が仲立になって県・国と交渉して貰いたい」「思い切った決断をしていただきたい」と申し入れ[58]。
- 7月27日:県との間で折衝が続けていた地元要望を呑む意向を友納千葉県知事が示したこと等から、成田市空港対策委員会で自民党市議団が反対決議の撤回を強行採決[110]。
- 7月28日:千葉県農業開発公社が富里村の空港賛成地主と第一回の買収交渉を行う。友納千葉県知事が県議会で空港建設への積極的協力を表明[83]。佐藤栄作日記:「尚、中村運輸相から、空港公団の人事の相談をうける[137]」
- 7月29日:佐藤栄作日記:「閣議。空港公団の政令制定。然し人事は未決定。川島推薦の理事候補を了承せず未定明日へ持ち越す[137]」「夜、私宅に成田努、又引続き中村運輸相来り、空港公団人事を小生に訴へる。明日、川島と話合ふ事とする[137]」
- 7月30日:新東京国際空港公団 (以下、空港公団と表記) 設立。初代総裁に元愛知用水公団総裁の成田努が就任[注釈 7]。副総裁は元海上保安庁長官の今井栄文[41][55][81][93][110]。佐藤栄作日記:「九時すぎ、川島君に電話して空港公団人事を決定し、登記をすます。即ち問題の理事一人を空席としてその他を決定。その旨成田総才、中村運輸相に連絡する[137]」
- 8月2日:成田市議会が、7月4日の「建設反対決議」を白紙撤回。旧遠山地区選出議員6人は欠席。この際、藤倉成田市長は「市民の皆様方の立場を考えて将来不幸のないよう努力することこそが私に与えられた任務であります。いわば私の立場は市民の皆様方と国や県の間に立ってパイプ役を務めるのがただ今の私の立場であります」と表明。鎌などを持った反対同盟員約40人が議場への進入を図り、ヘルメットを装着した機動隊が出動して排除。成田警察署長に対し千葉県警本部長から「機動隊にヘルメットをかぶせての市役所内への出動は相手を刺激するのでケシカラン」との苦情の電話が入る[39][93][110][111][129]。
- 8月5日:そごうの9階で開かれた説明会で、空港公団が70万円から110万円の間で道路からの位置に応じて買取価格を決める「路線方式」を打ち出す。富里では自民党の山村新治郎らが「反当り一律100万円」と住民を説得していたといい、それを知る三里塚・芝山の住民からは賛同を得られず[138]。
- 8月15日:移転補償金の預金勧誘に来た銀行員らが木の根地区でつるし上げられる。警察は強要罪容疑で2人を検挙[125]。
- 8月16日:山本力蔵が空港公団理事に就任。山本は小見川町町長として活躍した地方自治のベテランであったが、川島副総裁の熱烈なオファーにより町長を辞しての着任であった[110]。
- 8月17日:現地視察に訪れた自民党県連空港対策委員会の井上裕・浜田幸一ら一行が、古込地区で反対同盟約150人に阻まれる。成田警察署の警告により進路が開けられ、一行は予定を一部変更して帰る[125]。
- 8月18日:空港公団が下総御料牧場の調査を開始[41]。
- 8月24日:条件賛成派(条件が折り合えば移転を了承する地権者)が北部林業事務所で会合を開いたところ、反対同盟員約300人が押し掛け、条件賛成派を引きずり出してつるし上げる。さらに駆け付けた空港相談所長のワイシャツを破き、報道関係者の車両のタイヤの空気を抜くなどする。当初警察は集団による暴力事件として断固検挙の方向で動いていたが、農民の心情を考慮し、戸村代表への厳重警告にとどめる。敷地内の一部住民に対し、空港相談所長が1町歩につき1町5反を補償するなどと語る[39][93][110][125][129]。
- 8月25日:前日の騒動で後戻りができなくなった条件賛成派が初めての条件賛成派組織である「成田空港対策部落協議会」(部落協)を結成、戦後開拓の兼業農家など131人が参加。代替地の配分権を有する千葉県はこれを歓迎し、部落協に希望する代替地を優先配分する。部落協の会長には成田市議の岩沢正春が就く[41][93][129][136]。
- 8月26日:第3回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港について話し合われる。幹事会に用地価格の基準について早急に検討するよう指示[104][139]。日本航空羽田空港墜落事故。混雑の合間を縫って訓練飛行が行なわれる羽田空港の実態が明らかとなる。佐藤栄作日記:「荒船運輸相に空港の事で各省連絡会議開催の要ある事を注意し、閣議後関係閣僚集る事とする[140]」
- 8月27日:反対同盟が「一坪共有化運動」を開始[41]。
- 8月29日:反対同盟が天神峰の2ヶ所を共有登記する[110]。第5回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われる[104]。
- 8月31日:三里塚空港反対同盟・芝山空港反対同盟800人が、閣議決定の撤回を求めて社会党の小川国彦県議・実川清之衆院議員並びに運輸省及び宮内庁に抗議・陳情行動を行う。成田警察署では事前に宮内庁訪問の情報を把握しておらず、宮内庁は予期せぬ陳情に動揺[119][125][141]。
- 9月2日:反対同盟が天神峰の一坪共有地に共有者の名前が書かれたクイを打ち込む。共有者には小川国彦・上野建一県議ら社会党議員も含まれる[142]。
- 9月3日:三里塚・芝山・大栄・多古の青年ら23人が友納千葉県知事への面会を求めるが叶わずに退去命令を出され、抗議文を読み上げて退去[119]。
- 9月12日:第6回関係閣僚協幹事会で新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われ、幹事会が報告した補償価格の目途を了承(畑10反当り:60万円から110万円)。関連公共事業の地元負担・税金軽減措置について引き続き幹事会で検討することを決定[104][136][139]。8月の部落協結成に対しては反対同盟員らは「見たこともない大金の札束を想像して脱落したのだ」と嘲笑っていたが、相場の4倍にもなる具体的な価格が出されたことにより反対同盟に深刻な分裂が生じ、この後新たな条件賛成派組織が各地で次々と誕生する[110]。一方、7月閣議決定の際には佐藤首相が友納千葉県知事に100万円を確約したとされ、部落協は更なる上積みを求めて交渉を継続する[142]。
- 9月10日:条件賛成派51人によって「成田市十余三地区騒音対策協議会」が発足[143]。
- 9月12日:第4回関係閣僚協が開催され、新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われる[104]。
- 9月17日:古込部落が総会を開き、今後条件闘争に切り替えることを決定[58]。
- 9月19日:条件賛成派24人によって「古込地区条件闘争連盟」が発足[125][136][143]。
- 9月28日:反対同盟が10月2日の総決起大会への参加を呼び掛けるビラを配布。ビラには「もし、この空港設置を許せば 周辺市町村は、騒音になやまされ、新しい道路や鉄道計画のため土地をとり上げられ、町並みも変わってしまい、資本のある大商人だけが進出し、二分に一機の割合でとび立つ大型ジェット機のため、横田や伊丹と同じように、夜もオチゝねていることもできず、子供の進学や乳児の発育にも影響の出るような町と化すでありましょう。そして現在の羽田のように、ベトナムの兵員輸送や軍需物資の輸送にも使われ「平和都市宣言」までした成田は、「基地の町」と変るでしょう。」との主張が掲載される[144]。
- 9月30日:空港公団が、地元住民に対する第1回説明会を開催[125]。土地買収価格が提示される(反当り:畑100万円、田110万円、山林原野85万円、宅地150万円)。しかし、同時に進められていた成田市街地付近での国道51号線拡幅工事での買収価格に比べて低いことから、条件賛成派組織との価格交渉が難航する[135]。
- 10月:社学同・社青同解放派・マル学同中核派が、全学連再建準備回結成大会を開催[83]。
- 10月2日[注釈 8]:三里塚・芝山の農民を中心とした4000人が、雨の中、成田市営グラウンドで「三里塚新国際空港撤回・公団撃退総決起大会」を開く[119][120]。社会党の代議士(淡谷悠蔵・加瀬完・小川国彦)や共産党幹部の袴田里見が出席[125][141]。
- 10月14日[注釈 9]:条件賛成派20人によって「成田国際空港桜台対策協議会」が発足。
- 10月18日:第7回関係閣僚協幹事会が開催され、新東京国際空港建設の早急なる推進措置について話し合われる[104]。
- 10月19日:空港相談所が住民調査票を配布。反対派幹部がこれを集めて焼却[125]。
- 10月27日:古込・天浪・木の根の3地区が成田市条件闘争連盟を発足[58]。
- 11月2日:成田市新空港対策特別委員会が条件賛成派の地元住民らと話し合いが非公式に行なわれ、代替地の早期買収・代替地の価格の提示・牧場用地120ヘクタールの確保で一致[58]。
- 11月4日:用地内農家への預金勧誘に来た銀行員への暴行のかどで、反対同盟員2人が逮捕される[83][147]。
- 11月5日[注釈 10]:「古込地区条件闘争連盟」に天浪・木の根地区の住民が合流した[143] 条件賛成派72人によって、「成田国際空港条件闘争連盟」が発足。同日、駒井野部落総会が「空港絶対反対決議の白紙還元」を決議。反対派が押し掛けて条件賛成派の1人を暴行し、2人(1人とも[147])が検挙される[83][125]。
- 11月7日:宮内庁が新御料牧場候補地に栃木県高根沢地区を要望[41]。
- 11月12日:共産主義労働者党結成[83]。
- 11月18日:藤倉市長以下、成田市の議員らが佐藤首相と会見し、地元要望を伝える。佐藤首相は「要望は最大限受け入れる。空港は佐藤がつくる」と勢威を示すが、空対委副委員長の小川源之助が進言した空港担当大臣をつくる案を一笑に付す[110]。
- 11月19日:佐藤栄作日記:「官邸で成田市長、富里、八街町長等と会って国策への協力を頼む[148]」
- 11月27日:江口榛一宅で戸村反対同盟代表と友納千葉県知事が会談[52][135]。
- 11月29日:社会党の佐々木委員長が現地入りし、反対同盟員らに対し「共有地運動を徹底的に進め、絶対に空港建設を阻止しよう」と佐藤政権への批判と絡めて激励。黒い霧事件で自民党との対決姿勢を強める社会党が、地元議員だけでなく党を挙げて反対運動を展開する姿勢を明確にする[85][93]。
- 12月1日:条件賛成派によって「駒井野空港対策協議会」が発足[143]。
- 12月3日:大橋武夫運輸相が就任。
- 12月5日:部落協に「成田国際空港桜台対策協議会」が合流[143]。
- 12月12日:大橋運輸相が、空港公団に「平行滑走路2本、横風用滑走路1本」の基本計画を空港公団に指示。開港目標を1971年春として、1970年度末までの工事完了、1973年度末までの完全空港化を定めた[149]。滑走路の位置が示されたことで、反対同盟がその予定地への団結小屋を作りに乗り出す。
- 12月13日:空港公団が、工事実施計画の認可を申請[125]。
- 12月16日:反対同盟が、天神峰にある石橋政次副委員長の所有地に最初の団結小屋を建設(天神峰現地闘争本部)[150]。以後、駒井野、天浪、東峰、木の根などに逐次建設。
- 12月17日:三派全学連再建大会[83]。
- 12月19日:空港公団の用地部と建設事務所が新庁舎での業務を開始。「七人の侍」は空港公団の重要ポストに就く[111]。三里塚住民総会が「三里塚住民の総べてがブルドーザの下敷に成ろうとも反対の決意を固めた事を今一度宣言する」とする声明文[58]。
- 12月27日:芝山町議会が、「富里案」時代の「空港設置反対決議」の白紙撤回を決議。反対同盟員約500人(300人とも)が傍聴し異議申し立てをしたが、機動隊が排除[135][149]。
1967年
[編集]- 1月3日:反対同盟(芝山町丸朝園芸組合)が、800人の同盟員と280台の自動車を動員して「成田空港反対自動車パレード」を1市3町で実施[125][151]。
- 1月4日:反対同盟が天神峰現地闘争本部で戦術協議、京成成田駅前で成田山新勝寺への初詣客らに一坪共有地運動への共有と資金カンパを呼びかけ[151]。
- 1月10日:航空法に基づき新空港工事実施認可の公聴会が千葉県庁で開かれる。会場は警察や職員らによる物々しい警備が行われ、傍聴券は先着順で150枚しか用意されておらず、反対同盟員360人[119] には配られず。反対同盟員らは場外のスピーカーから傍聴を行う。事前に口述書を提出した者の中から運輸省が選んだ36人による口述が行われ、芝山の農民が「血のにじむ思いで開拓してきた北総台地に代わる土地はない」と涙ながらに述べ、戸村代表が「農民から土地を奪うのは神を冒涜するものだ」と訴える。公述人の約半数は条件賛成派であり、「誠意がなければ土地を絶対に売らない」等との声も聞かれる。伍堂輝雄日本航空副社長が「新空港を造らないと日本は世界の田舎となる」と主張し、無条件賛成の立場を示す。空港建設で公聴会が行われるのは、伊丹空港拡張時に次いで戦後2例目[110]。
- 1月19日:反対同盟が天神峰団結小屋等を共有登記[83]。
- 1月20日:空港公団と条件賛成派(部落協)の懇談会が初めて開かれ、補償の条件等についての意見交換を行う[41][125]。
- 1月21日:反対同盟が、前年12月27日の反対決議撤回に賛成した芝山町議員16人に対するリコール署名簿を提出。全有権者(約5800人)の3分の1を上回る3000余の署名が集められ、リコール成立が確実視されたが、引き伸ばし工作により町議員の任期切れまで出直し選挙が行われなかった[83][152]。
- 1月23日:大橋運輸相が「新東京国際空港工事実施計画の認可申請」に対し認可[127][136]。遠山中学校で第31回衆議院議員総選挙の立会演説会が開かれ、空港反対派のヤジなどにより混乱する[125]。
- 1月29日:第31回衆議院議員総選挙で自民党が安定多数を維持し、佐藤政権が黒い霧解散を乗り切る。
- 2月:千葉県第2次総合5か年計画。新国際空港の建設と北総開発が計画に盛り込まれる[153]。
- 2月3日:施設配置のマスタープラン策定のため、有識者による空港公団総裁の諮問機関「空港計画委員会」が設立される[40]。
- 2月8日:芝山町で「リコール署名撤回」を呼びかけていた自民党県連の宣伝カーが一時反対同盟約100人に取り囲まれる[125]。
- 2月15日:反対同盟が御料牧場での測量を阻止、根木名地区代替地においても戸村反対同盟代表ら100人が県農業開発公社による測量を阻止[119]。
- 2月19日:安保破棄実行委員会が、富里の闘争小屋を移築し、4000メートル滑走路予定地北端に駒井野団結小屋を建設[125]。
- 2月24日:今井空港公団副総裁が「公団は今年中に13%の用地買収をしたい」と語り、反対派を刺激する[125]。反対同盟約800人が、千葉県の畑地灌漑試験場調査団を吊るし上げる[83]。
- 3月1日:4000メートル滑走路予定地中心に天浪団結小屋(共産党議員岩間正男名義)が建てられる[110][125]。
- 3月6日:条件交渉で先行する部落協に対抗するため、成田農協の呼びかけにより、古村を中心にした条件賛成派(成田空港条件闘争連盟・駒井野空港対策協議会・十余三地区騒音対策協議会・個人)ら120人が「成田空港対策地権者会」(地権者会、会長は農協組合長の神崎武夫)に組織を一本化し、「会員の生活再建方策及び相互に納得できる補償基準を確立」することを目指す[58][93][125][129][136][143]。100人以上が参加する地権者会の用地内所有面積は部落協のそれを上回るだけでなく、用地外に農地を所有する農民が多いことから、余裕をもって交渉ができる強力な組織となることを期待された。同日、成田市新空港対策特別委員が川上千葉県副知事と面接。川上副知事は「率直にいつて国は楽観視している。吾々はいましめている」「国にあたつても、地元住民から突上げられる」「(空港公団は)やることをやらないで測量のことばかり考えている」と状況を述べる。その他、小川国彦県議ら社会党に軟化の兆しがあることや、地権者協議会が反対団体に転じることを防ぐべく川島自民党副総裁に頼んで運輸相を動かして条件提示をさせることなどが話し合われる[58]。
- 3月7日:宮内庁が御料牧場の移転先を栃木県塩谷郡高根沢町に決定[41][125]。
- 3月13日:友納千葉県知事、大橋武夫運輸相に地元対策への協力要請。騒音対策など9項目を申し入れ[74]。
- 3月18日:富里村議会が、66年11月25日の「空港反対決議」を白紙撤回。これにより、行政単位の反対は皆無となる[41]。
- 3月19日:東関東自動車道建設のための測量をしていたアジア航空測量の測量員が無断立入であるとして反対派に一時連行される。同社課長が謝罪し、警察の注意を受ける[125]。
- 3月22日:ゴルフ場で補償調査をしていた空港公団職員らが反対派に包囲される。脱出を図った公団職員が運転する自動車に接触した反対同盟員が打撲などのけが。警察は一般の交通事故として扱う[125]。
- 3月27日:第8回関係閣僚協幹事会が開催される。空港問題の現況・騒音対策・関連公共事業の進捗状況が報告され、関連公共事業の今後の進め方と地元負担の措置・代替地についての税理上の問題等が検討される[154]。
- 3月29日:反対同盟約1000人が空港周辺道路起点測量会社の職員を同盟本部に連行[83]。
- 4月:産学共同の民間研究団体である航空政策研究会が、空港計画について、(1)敷地が狭く、特に、今後飛躍的に発展するであろう貨物をさばく能力がないこと(2)滑走路が三本しかないこと(3)東京-空港間の適切なアクセスがないこと 等を理由に、「このままでは新空港完成数年で、東京第三空港が必要となろう」と指摘[155]。
- 4月14日:空港公団が新御料牧場用地買収価格について栃木県等と打ち合わせ開始[41]。
- 4月15日:1967年東京都知事選挙で美濃部亮吉が当選し、東京都が革新自治体となる[156]。都知事に就任した美濃部は東京都におけるインフラ事業を次々と凍結し、羽田空港の拡張や成田新幹線の敷設にも影響を及ぼすこととなる[157][158]。
- 4月22日:反対同盟が、新東京国際空港工事実施計画認可処分取消請求の訴訟を提起[83][120]。
- 4月26日:空港公団が、千葉県知事に「事業準備のための立ち入り」を通知[83]。
- 4月27日:第9回関係閣僚協幹事会が開催される。空港問題の現況・騒音対策・関連公共事業の進捗状況が報告され、関連公共事業の今後の進め方と地元負担の措置・代替地についての税理上の問題等が検討される[154]。
- 4月28日:戸村代表が成田市会議員選挙に出馬し、4位当選[125]。第5回関係閣僚協が開催される。現地情勢と事業進捗状況・関連公共事業の進捗状況が報告され、関連公共事業の今後の進め方が検討される[154]。
- 5月4日:空港公団が友納千葉県知事に5月20日からの立入測量の実施を通告[110]。
- 5月5日:地権者会に空港公団が代替地について回答。配分された土地が部落協のものより条件が悪いため、地権者会は部落協への配分を白紙に戻したうえでの再配分を主張。
- 5月10日:友納千葉県知事が佐藤首相に地元対策への協力要請[74]。
- 5月11日:友納千葉県知事が、現地測量のための立ち入りに関する空港公団と条件賛成派団体の話し合いをあっせん[125]。
- 5月14日:成田空港公団総裁・今井副総裁が藤倉成田市長を表敬訪問し、立入測量への協力を要請[125]。
- 5月29日:自民党航空対策特別委員会(委員長、有田喜一)が、新東京国際空港建設促進のために内閣に推進本部を設けるべきとの意見をまとめ、佐藤首相へ申し入れる。内容としては、①内閣に推進本部を起き、関係各省に指示を行う②本部長には首相またはこれに代る国務大臣をあてる③同本部には各省から要員を派遣し、事務機構を整備する の3点で、同時に主管の運輸省には空港建設のための臨時機構を設置すべきとした[159]。
- 5月30日:芝山町選挙管理委員長及び委員3人が辞任、リコール審査が頓挫[119]。
- 6月2日:今井空港公団副総裁が成田市議会議員27人と会談し、空港建設についての協力を要請[125]。
- 6月19日:条件賛成派との懸案事項解消のため、川上千葉県副知事らがこの日から成田土地改良事務所(旧航空局成田分室)に滞在。この間に大清水の牧場が用地の提供を申し出たことにより地権者会の移転先の一部が確保されたことから、代替地配分の交渉がまとまる[110][125]。
- 6月21日:戸村反対同盟委員長ら約20人が、県成田土地改良事務所に常駐して地元折衝を行っている川上副知事に帰庁するよう抗議[119][125]。
- 6月26日:条件賛成派2団体との会談のために大橋運輸相が成田訪問[136]。成田空港問題が発生して以降初の政府関係者の現地入りであり、京成成田駅では入場券の販売を停止するなどの対策がとられたが、反対同盟や応援労働組合員らが宗吾参道駅から電車で京成成田駅ホームに進入してピケを張り、駅前でも社会党議員らがアジ演説をするなどして約800人による抗議行動が展開される。大橋運輸相の一行は駅に到着するなりデモ隊に取り囲まれたが、デモ隊に顔を知られていなかったために機動隊とデモ隊のもみ合いから抜け出すことができた。大橋運輸相は出迎えた友納千葉県知事らとともに駅長室に一時缶詰め状態となる。機動隊が駅前のデモ隊を排除している隙に大橋運輸相と友納知事は正面玄関のピケをかわして裏口から成田市役所に入り、部落協と地権者会のそれぞれと移転条件や立入測量の実施などについて会談する。席上、大橋運輸相が騒音区域内農地を空港敷地内同一条件で買収することを明らかにする[110][121][125][136]。
- 7月1日:高根沢町・芳賀町の代替御料牧場用地の買収交渉が解決[127]。
- 7月2日:朝日新聞の工作により、友納千葉県知事が戸村代表と会談。両者の対談は県民には驚きをもって受け止められるが、話し合い自体は物別れに終わる。
- 7月10日:多古町一鍬田新東京空港対策委員会が発足[41]。
- 7月21日:閣議決定により、関係閣僚協の構成員に厚生大臣・通産大臣・国家公安委員会委員長・首都圏整備委員会委員長・経済企画庁長官・新東京国際空港建設担当大臣が加えられ、関係閣僚協幹事会の構成員に警察庁長官・首都圏整備委員会事務局長・経済企画事務次官・厚生事務次官・通産事務次官が加えられ、東京国際空港建設担当大臣(実際には運輸大臣)を本部長とする「新東京国際空港建設実施本部」が設置される[39][101][127][154][160][161][162]。
- 7月25日:「新東京国際空港建設実施本部小委員会」が設置される[101]。
- 8月1日:公共用飛行場周辺における航空機騒音による障害の防止等に関する法律(騒防法)が公布される。空港公団が宮内庁と新御料牧場建設について覚書を締結[41]。
- 8月5日:反対派農家の子どもたち40人[141] による「少年行動隊」が結成される[83][110]。
- 8月7日:社会党県本部上役会が空港反対運動について協議し、現地闘争本部に県議らを常駐させることを決定[163]。
- 8月8日:米軍燃料輸送列車事故が発生。後に動労千葉が暫定輸送阻止闘争を行う際の根拠となる[164]。
- 8月11日:友納千葉県知事が「条件賛成派から立入測量の承諾を得た」と発表[165]。
- 8月12日:社会党が「空港反対現地闘争本部」を設置[165]、更に空港反対現地闘争委員長の設置を決定[163]。
- 8月14日:条件賛成派が外郭測量に同意[110][121]。
- 8月15日:空港反対同盟と三里塚国際空港反対千葉県共闘会議(社会党・共産党らの革新政党の共闘組織、県共闘)が「三里塚空港粉砕・強制測量実力阻止8.15平和集会」を千葉市内で共催し、約1000人が参加。反対派農民ら約300人が千葉県庁に座りこみ、少年行動隊隊長である北原鉱治の四男が知事あての抗議文を副知事らに読み上げる。初めての少年行動隊による反対運動参加であり、思考力に乏しい子供たちを反対運動に巻き込むことへの問題視等から県教育委員会が市町の教育委員会を通じて反対同盟に少年行動隊解散を要請したが、拒否される。この集会には労働組合や社共の国会議員ら1000人が集まり、参加者らは機動隊の排除を受けながらも座り込みを継続[110][129][136][141]。
- 8月15日:砂川町基地拡張反対同盟の宮岡政雄の紹介により、戸村代表と三派全学連の秋山勝行代表との会談が行われる。
- 8月16日:反対同盟が「あらゆる民主勢力との共闘」を確認(三派全学連の支援受け入れ)[39][141]。新左翼諸党派の支援が開始される。
- 8月19日:戸村反対同盟代表ら20人が小川国彦県議・木原実衆院議員の案内で運輸省を訪問。これに対し大橋運輸相は反対派が実力阻止を図るならこれを排除するより方法がないと回答し、物別れに終わる[119]。
- 8月21日:友納千葉県知事が土地収用法に基づく空港公団の事業準備のための土地立入測量通知を公告[39]。反対同盟は緊急役員会を開き測量阻止の方法について協議[141]。同日、婦人行動隊が結成される[83]。
- 8月23日:三派全学連が戸村代表に「できるだけ援助する」と連絡。3人の学生が連絡員として地元に泊まり込む。友納千葉県知事の私邸前で県共闘会議の代表ら60人が抗議行動[141]。
- 8月24日:社会党本部が「政府と空港反対派との話し合い」を提唱し[83]、社共両党の主導権争いが表面化[163]。一方、社会党県連は強硬姿勢を崩さず、県・公団が社会党に公団総裁との会談を申し入れたが、共闘会議が「社会党の姿勢に疑念を持たせかねない」としてこれを拒否[163]。同日、旅客ターミナルビル予定地に木の根団結小屋が立てられる[125]。
- 8月25日:共産党が古込地区の党員宅敷地に空港反対現地闘争本部を設置[120][125]。
- 8月27日:十余三地区で、「三里塚空港建設阻止大集会」が開かれ、日本労働組合総評議会・千葉県労働組合連合会など60団体600人が参加。反対同盟は外角測量に備え、内田寛一を長とする反対同盟連合行動隊を編成[110][125][141]。
- 8月30日:空港公団が三里塚地区の航空写真測量を開始[41]。
- 8月31日:反対同盟約300人が、運輸省・宮内省に集団陳情[83]。
- 9月1日:反対派の抗議行動等により、大橋運輸相が8月中に実施予定だった測量の延期を発表[110]。同日、三派全学連の秋山勝行委員長(中核派)が反対同盟の金曜集会で「ここに来るのが非常に遅かったと思っています。三里塚の闘う人々の決意を聞き、事態の緊迫を知って、全学連も全力で戦わなければならないと決意しています」と挨拶し反対同盟との共闘を約束(三派全学連の支援申し入れ)[83][135][142][166]。
- 9月:台風が接近し反対同盟の警戒が手薄になった隙をついて、空港公団が「基準杭」設置のための「基本杭」を打ち込み、外郭測量が開始される[167]。
- 9月11日:木の根地区(小川反対同盟副委員長宅)で婦人行動隊と忍草母の会が交流(三里塚空港粉砕・強制測量阻止9・11婦人のつどい[83])[168]。
- 9月15日:県共闘会議が「三里塚新空港粉砕、強制測量阻止九・一五総決起集会」を開催。敬老の日と合わせて60歳以上の反対同盟員男女からなる「老人行動隊」が結成され、菅沢一利隊長が「空港建設阻止は子孫のための義務。余生のすべてを反対運動にささげたい」と述べる。メンバーには皇室を啓愛する者が多く、「老い先短いのだから、ブルトーザーの下敷きになっても構わない」と機動隊などに対しても戦闘的であった。集会には三派全学連の学生ら35人も参加し、これに反対する共産党が「全学連の参加を認めるな」「学生帰れ」などとするアジビラを撒き、全学連受け入れを会議で決定した反対同盟幹部の反発を買う[110][125][141][142]。
- 9月18日:反対派が「実戦」を想定し、部隊配置や検問などの訓練を実施[110][125]。
- 9月25日:老人行動隊が芝山町で総決起集会を開催。
- 10月:空港公団が前年9月30日に提示した条件から宅地以外の買取価格を5万円ずつ値上げして再提示するが、条件賛成派との価格交渉が決裂。その後、千葉県から優遇を受けていた部落協は友納千葉県知事と交渉し、逆に千葉県から冷遇されていた地権者会は当月就任した今井空港公団総裁と直接交渉を開始する[135]。
- 10月1日:安保破棄実行委員会が東峰団結小屋を建設[83][125]。空港公団総裁の成田努が、辞表提出。成田は身内の経営する不動産会社への融資を空港公団債の引受幹事銀行である日本長期信用銀行に申し込んだことが公私混同として取り上げられており、佐藤首相は「而して懸案が一つ解決」と綴る[169]。
- 10月2日:成田空港公団総裁が辞職。空港公団にとって重要な時期での交代であり、事実上の更迭。辞表では「空港建設が進まないため」としていたが、実際には上述のスキャンダルが理由といわれる[110][170]。
- 10月3日:副総裁であった今井栄文が総裁に昇格する。副総裁の後任には翌月4日に山本力蔵が昇格する[41][110][170]。
- 10月4日:社会党・共産党の支援を受け、約800人がたいまつ行進。共産党の林百郎中央委員が「共産党は最後まで闘う」と挨拶[125]。
- 10月5日:未明から、反対同盟・オルグら1500人が天神峰・大清水で測量阻止の合同演習を実施[141][171]。午前7時過ぎから反対派約200人が空港公団成田分室に押しかけて座り込み。一部が宿直員の静止を振り切って乱入し、室内の什器・図面等を破壊[41][171]。岩山地区で反対派が町道に有刺鉄線などの障害物を設置(警察の警告により撤去)[125]。空港計画委員会が中間報告として「新東京国際空港計画基本方針」を空港公団総裁に答申。計画目標として、最終的には年間国際旅客1600万人、荷物120万トンを目標とするが、第一期公示では昭和51年度の予測を旅客540万人、荷物40万トンと見込み建設を行う、とする[40][172]。
- 10月6日:社会党の小川三男・淡谷悠蔵に率いられた老人行動隊・婦人行動隊の50人が貸し切りバスで上京。運輸省に押しかけて大橋運輸相との面会を求め団扇太鼓を鳴らすなどして抗議し、会議を抜け出して顔を見せた大橋大臣に対し、「政府は金で反対の地元市議会を買収した。なぜ成田を空港建設地に選んだか」と詰め寄る。大橋大臣は「地元議会を買収した事実はない」と答えるが、「バカヤロウ」「大臣やめろ」などと罵声を浴びせられる[141][173]。
- 10月8日:第一次羽田事件が発生し、新左翼党派による実力闘争が本格化する。事件には青年行動隊数人が参加しており、学生による実力闘争の様子が反対同盟に伝えられる[166]。
- 10月9日:南米の革命家チェ・ゲバラがボリビアで射殺される。
- 10月10日:空港公団が天神峰・十余三・駒井野の3か所で外郭測量のための基準杭の設置を早朝から開始。機動隊が現地投入される。約2000人の機動隊に反対同盟農民ら約1200人が座り込みなどで対抗し、三里塚現地で最初の実力闘争となる[125][170]。逮捕者2人(清宮亮芝山町議・実川義明社会党の千葉市議[174])、負傷者数十人、重傷1人。日本共産党の支援部隊は、衝突の最中に座り込みを解除して合唱を始めるとともに、農民に実力行使の中止を求める。これに対し農民は反発し、反対同盟農民が共産党と訣別するとともに反代々木系学生と提携して反対運動が過激化する直接の原因となる。機動隊の実力行使により農民らは排除され、1時間程度で空港公団が予定していた3本の杭が打たれる(測量クイ打ち阻止闘争)[110][175]。杭の警備にあたっていたガードマンが反対派に取り囲まれて暴行を受け、制服を破かれたうえにトランシーバーを奪われる。芝山町の反対派が抗議集会に向かう途中でクイを抜こうとして、コンクリートの一片が破壊される。その夜、反対同盟の一行が成田警察署に押し寄せて逮捕者の釈放や謝罪を求め抗議[125][176]。当日未明に記者会見で「外角測量は空港建設の第一歩としてどうしても必要なものだ。これでいよいよ建設に着手することになったが、これによって流血の惨事が起こらないよう願っている」と述べた友納千葉県知事は[177]、後日、小川国彦県議に「私が西郷隆盛、あなたが勝海舟になって、(江戸開城のように)この闘争を平和裏におさめることはできませんかね」と呼びかけるが、小川は「大変難しいですね」とだけ答え、物別れに終わる[165]。佐藤栄作日記:「出発の際の羽田事件は各紙筆を揃えて学生の行きすぎを非難し、社会党の声明もこの学生を応援しただけに、これ亦大変マイナス。今の処幸運にめぐまれたかたち。三里塚空港の実測も、羽田事件が我が方有利に働き、第一次を無事に終了[178]」
- 10月12日:白昼、小型トラック十数台に分乗した反対同盟員約80人が10日に空港公団が打った測量杭のうち2本をハンマーで破壊して持ち去る。その際に警備員や空港公団用地課長らが暴行されたうえ、警備員は芋袋に入れられて芝山千代田農協まで拉致され、「公団の仕事はやめるから命だけは助けてください」と命乞いすることを強いられる。現場を通りかかりカメラで撮影した一般女性らがフィルムを取り上げられる。杭への襲撃は深夜に行われると警戒していた空港公団と警備当局は裏をかかれた格好。県警本部長は「チャチなクイを打つのに大部隊を動員したのではない」と激昂し、14日に芝山町青年行動隊員2人が逮捕される[110][125][147][179][180]。残りの杭1本は駆けつけた機動隊によって守られた[179]。
- 10月16日:空港公団が再び杭打ちを行い、杭は1トンのセメントで固められる[125]。
- 10月17日:千葉中央署に小川三男・柳岡秋夫ら社共の国会議員・県会議員らを筆頭に戸村代表以下反対同盟が押しかけ、12日の暴力行為等で逮捕された2人の逮捕について抗議。警察隊員と揉み合いになり代表者10人と署長らが面会するが、物別れに終わる[125]。
- 10月19日:反対同盟員ら約400人による抗議が行われ、成田警察署の巡査と接触した反対同盟の女性が痛みを訴えて成田赤十字病院に入院。女性は特別公務員暴行陵虐罪で同巡査を千葉地方検察庁に告訴するが、診察では女性の持病によるものとされ、翌年不起訴処分となる。成田警察署長は逆に誣告罪での女性の告訴を主張するが、実施されず[125][174]。
- 10月21日:芝山町の条件賛成派7団体が「芝山町空港対策連絡会議地権者会」を結成[41]。
- 10月23日:空港公団が条件賛成派団体の成田空港部落対策協議会(部落協)・成田空港対策地権者会(地権者会)に条件提示(10アール当り:宅地150万円、田120万円、畑110万円、山林原野90万円)[41][174]。
- 10月27日:勝間田清一社会党委員長らが現地視察[174]。
- 11月3日:三派全学連の150人が初めて現地入りして三里塚第2公園[120] で開かれた県反戦青年委員会などが主催する集会に参加した後、空港予定地までデモ行進を行う。これをもって新左翼の介入が始まる。これに対して共産党が「トロツキストを入れるな」等とビラを撒くとともに新左翼との共闘を始めた反対同盟への批判を始める[135][174]。
- 11月10日:三里塚空港反対青年同盟が、新左翼との共闘を妨害する共産党県委員会に対する抗議声明[181]。
- 11月13日:外郭測量完了(基準杭16本)[174]。
- 11月14日:朝日新聞の仲介による座談会が開かれ、反対同盟の戸村委員長、瀬利・石橋両副委員長が大橋運輸相に抗議[58]。
- 11月15日:空港公団が計16本のくい打ちを行い、外郭測量の完了を発表[12]。
- 11月16日:早朝、大橋運輸相が現地視察[110]。戸村委員長らと会見し、協力を要請。
- 11月24日:反対同盟・青年同盟が、国鉄動力車労働組合千葉青年部・三派全学連の代表らとともに確認した基本的原則と闘争の姿勢について声明。支援団体と確認したのは、(1)労働者・学生が強い共闘の決意を持つ (2)ベトナム戦争と対峙するベトナム人民・アメリカ人民と連帯して闘争を展開する (3)如何なる行動においても現地反対同盟の同意のもとに共闘体制を整えることを約束する の3点[182]。
- 11月25日:中曽根康弘が運輸相就任。
- 11月29日:空港公団が地権者10人と初の用地買収契約を10月23日に提示した条件で締結(11月17日発表)。反対同盟からの突き上げ等を防ぐため、氏名は伏せられるが、中には反対同盟員や条件賛成派も含まれており、反対同盟はもとより個別交渉を禁じていた条件賛成派からも遺憾の声が聞かれた[41][85][135]。(→伊藤音次郎)
- 12月1日:新東京国際空港債権令[174]。
- 12月8日:駒井野地区で反対同盟が空港公団職員を暴行[83]。
- 12月10日:共産党現地闘争本部が反対同盟幹部を中傷[83][174]。県共闘会議主催の空港反対集会で戸村代表が共産党との共闘を断る旨を挨拶[163]。同日、社会党が大清水団結小屋を建設[125]。
- 12月15日:二十数回の役員会を経て[120]、反対同盟が日本共産党による支援と介入の排除を総会で決定、「今後共産党がこの様な態度を改めない限り、支援並に一切の介入は断固として排除するものである[58]」とする声明書を出す。10月10日のクイ打ち阻止闘争以降、共産党は戸村ら反対同盟幹部を名指しで批判するビラ撒き反対同盟切り崩しのオルグ活動を行っていたことから、反対同盟との決定的な決裂に至る。北原鉱治によれば、共産党オルグがゲバ棒で武装した150人の民青とともに三派全学連との共闘反対を訴えたが、血気にはやる反対同盟が鍬や鎌で叩きのめしたとしている[135][149][183]。
- 12月18日:朝、条件賛成派宅で補償について話し合いをしていた空港公団職員が反対派約200人に包囲され、両者の間で押し問答となる。解散を呼びかける警察に対して三里塚闘争で初めてとなる投石が行われ、取り残された公団職員と警察官1人が負傷[58][125]。
- 12月21日:第6回関係閣僚協が開催され、空港関連公共事業大綱『新東京国際空港関連事業計画について』(必要に応じ早期に実施・事業費に関する各省庁の結論を急ぐ・関連地方公共団体の実情を勘案し、所要の措置を講ずる)が定められる[83][135][139][154]。反対同盟が公団職員を暴行[83]。
- 12月25日:新御料牧場建設計画発表[41]。空港公団資本金5億円増資(30億円となる)[174]。
- 12月26日:反対同盟が、日本基督教団東京山手教会の牧師(日本宗教者平和会議理事)を招き、「闘う農民のクリスマス」集会を開催[58]。
- 12月27日:空港公団が下総御料牧場の代替地となる高根沢町で新牧場の建設を始める[136]。
1968年
[編集]- 1月:佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争
- 1月29日:東大医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入(東大紛争)。
- 1月末:テト攻勢。軍事的には北ベトナムの敗北であったが、米大使館占拠や南ベトナムによるベトコン処刑などの事態に世界が衝撃を受ける。
- 2月1日:空港公団分室に「生活設計相談所」が開設される[48][184]。
- 2月14日:芝山町議会選挙が行われ、反対同盟員の立候補者全員が当選するものの、かろうじて賛成派が過半数を維持。寺内町長は賛成派と反対派の板挟みとなる[135][184]。
- 2月26日:第1次成田デモ事件[83]。反対同盟・三派全学連・砂川基地拡張反対同盟が、成田市役所下にある成田市営グランド(現・栗山近隣公園)で「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止現地2.26総決起集会」[185] を共催。約1,000人が参加した全学連は市役所に併設されている空港公団分室への突入を図り、プラカードの板を外したゲバ棒や工事用の石を武器に、千葉県警機動隊と衝突。学生ら24人が凶器準備集合や公務執行妨害で逮捕されたほか[147]、戸村代表をはじめ155人の負傷者を出す。一方、警察では中核派の機関紙「前進」などから集会が暴徒化する兆候をつかんでいたものの、1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争で「過剰警備」を批判され、反対派側もこれを利用して「機動隊がくるからあのような騒動になったのだ」と喧伝したことから穏便な警備方針を打ち出さざるをえず、また動員された機動隊約3000人も主に普段交番勤務をしている警察官の寄せ集めであったため前日に急遽支給された大盾の取り扱いにも不慣れであった。学生らの攻勢は熾烈を極め、一時は学生らにとりつかれた指揮車にいた連隊指揮官の成田警察署長が指揮棒で応戦。警備側は716人が重軽傷を負う。うち学生にクロルピクリンを顔に投げつけられた警官1人が一時危篤となり、喉の切開手術を施され一命をとりとめる(その後この警官は職務復帰を果たすが、喉には手術痕が残る)。この混乱に乗じて反対派農民が空港公団分室に侵入して盗み出した空港の設計図面は、後の成田空港管制塔占拠事件での作戦立案に用いられる[135][186][187][188][189][190]。佐藤栄作日記:「昨日の成田空港での三派学生のデモは、警官の辛棒で、けが人は警官側で、逮捕者も十数名で一寸期待はづれ[191]」
- 2月27日:前日の集会後に反対同盟農家に宿泊した学生らが芝山農協前道路で無届の集会を開き、デモ行進。警察官らの多くが前日の事件で激昂していたため、再び衝突した場合には死傷者が出ることが懸念されていたが、学生らは成田市街地に突入することなくバス18台に分乗して帰京。同日、私服警官1人が反対派に一時拘束される[190]。佐藤栄作日記:「昨日の成田空港デモは、学生に対する批判の声多い。然し朝日(新聞)は相不変学生より。何としても朝日征伐にかからねばなるまい[191]」
- 3月3日:友納千葉県知事が成田赤十字病院に入院中の戸村代表を見舞う[135]。
- 3月5日:佐藤栄作日記:「(首相の指示を仰ぎに)蔵相と運輸、自治相の三人。成田空港の始末で金の問題[192]」
- 3月7日:成田市・市議会・市教育委員会など10団体が、反対同盟・全学連・反戦青年委員会に対し暴力行為の取りやめを要望[12]。
- 3月9日:翌日の反対派集会に参加予定の三派全学連による闘争に備え、警察は有刺鉄線などで市役所と空港公団分室を要塞化するとともに、「市民対策班」を設けて集会会場や市役所周辺に近づかないよう呼びかけ。成田市民らも住居等にデモ隊が侵入しないよう自衛のバリケードを構築。バス会社では、2月26日のデモで車両に被害が出たことや前日に発生した王子野戦病院反対デモが過激化したことを受けて、学生の成田への輸送をキャンセルする動きが広がる(運行を拒否するよう求めた警察からの要請に対し、東京陸運局は各社の自主判断に任せる方針をとっていた)。これまでの闘争で散々運賃を学生らに踏み倒されてきた国鉄は乗車券購入を呼びかけ[193]。バラストを投石に用いられることを防ぐため、京成線軌道には金網が張られる[194]。
- 3月10日:第2次成田デモ事件[83]。空港反対同盟と全国反戦青年委員会共催で「空港粉砕・ベトナム反戦総決起集会」を再び成田市営グランドで開催、総勢4500人が集結する。警察側では2月26日の集会で大きな被害を出したことから「違反行為者は断固として検挙する」と方針が出され、歴戦の警視庁機動隊を含む4700人の大警備陣が動員される。社会党は集会を指示して淡谷悠蔵・伊藤茂ら国会議員を含む「不当弾圧監視団」を、自民党は相川勝六を団長とする「治安監視議員団」をそれぞれ派遣[194]。集会後、機動隊と墓地に隠していた凶器等で武装したデモ隊が大規模衝突を起こす。機動隊はガス弾でもデモ隊を止められなかったが、3台の放水車から催涙剤入りの水を一斉に放出することで漸く沈静化させる。衝突後に反対派が解散集会を開いていたところ、機動隊5000人が違法集会として規制を開始。機動隊は反対派に対しガス弾を撃ち込んだうえで突入(規制開始までに学生や野次馬らに対し、拡声器による警告が複数回行われた)。ガス弾は野次馬(弁当や酒を持ち込んで見物に来ていたものが大勢いた)がいる場所にまで多数飛んで来るほど撃ち込まれ、風が止んで催涙ガスが滞留した会場は大混乱となる。徹底した規制により空港反対派は150人以上の逮捕者と1000人以上の負傷者を出す。機動隊の負傷者は453人[135]。また、この集会に附随してTBS成田事件が発生し、過激派に手を貸した形となったTBSが激しく糾弾される[186][195]。沈静化後に成田警察署長が機動隊一個大隊を引き連れて市街を行進し、鎮圧をアピール[190]。市役所庁舎の窓ガラスが破損したほか[147]、学生や野次馬によって店や住居を荒らされた周辺住民らからは怒りの声が上がる[196][197] 一方、旧成田町地区の区長らは「公団を他の適当な場所へ移転されたい」との要望書を出す[198]。また、交通に混乱を来したこの日の警察の厳重な検問に対して批判の声が上がったほか、社会党の木原実らは「警察側の実力行使は完全に警察権行使の行き過ぎ」などとして千葉県警警備本部長の免職要求を出す意向を示す。今井空港公団総裁は「反対派農民とも会って説得したい」「新空港をベトナムと結び付ける全学連の論法は根拠がなく成田市民に迷惑をかけているのは残念」とコメント[199]。佐藤栄作日記:「成田空港は統一(反対派と三派学生)デモ。警官隊もこれに備へ、昨日の王子病院反対デモに続いで〔ママ〕の多数の逮捕者を見る。学生のこの暴挙はなんとしてもおさめなくてはならない。逮捕で対抗する以外に手はない[200]」
- 3月12日:佐藤栄作日記:「九時から閣議。成田空港事件で活潑な意見がのべられ、破防法適用の方向で十四日の会合が期待される。十一時半から中共帰りの古井、田川の両君と川崎君の三名と会見。六者会談では福田、橋本の両君がおくれて加はり、成田事件に破防法適用の役員決議をした由。よって政府もその方向とする」「衆本を終へて、中曽根君と成田事件後の今日買収をすゝめる事。そのとおりとするとの事。後、相川勝六君と大坪保雄君の両名が破防法適用について強意見をのべる。適当にきゝおく[200]」
- 3月14日:佐藤栄作日記:「一寸ひまなので先づ中曽根君を呼んで破防法適用の話をすると、彼氏慎重論。尚、地下鉄問題を話しする。次に三木君を招致して成田事件、ドル防衛問題(以下略)[201]」
- 3月16日:藤倉成田市長が暴力行為の排除を求める声明を発表[12]。
- 3月20日:三里塚新国際空港設置反対中央共闘会議・県民共闘会議・反対同盟の共同で「三・二〇 三里塚空港粉砕成田集会」が開催される(成田市は市営グランド使用の申請を拒否[184])。中核派学生ら約80人が、交通事故の対処にあたろうとしていたパトカーと遭遇し、角材で襲撃。その様子を収録したフィルムを渡すことを拒んだフジテレビ報道部員が学生らに暴行される(被害届は無し)[147][190]。
- 3月26日:藤倉成田市長の働きかけにより、成田市民協議会が結成。「地元の反対同盟に対しては、暴徒全学連との提携を断つことを要請し、全学連に対しては、成田市民の祈願をもって三度目の暴挙を思いとどまるよう反省を促す」との趣意書が出され、30日までに5600人分の署名を集める[198]。
- 3月28日:3・28王子野戦病院闘争。
- 3月31日:第3次成田デモ事件[83]。反対同盟と新左翼運動が連帯した三度目の全国結集の大集会を開催。成田市営グランドの使用が禁止され、三里塚第2公園で開催。戸村代表が「私は皆さんに血を流すことをすすめようとは思わないが、ここまできてしまった以上、血を流さなければ空港建設は阻止できない」と演説。集会後、公団分室に向けてデモ行進。途中、警察官待機宿舎が襲撃され、中核派の旗が立てられる。デモコースから逸脱した学生集団は機動隊と衝突し放水を受けながらも警備用バリケードにとりつくが、長距離の移動で疲弊しており、待機していた警察部隊によって規制される。逮捕者235人、空港反対派に300人以上の負傷者を出す[190]。
- 春:今井空港公団総裁と直接価格交渉をしていた地権者会が要求を認めさせる。部落協と交渉していた友納千葉県知事が出し抜かれた格好[135]。
- 4月1日:代替地の農地造成工事着工[41]。佐藤栄作日記:「中曽根君は今朝の日向灘地震及成田空港買収の様子を報告に来る。前者は大地震の割に津波も大した事なく、陸上の被害も亦僅少。成田空港は坪最高百四〇万で条件派説得[202]」
- 4月6日:中曽根運輸・友納千葉県知事相立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体(成田空港対策部落協議会・成田空港対策地権者会・多古町一鍬田新東京国際空港対策委員会・芝山町空港対策連絡会議地権者会)との間で「用地売り渡しに関する覚書」(反当たりの価格は、畑:140万円、田:153万円、宅地200万円、山林原野115万円。)が取り交わされる[41][136]。これにより空港用地民有地の89%(597ヘクタール)が確保される。
- 4月9日:売却交渉のため空港敷地内に立ち入った日拓建設の職員2人が反対派に暴行される[147]。2・3月から発行されていた現地闘争本部機関紙『闘う駒井野』を改題し、『日刊三里塚』第一号が発行される[58]。
- 4月11日:3月10日のTBS成田事件での批判を受けてTBSが特番「成田二十四時」の放送を中止したことについて、反対同盟が抗議声明[203]。第7回関係閣僚協が開催される。用地買収経過・関連事業の進捗状況について報告がなされ、条件賛成派4団体の覚書について了承される[139][204]。
- 4月17日:空港敷地内の県有林の調査から戻る県職員3人が反対派に暴行される。1人逮捕[147]。
- 4月18日:老人行動隊118人が、御料牧場存続・空港公団への譲渡拒絶を宮内庁に請願[39][119]。同日、農協職員2人が空港敷地内で反対派に暴行される。1人逮捕[147]。
- 4月19日:機動隊150人が「交通整理」の名目で7月18日まで現地立ち入り。反対同盟パトロール隊が抗議[58][184]。
- 4月20日:空港公団による、土地売渡同意書提出者約300世帯の家屋立入り調査が開始される(通称「百日調査」)[41]。空港公団が延べ1619人を動員して行った58回に及ぶ[205] 調査は7月19日まで継続し、反対派は汚物を投げるなどして抵抗[186]。その間に農民ら6人が逮捕され、機動隊16人が負傷[135]。
- 4月21日:2月14日の公団職員への暴行の件で、警察が岩山地区の農民ら4人を逮捕。反対同盟員数十人が千葉県警に抗議。同日、反対同盟が一坪共有化運動の登記を完了[39][184]。
- 4月29日:共産党の斡旋を受けて進められていた日本山妙法寺大僧伽による三里塚平和塔の起工式が、東三里塚(当初は駒井野団結小屋の近くを建設地にする予定であったが、地権者の反対同盟員が難色を示し、共産党系農民の土地に変更された)で行われる[135][205]。
- 5月:フランス五月危機。
- 5月4日:木の根地区で反対同盟と機動隊・空港公団が衝突[184]。
- 5月5日:木の根地区で機動隊から分断された空港公団職員が反対同盟200人に引きずり出されて講義を受け、測量中止[184][206]。
- 5月6日:警官に守られながら、空港公団職員が木の根地区での測量を実施[206]。
- 5月7日:「五・七、三里塚闘争集会」が開催され、大清水地区の三叉路に社学同開放派が作った検問所を通りかかった自衛隊車両が襲撃される。警察は検問所で違法行為を続ける学生らの包囲・一斉検挙を図るが、手違いにより到着が遅れた部隊が出たため取り逃がしてしまう[83][207]。
- 5月12日:ボーリング調査に抗議していた青年行動隊員・島寛征が逮捕される(反対同盟は暴行のうえ手錠をかけられたと主張[58])。反対同盟や三多摩反戦青委・日中が成田警察署に大挙して押しかけ抗議活動を行う。警察側の主張によれば、天浪地先で覆面パトカーが学生らに角棒などで襲撃され、付近を捜索したところ、職務質問に黙秘を続ける学生風の不審者がいたので警察署に連行したものであったが、現場に居合わせた警官らの面通しでも確証が得られなかったため、島は即日釈放される。以後、警察のパトロールでは犯人特定用の着色液が携帯されるようになる[83][147][184][207]。
- 5月14日:4000メートル滑走路最南端の桜台入った空港公団に対し、反対同盟が動員をかけ、公団職員らは撤収[184]。
- 5月15日:反対派住民と学生350人が、天神峰地区で条件賛成派宅の立ち入り測量を実施していた公団職員や警備の機動隊に対しに投石、糞尿をかけるなど測量を妨害[83][184][206][207]。
- 5月27日:天神峰本部と駒井野への立ち入り測量に機動隊300人と私服刑事50人が動員され、抗議した反対派と衝突。逮捕者2人。負傷者2人(反対同盟員と学生)[184]。
- 5月29日:空港予定地周辺5市町村により、成田空港関連事業推進協議会が発足[12]。
- 6月:丸居幹一が航空局飛行場部長に就任[68][208]。
- 6月5日:木の根部落で、反対派農民300人が立ち入り測量の職員を蹴散らすが、機動隊150人との衝突で反対派2人が重傷を負う。駒井野団結小屋前で無届集会が行われ、警察部隊への投石が行われる[184][207]。
- 6月14日:空港公団職員が全員ヘルメットを着用して立ち入り測量に臨む[184]。
- 6月15日:再び、木の根部落への立ち入り測量で衝突。空港公団職員に対する投石や丸太での殴打などがあり、婦人行動隊員1人が逮捕される。反対派に8人の負傷者[147][184][207]。
- 6月19日:東峰地区での立ち入り調査に対し、反対同盟300人が投石などで妨害。機動隊300人が警棒で対抗[184]。
- 6月21日:神田カルチェ・ラタン闘争。
- 6月22日:空港公団が東峰地区で立ち入り調査を実施、公団職員や警察部隊に対して投石が行われる。反対同盟員にクロルピクリンの瓶を投げつけられた警察官1人が負傷。反対派農民1人が逮捕される[147][184][207]。
- 6月27日:東峰地区の麦畑で乱闘。反対派1人が逮捕され、反対同盟が千葉県警に抗議[184]。
- 6月30日:三里塚第二公園で「ボーリング・水準測量阻止」をスローガンに掲げる「三里塚空港粉砕全国総決起集会」が開催され、反対同盟・全学連・反戦青年委員会・労組など約2900人が参加。警察部隊との衝突は回避[12][58][184]。
- 7月2日:豪雨をついて空港公団が十余三地区での立ち入り測量を実施、機動隊500人と反対同盟500人が衝突[184]。
- 7月9日:佐藤栄作日記:「十時から経済月例報告。成田空港関係の実施案を督励する[209]」
- 7月11日:芝山町(4000メートル滑走路南端の桜台[184])で初めての公団立ち入り調査が行われ、反対同盟300人と衝突。投石により下請け労働者や警察官など4人が負傷[206]。空港公団職員への丸太などを使った暴行のかどで、反対同盟員2人と小川プロダクションのカメラマン2人が現行犯逮捕される[147][207]。
- 7月12日:芝山町千代田で立ち入り測量に対して、老人行動隊が初めて人糞を用いた抗議行動を行う。老人行動隊長が逮捕される[184][210]。
- 7月13日:横堀地区で反対同盟250人が空港公団職員ら44人を取り囲み、これを排除しようした警官に対して投石を行う[184][206]。
- 7月15日:横堀部落で、反対同盟の投石などの抵抗で、立ち入り測量の公団職員と機動隊が立ち往生する[184][210]。
- 7月17日:反対同盟が測量地点にバリケードを築いて、終日阻止行動を展開。逮捕者1人。巧妙に仕掛けられた有刺鉄線に引っかかる警察部隊員が続出したうえ、学生を追う機動隊が畑のスイカを割ったとし抗議を受ける[147][184][207][210]。
- 7月18日:空港公団が土地売渡同意書提出者家屋への立ち入り測量の終了を宣言(「百日調査」終了)[127][210]。空港公団が20億円の増資を受け、50億円の資本金となる[184]。
- 8月7日:空港計画委員会が、新東京国際空港の計画(第一期工事)について最終報告(予定より4ヶ月遅れ)。
- 8月9日:戸村反対同盟代表ら10人が中曽根運輸相に空港反対を申し入れるとともに現地視察を要求。中曽根運輸相は「適当な時期に現地に行きたい」と回答[119][186]。
- 8月20日:チェコスロバキア社会主義共和国の民主化運動「プラハの春」に対し、ワルシャワ条約機構軍が軍事介入。
- 9月:社会党の第31回全国大会が開かれ、過激派の暴力闘争に対する世論の非難を受け、以後いかなる闘争においても過激派とは共闘しない方針を表明。三里塚闘争に対しては一坪共有地の名義提供などに留め距離を置き始める[211]。
- 9月4日:日大紛争で警察官が殉職。以降警察は新左翼学生に対して断固とした処置をとるようになる。
- 10月11日:第8回関係閣僚協が開催され、空港建設の状況・地元負担問題について検討。関連事業の地元負担軽減のため財政援助措置を内容とする特別立法(成田財特法)を国会に提出することや、騒音区域内の土地を敷地内と同一価格で買収することを決定[139][204]。佐藤栄作日記:「成田空港整備の為、特例法を設ける事とした。水田蔵相には反対だった様だが、国家的事業なので関係自治体を補助するのは当然か[212]」
- 10月21日:新宿騒乱。
- 10月31日:公団職員3人が反対同盟員らにこん棒などで暴行される[147]。
- 11月18日:2月から3月にかけて行われた成田市内での機動隊との衝突で逮捕された支援学生ら33人の初公判が千葉地裁で開かれるが、ヘルメットを被った学生らが裁判所職員を振り切って法廷に突入し、ヘルメットを着用したままの傍聴や入り口でもみ合った職員からの謝罪を求めるなどして妨害。その後も妨害が続き、1977年7月29日に千葉地裁が判決を出すまでに9年を費やす[135]。
- 11月24日:反対同盟が「三里塚空港粉砕・ボーリング調査阻止全国総決起集会」を開催。それまでの最大規模の8千人が結集[210]。空港公団は「年内のボーリングと調査の工事開始は困難」と発表する。
- 11月30日:原田憲が運輸大臣就任。同日、新東京国際空港に係る事務の調整を原田に担当させることも決定[213]。
- 12月2日:空港公団が反対派に文書で用地買収協力を要請。以降、空港公団が直接接触困難な者に対して随時実施される[41]。
- 12月12日:京成電鉄が新空港線の認可を申請[85]。
- 12月19日:青年同盟員2人が立ち入り調査に来ていた公団職員を暴行。2人は同日夜に逮捕される[147][210]。
- 12月26日:空港計画委員会の最終報告を受け、空港公団は運輸省に対し新空港の工事実施計画変更の許可申請(1969年1月25日許可)[41]。
- 12月29日:反対同盟の300人が成田警察署に連日抗議行動を続け、19日逮捕の2人が釈放される[210]。
1969年
[編集]- 1月19日:東大安田講堂事件が終結。
- 2月5日:条件賛成派が警備会社及びショッピング・センターを設立。
- 2月9日:超大型旅客機「ボーイング747」(ジャンボジェット)の1号機が初飛行[214]。
- 2月28日:衆議院運輸委員会で、原田憲運輸相が社会党の小川三男議員からアメリカの軍用関係のチャーター機の使用について問われ、新空港であっても断ることはできないと答弁。その後で手塚良成航空局長が地位協定第五条第一項で米軍のこれらの飛行機の出入について断わることはできない建前になっているが、外交ルートでの申し入れは可能と答弁[215]。
- 3月2日:超音速旅客機「コンコルド」が初飛行[216]。
- 3月11日:反対同盟の要請を受けて空港問題の経過報告会(町議会が行った羽田・伊丹・福岡等空港の騒音視察の報告)が芝山町議会で開かれる。寺内芝山町長が400人の反対派に取り囲まれて罵詈雑言を浴びせられ、空港反対確認書に署名を強いられる。内容は、(1)町民の意思を尊重し、土地収用手続きである「町長告示」は行わない (2)(2月28日の)国会での大臣発言が事実なら空港建設に反対 (3)空港建設に伴う地元負担には耐えられないから反対 の3点。寺内町長は署名後に行方をくらます[135][217][218]。
- 3月14日:空港公団が土屋土地開発協議会と空港建設資材輸送専用線建設事業について合意(4月1日に用地賃貸借に係る協定を締結)[41]。
- 3月30日:反対同盟が「公団の『四月着工』声明粉砕・事業認定申請粉砕全国集会」を開催。1万2千人の結集。
- 3月31日:議会での混乱が続く中、寺内芝山町長の辞表が受理され、辞職が成立する[135][218]。宮内庁・関東財務局・空港公団が、下総御料牧場の一部と新設牧場の交換契約を締結[83]。
- 4月:千葉県警の人事再編があり、警察署長や機動隊隊長等の要職に機動隊経験者や実力者が据えられる[219]。
- 4月1日:航空局の新東京国際空港建設推進企画室が廃止され、「新東京国際空港課」が置かれる[41][127]。同日から15日まで成田市が「三里塚最後の花見まつり」を開催。市から完成図の描かれたパンフレットが配布され、京成電鉄の駅のホームに空港促進を訴えるポスターが掲載される。反対派は宣伝車でアジを行いビラを配るなどして対抗[220]。
- 4月21日:国鉄成田駅から土屋地先に至る約2.9キロメートルの資材輸送の専用鉄道工事が着工する[41]。
- 4月26日:寺内前町長の辞職に伴う芝山町長選挙が行われ、自民党芝山支部長で空港推進派の寺島孝一が反対同盟推薦の戸井正雄候補を273票差で破り、当選[135][218]。
- 7月2日:千葉県警本部に「空港対策委員会」、警務部警務課に「空港問題対策室」が発足[219]。
- 7月7日:三里塚平和塔が完成[135]。
- 7月16日:御料牧場の栃木県への移転が始まる[221]。
- 7月21日:アポロ11号が月面着陸。
- 8月3日:大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)が成立。実際の適用はなかったものの、施行後に紛争校の数は全国で激減。
- 8月8日:反対同盟が木の根団結小屋から共産党を追放[83]。
- 8月18日:御料牧場閉場式に反対同盟200人が抗議行動。「有終の美を飾らせてほしい」との牧場側の懇願を振り切って青年行動隊が乱入し、会場を破壊(総駿会館乱入事件[83])[129][135][221]。翌9月8日に青行隊8人が事後逮捕されるが、萩原進行動隊長の行方が知れず、萩原は全国指名手配となる。翌19日から新御料牧場への移転が開始される。同日、羽田空港での小型機の離着陸が禁止される[222]。
- 9月13日:今井空港公団総裁が、「残余の土地についても今後全力をあげて円満に取得するよう努める所存であるが、万一協議が不調となった場合は、本事業の遂行に重大な支障となる」として、土地収用法に基づく新東京国際空港建設事業の事業認定を建設大臣に申請[40][135][223][224]。
- 9月19日:空港公団がA滑走路と並行する工事用道路の入札を行い、鹿島建設と熊谷組が共同落札。一期工事の開始日とされる[41][142]。
- 9月20日:A滑走路工事が着工(完成は1973年4月30日)[41]。
- 9月28日:事業認定粉砕全国集会開催。1万3千人が結集。閉場式乱入で指名手配中となっている萩原進も姿を現すが、混乱を恐れた県警は逮捕を見合わせる[170]。
- 10月5日:反対同盟が、ボーリング調査阻止の連続闘争を11月12日まで展開する。
- 10月14日:成田警察署員が、閉場式乱入で指名手配中であった萩原進の宅にいた青行隊員・柳川秀夫を萩原と誤認して逮捕する。反対同盟100人が成田警察署で抗議行動を展開し穏便な対応を求めた小川国彦県議がつるし上げを食らう。成田署は、県警本部と協議のうえで、柳川を即日釈放とする[225]。なお警察は、柳川が本人確認に応じないなど故意に間違えられるように振舞っていたとして「反対同盟の罠にはまった」とコメントしている[170]。
- 10月21日:10.21国際反戦デー闘争。
- 10月24日:空港建設工事に初めてブルドーザーが投入される(工事用道路のための整地作業)[135]。
- 11月5日:大菩薩峠事件。
- 11月6日:萩原進が、自宅で農作業中に逮捕される[170]。
- 11月7日:運輸審議会が京成電鉄の空港線を承認、免許が交付される[85]。
- 11月12日:反対同盟が佐藤首相訪米阻止闘争に呼応して4000メートル滑走路工事用道路の建設現場で座り込み、ブルドーザーを阻止する。着工後初めての本格的妨害活動であり、反対同盟戸村代表ら13人が威力業務妨害で現行犯逮捕される。戸村、初の逮捕[135][142][223]。
- 11月14日:空港建設工事用のブルードーザー1台が時限式発火装置で放火され、他の2台もタンクから燃料を抜かれたり異物を混入される被害。三里塚闘争で初めての放火ゲリラ[85]。
- 11月17日:取香・駒井野地区の元地権者らが成田空港美整社を設立[226]。
- 11月21日:佐藤首相・ニクソン米大統領が沖縄返還の共同声明[222]。
- 12月1日:特定飛行場周辺の指定区域及び除外区域に関する告示[127]。
- 12月16日:坪川信三建設大臣が9月13日に空港公団が申請した土地収用法に基づく「事業認定」を承認し、告示される。なおこのとき、空港公団の申請ミスで滑走路両端のアプローチエリアが事業認定に含まれていなかった[149]。
- 12月20日:新御料牧場が完成[129]。
- 12月23日:空港公団が反対同盟の各農民に対し、「土地収用法に基づく事業認定が十二月十六日付で告示されましたが、この機会にぜひとも私共の気持ちをお汲み取り頂きまして、話し合いの機会をつくり貴重な土地をお譲りいただきたくお願い申し上げます」との手紙を送る。以降翌年1月14日までに計5回手紙が出される。農民からの回答・同意は無し[227]。
- 12月27日:沖縄返還などを追い風に第32回衆議院議員総選挙で自民党が大勝。
1970年代
[編集]1970年
[編集]- 1月2日:反対同盟が天浪地区にバリケードを構築[120][227]。
- 1月13日:反対同盟が木の根・駒井野両団結小屋にバリケードを構築[227]。
- 1月14日:橋本登美三郎が運輸相に就任。同日、新東京国際空港に係る事務の調整を橋本に担当させることも決定[228]。
- 1月15日:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」が三里塚第2公園[120] で開催され、7000人が集結する。以降、全学連は現地行動隊を組織して常駐するようになる。全国全共闘が「共闘集会」開催を打診するが、反対同盟は回答を保留[229]。
- 1月23日:代替御料牧場の宮内庁引き渡しが完了[127][223]。
- 2月18日:B滑走路予定地で石橋副委員長が母屋新築の上棟式を行う[120]。
- 2月19日:この日開始された土地収用法に基づく反対派農地への立入調査(「第一次立入調査」[127])に対抗し、反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む(翌日まで)[223]。「少年行動隊」に属する生徒らも同盟休校と称して学校を休んで参加し(16日に反対同盟が決議[83])、以降家族ぐるみの阻止闘争が実施される。県教育委員会が反対同盟に自粛を呼びかけるが、子供らは団結小屋に立てこもり気勢を上げる[135][230]。
- 2月22日:反対派が空港敷地内のボーリング作業場に侵入し、機械に放火[147]。
- 3月3日:空港公団が、千葉県収用委員会に対し第一次収用裁決(土地収用法に基づく権利取得裁決申請及び明渡裁決の申立て)を申請[127]。
- 3月13日:反対同盟が事業認定取消請求訴訟を千葉地裁に提起[83]。
- 3月15日:第1旅客ターミナルビル建設工事が着工する。同日、日本万国博覧会が始まる。
- 3月17日:新御料牧場の開場式[129]。
- 3月28日:新東京国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)と施行令が公布される[127][218]。
- 3月30日:成田財特法に基づき、政府が千葉県提出の空港周辺地域整備計画を「新東京国際空港周辺地域整備計画[231]」(現・成田国際空港周辺地域整備計画[232])として決定[127]。
- 3月31日-4月5日:よど号ハイジャック事件。
- 4月10日:天浪地区に公団新事務所が開設される[127][223]。
- 4月23日:旅客ターミナルビル建設工事が着工[39]。
- 4月28日:資材輸送専用鉄道が部分開通[41]。
- 5月14日:「第二次強制測量阻止闘争」(第二次立ち入り調査実施)[135][223]。
- 5月18日:全国新幹線鉄道整備法公布。
- 5月26日:空港建設促進の宣伝活動を行っていた山口組系右翼団体「防共挺身隊」が、現地に乗り付けたマイクロバスが反対派に空気銃で撃たれたとして、社会党系の団結小屋「三里塚空港反対中央共闘会議現地闘争本部」に殴り込む[233]。
- 5月27日:前日の右翼による襲撃について、現場に署員がいたにもかかわらず現行犯逮捕が行われなかったことや検問にもかかわらず右翼が角材を持ち込めたことなどから、反対同盟と社会党が成田警察署に抗議[234]。
- 6月12日:千葉県収用委員会が、千葉県総合運動場体育館で第一次収用裁決申請に係る公開審理を開始。この日開かれた第一回公開審理を反対同盟の1千人が傍聴、反対同盟顧問弁護士の葉山岳夫が審理そのものが違法だとして異議を唱えたところ発言を禁じられ、空港公団の課長が事業内容の説明を始めると怒った農民がマイクを引き倒すなど会場は混乱し、1時間で閉会[121]。少年行動隊も「同盟休校」参加しており、県教育長が「市町村教育委員会を通じて同盟休校させないように説得していたのに残念だ。子供を闘争の手段として使うことは絶対に許せない」と厳しく批判[135]。
- 6月18日:千葉県収用委員の飯田朝教授が再任辞退を表明、「収用委員をやっているというだけで、全国から手紙や電報が舞い込み、電話が夜中にかかってくる。まるで土地を奪う悪代官のような扱いだ」「これ以上、委員をつとめるのは苦しい」と述べる[235]。
- 6月23日:新日米安保条約第10条に定められた有効期間(10年)が経過。以降も条約は破棄されずに継続。
- 7月8日:エプロン工事が着工する[41]。
- 8月4日:誘導路建設工事が着工する[41]。
- 8月5日:用地交渉中の公団職員3人が暴行され、1人が重傷、車両大破[41][236]。
- 8月12日:羽田空港の発着回数が処理能力を超え、運輸省が(1)発着回数は1日460回を限度とする、(2)国内定期便を1日12便ないし14便ほど減便する、(3)厚木飛行場を許容される限り使用する、(4)臨時便及びチャーター便を制限する、(5)大阪、札幌、福岡発東京行き定期便についてフローコントロールを行う、(6)羽田空港が混雑しているときは名古屋空港に一時着陸して地上待機する、とした緊急指示を行う[40][41]。
- 8月16日:反対同盟が岩山小学校で集会を開き、(1)A滑走路南側アプローチエリアに位置し、事業認定から外れた岩山地区を闘争の最大拠点とする(2)収用委員会の公開審理を引き伸ばす(3)民家で唯一強制収用の対象となっている大木(小泉)よね宅に団結小屋を設ける ことを決め、徹底抗戦の闘争方針を打ち出す[129]。
- 8月17日:米軍との交渉の結果、全日本空輸の一部路線が、万博の影響もあって完全パンク状態となった羽田空港から厚木飛行場に移管される[237]。
- 8月26日:「第一次申請分」六筆の土地に収用委員会の現地調査が行われる。反対同盟が1千人で阻止闘争を展開。3人逮捕。1人が手錠をかけられたまま逃走する。
- 8月31日:資材輸送専用鉄道が全線開通[41]。
- 9月1日:千葉県収用委員会が第二回公開審理。審理の進め方の折衝が5時間にも長引く。漸く入場した農民らが椅子をもって壇上に詰めよろうするのを見た委員らが別室で協議するために退席。委員らが逃げると思った学生や青年行動隊らが取り囲んで殴る蹴るの暴行を加え、委員1人が肋骨を折る怪我[121]。結局、開会も宣言できずに終わる[135]。
- 9月2日:千葉県収用委員会が第三回公開審理。警察の警護下で開会を宣言するが反対同盟が審議に応じず、審理をせずに終わる[135]。
- 9月11日:空港公団委託の業者2人が横堀部落に入るが、現地農民が抗議行動を展開。
- 9月16日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が瀬利反対同盟副委員長宅を家宅捜査。
- 9月17日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が支援学生1人を誤認逮捕。
- 9月30日:この日から10月2日まで実施された第三次立入り調査に対抗し、「第三次強制測量阻止闘争」(のちに空港反対派は「三日戦争」と名づけた)が実施される。立入り調査の対象は125か所・78ヘクタールと大規模なもので[223]、反対同盟は、落とし穴・「白兵戦(竹槍等)」・「黄金爆弾(糞尿)」などを駆使して総動員で抵抗する。3日間の攻防で59人が逮捕される。反対派の抵抗で空港公団は312ヵ所の調査対象のうち4割弱しか実測ができず、残りは航空測量で済ませられた[135][142]。
- 10月7日:空港公団が用地取得に公共用地の取得に関する特別措置法を適用すると発表。
- 10月8日:空港管理ビル建設工事が着工する[41]。
- 10月22日:千葉県収用委員会が第四回公開審理。反対同盟は引き伸ばしを図って会場入りを遅らせたが、その間に空港公団が無人の席に向かって意見陳述を行う。午後4時頃に反対同盟が到着し審理が進んでいる事態に演壇に詰め寄ろうとしたが、閉会が宣言され委員らは退席[135]。
- 10月24日:千葉県収用委員会が第五回公開審理。反対同盟はボイコットし、空港公団による意見陳述のみで公開審理は結審扱いとなる[135]。
- 11月4日:空港公団が公共用地の取得に関する特別措置法に基づく特定公共事業の認定を根本龍太郎建設大臣に申請[85]。
- 11月25日:三島事件。
- 12月6日:「強制測量粉砕・全国住民運動総決起集会」が開催される。
- 12月19日:千葉港頭給油施設工事着工[41][48]。
- 12月25日:空港内給油施設工事着工[41]。
- 12月26日:千葉県収用委員会が「現地調査、審理等に見られた土地所有者および関係者の行動は、採決の遅延のみを図ることを目的とし、正常な意見を述べる意思を持たないものと認めるに至った」として審理を打ち切り、第一次収用裁決申請分(一坪共有地6か所・約1500平方メートル)に対し、翌年1月31日までに空港公団に明け渡すよう収用裁決(権利取得の時期及び明渡しの期限1971年1月31日)[149][223][238]。
- 12月28日:11月4日に出された空港公団の申請を受け、新空港の特定公共事業認定が告示される[85][127]。
1971年
[編集]- 1月6日:代執行に備え、反対同盟が強制収用対象地に「地下壕」を掘り始める[39][83][239]。
- 1月13日:反対同盟の小川明治副委員長が心筋梗塞で死去。15日に同盟葬が行われる。小川の遺言により、空港予定地内(天浪共同墓地)のコンクリートでできた幅約5メートル・高さ2.5メートル、厚さ約50センチメートルの墓に埋葬される[240]。
- 1月18日:昭和46年告示第17号により建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画が公示され、東北新幹線・上越新幹線とともに成田新幹線の基本計画が決定(東京~成田65km)[241]。
- 1月22日:翌日の友納千葉県知事との会談に応じるか否かで反対同盟の実行役員会が紛糾する。敷地内開拓農家が「知事に開拓の辛い思いを知って欲しい」と主張し、採決により会談の実施が僅差で決まる[242]。同日、佐藤首相が施政方針演説で「新幹線鉄道につきましては、山陽新幹線が四十七年春には岡山まで開通し、五十年には福岡まで全通いたします。東北、上越、成田の三線については四十六年度に着工いたします」「建設中の新東京国際空港は、(昭和)四十六年度中に供用を開始するとともに、関西新国際空港についても、すみやかに着工するよう目下調査を進めております」と述べる[243]。
- 1月23日:御料牧場事務所で友納千葉県知事と戸村反対同盟委員長が代執行問題について会談するが、論議が平行線のまま終わる。友納知事が代執行の実施の有無について明言しなかったため、友納知事からの再度の会談申し入れに対し、反対同盟は「空港建設を前提にしている以上、会談に応じる考えはない」として拒絶[152]。
- 1月29日:深夜・早朝の発着制限の地元要望を受けて、橋本運輸相がカーフュー(緊急時を除く午後11時から午前6時にかけての発着禁止)実施を友納千葉県知事に回答[244]。
- 1月31日:千葉市内で、全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に集会(三里塚空区空港建設反対、土地収用強制執行阻止、執行吏友納糾弾集会[83])が開かれ、知事公舎にデモ。ジグザグデモが行われ、警察官への体当たりや旗竿での暴行などで5人が逮捕される。負傷者多数。同日をもって、収用地が明け渡し期限を迎える[12][40][147]。
- 2月1日:空港公団が友納千葉県知事に対し行政代執行を要請[149][238]。
- 2月3日:空港公団が一期地区内用地について緊急採決を千葉県収用委員会に申請[127][245]。
- 2月11日:少年行動隊が、150人で「強制代執行の中止」を求めて公団分室にデモ。機動隊との衝突になり、少行隊員1人負傷。
- 2月14日:全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に、「強制代執行反対」を掲げて、再び知事公舎に向けて千葉市内をデモ。2千5百人が結集し、28人が逮捕。デモ隊20人余が負傷。
- 2月15日:友納千葉県知事が行政代執行の3週間以内の実施を発表。
- 2月15日:少年行動隊に所属する生徒85人がヘルメット姿で授業中の芝山中学校に押しかけてジグザグデモを行い校長室・放送室を占拠。他の生徒に呼びかけて校内集会を開くとともに、空港問題に対する態度を明確にしない教師陣に対し詰め寄る[135][246]。
- 2月18日:少年行動隊と教師陣が話し合いを行う[135]。
- 2月22日:6件6筆の建設予定地に対して第一次代執行が開始される。反対同盟と支援者3千人と機動隊が衝突。少年行動隊は「同盟休校」で闘争に参加。千葉地方裁判所は、反対同盟の代執行停止処分申し立てを却下する。
- 2月24日:少年行動隊80人が公団職員らと衝突。少年行動隊3人が負傷。午後に、ガードマンが少年行動隊に暴行を加えたほか、多数の負傷者が出る。公団分室のガードマンらが、空港公団への面会に遅参した社会党の木原実衆議院議員と三ッ松県会議員を背後に黒ヘルメットをかぶった学生集団がいたために反対派と誤認して排除、両議員は顔などを負傷する[247]。事態に激怒した野次馬を含む群衆が「代執行開始宣言」の横断幕を引きちぎり、公団分室に投石を行う[135]。
- 2月24日:航空灯火工事が着工する[41]。
- 2月25日:「駒井野砦」で反対派が集会中に、機動隊が突入。支援者49人が逮捕。その際に「地下壕」が落盤。農民1人が重傷を負う。この日の逮捕者141人。反対派の負傷者253人。5人が成田日赤病院に緊急搬送される。
- 2月26日:友納千葉県知事が、27日から3月1日までの代執行の停止を表明する。少年行動隊の生徒らが通う小中学校の校長らが砦を訪れるが、生徒らは闘争現場から離れることを拒絶。校長らは県と県警に生徒の安全確保を申し入れる[135]。
- 2月27日:代執行が一時中止される。空港公団が、騒防法に基づく学校等の騒音防止工事の助成を開始[41]。
- 3月1日:千葉県本会議で、小川国彦県議の質問に対し友納知事が「代執行につきましては明日から着手する方針でおります」と答弁。小川県議は「死人が出たら死刑執行人として責任をしょえばいいんだ」と発言し、登院停止2日間の処分を受ける[248]。
- 3月2日:代執行再開。機動隊が2千3百人に増強される。これに対し反対同盟と新左翼党派が対峙。事前に反対同盟が行っていた呼びかけに応じて集まった「野次馬」約3千人[注釈 11]が、中に紛れ込んだ支援学生らのアジテーションを受けつつ、投石を行ったり阻止線を作るなどして終始反対同盟側を支援。更にテレビ局が中継車を反対同盟の砦に横付けしたため、機動隊と空港公団はほぼ手を出せぬまま撤収する。同日、故小川明治副委員長の四十九日の慰霊祭が砦内でとり行われる。この日の逮捕者13人。反対派の負傷者20人。成田日赤病院への緊急搬送3人。
- 3月2日:過激派集団の実力闘争による反対運動に反対する住民らが「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」を結成[250]。同団体は共産党系の団体とされる[251]。
- 3月3日:機動隊が3000人に増強され、現場周辺の道路で「野次馬」を閉め出す検問を開始。土砂降りの雨の中の衝突となる。逮捕者19人。反対派の負傷者213人。この日から反対同盟から「壊し屋」と呼ばれた屈強な工事作業員による撤去作業が行われる。
- 3月4日:参議院予算委員会の質疑で自民党の八田一朗が今井空港公団総裁に一坪共有地に名義貸しをしている議員らの名前を読み上げさせる[252]。佐藤栄作日記:「(八田の持ち時間は)僅かに丗分だが成田空港問題で一坪地主の社会党の所有者の名前をよみ上げさせる。(八田は)一寸溜飲をさげた様子。然し社会党の諸君は不満として理事会にもち込む[253]」
- 3月5日:機動隊がさらに3千5百人に増強され、引き続き現場周辺の道路で「野次馬」対策の検問が実施される。この日から翌日にかけて、「野次馬」から隔離された現地で空港公団・機動隊側による強硬措置が行われるようになる。佐藤栄作日記:「(参議院予算委員会 で)十時から松本賢一君の昨日の残り十三分。然し社会党は昨日の八田君の質問で成田空港の一坪運動に干係する当議員並に前議員の名前を明にした事につき党内で議論あり、そうかといって八田君にも今井公団総裁にもかみつけず欠席。然しこの方も新聞の批判が怖く、遂に出席して今井総裁と質疑を重ね、段々と深みに落ち込み気の毒な状態。(中略)杉原一雄君。五〇分の内約丗分を残し加瀬完君に移り成功。空港問題、結局まづい質問で時間[253]」
- 3月6日:機動隊は高圧放水などで、「地下壕」を除き砦などの反対派拠点を撤去。千葉県は「地下壕」は対象外であるとして、「(第一次)代執行終了」を宣言。13日間の代執行で反対派の竹槍・投石・火炎瓶等による攻撃で警官・職員・作業員ら1171人が負傷し、反対派の逮捕者は468人にのぼる[135]。以降、反対派のゲリラ攻撃が活発化。佐藤栄作日記:「(参議院予算委員会 の)質疑も成田空港の兼でやゝあれ気味だったがこれで終了。尚成田空港は二時すぎ代執行として予定された部分を完了。然し尚収用に応ぜぬ部分もあるので、この際積極的に交渉を話し合いで進める要がある。運輸大臣に命ずる[253]」
- 3月7日:反対同盟が「緊急抗議集会」を1千5百人で開催。反対同盟は、「負傷者続出」の事態に友納千葉県知事、今井榮文空港公団総裁、本庄千葉県警本部長を告発することを決定する。十日間の第一次代執行期間で逮捕者461人、負傷者841人うち重傷43人。
- 3月8日:空港公団と機動隊が、現場判断でブルドーザーによる「地下壕」埋め立てを実施。一部が撤去され、8人を逮捕。
- 3月9日:反対同盟及び支援者は8日の撤去作業に法的根拠がないとして強く抗議。現場に駆けつけた山本力蔵空港公団副総裁・小川国彦県議[248] と反対同盟の間で交渉が持たれ、作業の中断・休戦・反対同盟による地下壕立て籠もるメンバーの説得を約した協定書が結ばれる。山本副総裁の「20分ほど農民を説得し、排除作業による危険の大きさを現場で確かめた。事務的な考え方だけでは通らない」との談話が新聞に掲載される[248]。
- 3月15日:芝山中で卒業式が開かれ校長が式辞で少年行動隊の生徒らに向け「三年間、空港問題で悩みが多かったろう」と語る。少年行動隊の生徒らは国歌斉唱や卒業証書授与での返事を拒絶し、無言で学び舎を去る[135]。
- 3月17日:千葉県収用委員会が緊急裁決対象地の現地調査を行う(三里塚平和塔・駒井野団結小屋・天浪団結小屋等)[39]。糞尿散布や投石など反対派による妨害が行われる[147]
- 3月18日:エプロン舗装工事着工[127]。
- 3月21日:反対同盟が「いかなる斡旋案も拒否する」と発表。
- 3月23日-24日:千葉県収用委員会の公開審理が行われる。学生らが会場に乱入してデモ行進を行い、反対同盟員らが事業説明をしている空港公団からマイクを取り上げるなどしたため、警察が複数回出動する。傍聴席から飛び降りて会場への侵入を図る学生を押しとどめる警備員について、社会党千葉市議会議員の市川福平が「(警察)署長……ガードマンの暴行を止めさせなさい」と繰り返し叫ぶ[254]。
- 3月24日:空港公団が、反対同盟が協定に反し「地下壕」の強化を行い、かつ再三の警告を無視したことを理由に、協定の破棄を戸村反対同盟代表に通知[135]。
- 3月25日:空港公団は機動隊4千人を動員し、ブルドーザーや大型ユンボを用いて8日に撤去しきれなかった頑丈な「地下壕」を撤去。代執行同様に警察が検問を実施したことに加えて、代執行での"敗北"が世間に印象づけられたことにより、反対同盟は代執行時のようなマスコミや「野次馬」の支援を得られず。反対派19人逮捕[255]。
- 3月28日:革マル派が、機動隊との攻防で負傷した者の救護に当たっていた「三里塚野戦病院」の車両を襲撃し、2人を負傷させる。
- 4月11日:1971年東京都知事選挙で「ストップ・ザ・サトウ」を掲げる美濃部が再選。
- 4月22日:成田空港問題の心労により倒れた藤倉成田市長が辞意表明[256]。
- 5月:航空局内に「東京国際空港拡張計画作成委員会」が設置され、羽田空港沖合展開(沖展)の調査が始まる[257]。
- 5月2日:駒井野団結小屋近くでパトロール中の警備員の車両を学生らが停止させ、更にその窓ガラスを割ったことを切っ掛けに、約200人の大乱闘が起きる。反対派に48人の負傷者を出し、うち17人が重傷を負う。止めに入った反対派農民1人が逮捕される。警備側の被害としては、警備員29人・機動隊員2人が負傷したほか、警備員の車両5台が破壊される。第一次代執行後は機動隊が現地に常駐しておらず、空港公団が配置した警備員が変わってパトロール等を実施していた[135][233]。
- 5月6日:空港公団が、「農民放送塔」(反対同盟が建てた高さ24メートルの櫓で、監視・連絡機能を有するだけでなく大音量のスピーカーで連日アジテーションを行い、空港建設作業を妨害していた)と反対派が掘り進めていた「地下壕」の撤去を求める仮処分を千葉地裁に申請[81][135]。
- 5月9日:未明、空港公団が買い取っていたゴルフ場のクラブハウスが火炎瓶襲撃で全焼。「農民の生活と権利を守る五・九三里塚大集会」が三里塚平和塔の前で開かれ、全国から96団体2500人が参加[135]。
- 5月12日:空港公団のミスでアプローチエリア(航空保安施設用地)が事業認定申請に含まれていないことに目を付けた反対同盟が、A滑走路南端から約1キロ離れた芝山町岩山地区に高さ30.74メートル(30.82メートルとも[39])の第一鉄塔を構築。航空機発着の障害物となる[135][233]。
- 5月20日:ボーイング2707の計画が中止される。
- 5月25日:千葉県警が反対派農民の大木よね宅を家宅捜索。
- 5月28日:藤倉市長の辞任に伴う成田市長選挙に出馬した長谷川録太郎の応援の為に成田を訪れていた、橋本登美三郎運輸相のもとへ反対派が押し掛け、戸村反対同盟委員長らが直談判を行ったが、会談は平行線のまま20分で終了。この中で橋本運輸相は戸村委員長に対し「空港用地内に土地を持っていない人とは話し合わない」と述べた[233]。
- 5月30日:成田市長選挙が行われ、保守系の長谷川録太郎が当選[256]。
- 5月31日:空港公団が日本道路公団と「東関東自動車道に係わるパイプラインの敷設及び管理に関する協定」を締結。
- 6月6日:「強制代執行土地収奪粉砕全国総決起集会」開催。
- 6月12日:千葉県収用委員会が、15件・3.21ヘクタールに対して期限を9月にした第二次収用の緊急裁決を下す[223]。三里塚平和塔は宗教施設として対象から外れる[135]。
- 6月17日:沖縄返還協定調印[83]。
- 7月5日:丹羽喬四郎が運輸大臣就任。同日、新東京国際空港に係る事務の調整を丹羽に担当させることも決定[258]。
- 7月10日:元地権者らが設立した成田空港警備会社が時限爆弾による攻撃を受け、近隣の民家も巻き添えを食う。けが人はなかったものの、三里塚闘争での初めての爆弾ゲリラであり、関係者の殺傷を目論む悪質なゲリラとして報じられる[81]。空港建設工事の飯場も放火される[147]。
- 7月15日:千葉地裁が空港公団による「妨害物(農民放送塔・地下壕)排除」の仮処分申請を認め、反対同盟申請の「占有権妨害禁止等仮処分」の申請を却下する[81][135]。
- 7月16日:ニクソン米大統領が中国訪問を予告。
- 7月26日:15日の千葉地裁認可に基づき、駒井野第16地点に建つ農民放送塔と地下壕への仮処分(敷地は買収済み[223])が開始される。青年行動隊と支援学生合同でのゲリラ活動が活発に行われ、午前3時には機動隊の車列を先導していたパトカーに農薬を転用した強力な爆弾や火炎瓶が投げつけられ、8時前に木の根地区でロードローラーが火炎瓶によって炎上させられ運転手が負傷、8時過ぎに労務者宿舎3棟が放火で全焼する[135]。午前4時55分に千葉地裁執行官が機動隊に守られながら執行通告し、撤去が開始される。なおこの時、「もっと近くで話せ」と反対派にヤジられた執行官が近寄ったところ、反対派が「黄金爆弾」を投げつけ、屎尿が直撃する。反対派はゲリラ戦法を用いるようになり、午後2時には県道の切通しで千葉県警機動隊の1個大隊が頭上から火炎瓶を集中的に浴び、即座に応援が向かって事なきを得たものの、警察は多数の負傷者を出したうえ犯行集団を1人も検挙できず[259]。立てこもる反対派が火炎瓶や石を投げるなど、30日までの5日間にわたる激しい衝突となる。逮捕者は北原事務局長を含む179人、反対派の負傷者が221人となる。農民放送塔は午後3時前にクレーンによって倒されて後に撤去されるが[81]、この日は地下壕に手をつけられないまま夜11時に「仮処分終了」が宣言される[135]。
- 7月27日:早朝5時30分から公団・機動隊が「地下壕」の撤去に着手。攻防で反対同盟の瀬利副委員長ら106人が逮捕、反対派の負傷者158人。
- 7月28日:炎天下で完全武装で警備する機動隊の中には熱射病で倒れる者も出始め、「地下壕」を一部残したまま作業が打ち切られる[135]。今井空港公団総裁が「執行は終わった。地下壕撤去作業は中止する」と記者会見で語る。この日の反対派の負傷者36人。
- 7月29日:反対同盟が「駒井野砦」で「地下壕戦110時間勝利集会」を開催。
- 7月30日:反対派拠点や各所の団結小屋に家宅捜索。抗議した秋葉哲反対同盟救援対策部長ら5人逮捕、400人が負傷。5日間の逮捕者は291人、警官の負傷者413人。地下壕の撤去が再開され、最後まで立て籠もっていた支援学生ら5人が突撃して機動隊に逮捕される[81]。反対同盟が半年の間人力で掘り進めた横穴は全長100メートルほどもあった[135]。
- 8月3日:「地下壕」に最後まで立て篭もっていた北原鉱治反対同盟事務局長、石井武反対同盟実行役員が令状逮捕される。
- 8月7日:成田警察署長官舎入口で黒色火薬を用いた手製の時限爆弾が爆発し、警視総監公舎玄関にも爆弾が仕掛けられているのが見つかる[81][135]。同日、7月30日の全日空機雫石衝突事故を受けて、中央交通安全対策会議が「航空安全緊急対策要綱」を決定。民間航路と自衛隊訓練空域の完全分離や民間機優先の方針が打ち出される[260][261]。
- 8月8日:千葉地裁のトイレでインク瓶に偽装し金属ナトリウムが詰められた爆弾が爆発する[81][135]。
- 8月14日-8月16日:天神峰にて屋外コンサート「日本幻野祭」が開催され、1000人以上が参加。主催は青年行動隊。出演は高柳昌行ニューディレクション・フォー・ジ・アーツ、落合俊トリオ、高木元輝トリオ、DEW、ブルース・クリエイション、阿部薫、頭脳警察、ロスト・アラーフ(灰野敬二)他。加藤登紀子が歌う武田節に合わせた婦人行動隊による踊りの披露、ゼロ次元によるパフォーマンスなど[129]。
- 8月16日:ニクソン・ショック。
- 8月18日:丹羽運輸相が反対同盟に会談を申し入れ。反対同盟は24日に拒否を表明[41][83]。
- 8月19日:空港公団が千葉港から空港までの航空燃料パイプライン輸送ルート(「水道道路ルート」)を公表[83]。本来パイプラインをその地下に埋めるはずの東関東自動車道が完成していないため、このルートでは市街地付近を経由する。これに対しルート沿いの千葉市内の団地住民らが強く反対し、建設工事が難航することとなる[129][262]。同日、山本公団副総裁が荒木和成千葉市長を訪問し、公式に協力要請[263]。空港公団は関係市町村・議会・住民にパイプライン敷設に係る説明会を実施し、協力要請を継続[55]。荒木の前任の宮内三朗とは、パイプライン建設について予め同意が得られていた[138]。
- 8月26日:国鉄湖北駅付近の無人踏切に消火器に偽装した爆弾が仕掛けられ、無差別テロの兆しが現れる[135]。
- 9月10日:千葉県警が駒井野団結小屋を家宅捜索するも、地下壕入り口がふさがれており全容をつかめず。鉄製櫓、セメント・鉄骨等の資材が押収される[135]。
- 9月11日:千葉県警が天浪団結小屋、芝山町内の支援学生拠点3ヵ所を捜索。作業所の裏山からTNTと書かれたポリ容器が発見される[135]。
- 9月13日:警察庁において、関東管区各警察本部長レベルが出席して第二次代執行の警備実施計画について会議が開かれ、千葉県警が出してきた計9000人を動員する計画に警察庁が難色を示し、3分の2の6400人に動員規模を削減される[264]。
- 9月15日:白昼の茨城大学付近で、翌日の第二次代執行阻止闘争に向かおうとしていた活動家を私服公安刑事が木刀で襲撃する事件が起きる。9月23日、活動家が私服刑事を告訴・告発[210]。
東峰十字路事件で殉職した福島警視の慰霊碑 - 9月16日:5件6筆の建設予定地に対し、第二次代執行が開始される。数百人の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃。神奈川県警から応援派遣されていた臨時編成の特別機動隊が潰走し、逃げ遅れた小隊長を含む隊員3人が火炎瓶による全身火傷・鉄パイプ等での殴打により殉職したほか、80人以上の隊員が重軽傷を負う(東峰十字路事件)。この日の逮捕者375人[142]。佐藤栄作日記:「後藤田国警本部長官は成田でおきた学生の警官殺害事件につき詳細報告。仝時に対策。困った連中。今の処殺害された者三名、重傷者数名あり。取締方法に付き研究を要する[265]」
- 9月16日:中村寅太国家公安委員長が東峰十字路事件について記者会見し、「過激派集団の行動は警察活動に対する公然たる挑戦であり、断固とした態度で対処する」と述べる[266]。
- 9月17日:千葉県警が、反対同盟戸村代表宅や各団結小屋などの反対派拠点並びに都内13ヶ所の党派事務所を「殺人、殺人未遂、公務執行妨害、凶器準備集合罪、爆発物取締法違反」の容疑で一斉に家宅捜索を行う。
- 9月19日:友納千葉県知事が報道陣に対し警備陣の疲れなどを理由に代執行を21日に延期すると発表。これを受け支援学生の主力部隊約3000人が帰京[135][267]。
- 9月20日:前日の友納千葉県知事の発表に反して、執行班が1000人の機動隊と伴に大木(小泉)よね宅を強制収用。友納知事の会見を受けて、支援者らが引き上げた所を急襲された形となり、よねは住居を撤去されたうえ、前歯を折る怪我。成田空港問題における個人住宅への強制代執行実施は、これが最初で最後となる。抗議した支援者ら90人が逮捕され、負傷者27人。形振り構わない行政の姿勢を目の当たりにした地権者の6,7割が闘争を断念して移転に応じることとなったが、闘争を継続する者に対しては逆に火に油を注ぐことになった[135][142][268][269]。佐藤栄作日記:「今日で成田空港建設の代執行は終了したが、両陛下の御渡欧も近付いてきたので、暴力学生に対して圧力を加へると共に、国民の協力を積極的に求める要あり[270]」
- 9月20日:青年行動隊が主導し、学生集団が大木よね宅への「騙し討ち」への報復として同日夜から翌日にかけて工事関係業者の飯場など20棟を火炎瓶で襲撃して回る[142]。
- 9月20日:第二次行政代執行が終了。代執行期間中の反対派ゲリラは23件、飯場28棟が焼かれ、工事作業員650人が焼け出される。更にダンプカー・ブルドーザー・警察車両等が焼き討ちされるなどして被害総額は3億円を超える。警察発表によれば、動員された機動隊は述べ2万2000人、反対派は1万2945人、逮捕者475人、警察官の死者3人・重軽傷者206人であった(反対派の負傷者は多数とのみ)[135]。
- 9月21日:「地下壕」に立て篭もっていた農民3人が機動隊によって排除され、うち農民1人が逮捕される。機動隊3千人が捜索中に遭遇した反対派支援者ら約60人を連行。その夜、大清水に設営された「野戦病院」に機動隊約100人が突入。深夜、機動隊約500人が環視する中、反対派による飯場への放火で焼け出されて激昂した工事作業員が、無人の千代田団結小屋「市民の家」を放火、全焼させる。
- 9月27日:反対同盟が、友納千葉県知事・川上副知事らを、9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関して「殺人未遂」で千葉地方検察庁に告発する。
- 9月28日:県空港騒音対策室が民家防音現地説明会を開催[263]。
- 秋:パイプライン建設について、荒木千葉市長が山本公団副総裁に「すでに今年の一月から市民の反対運動が起きて、コースの公開、安全の確認を求めてきている。それに対応するために、専門家による安全性調査委員会を作って検討させること。地元への利益還元ということで、消防署、公民館などを作る11億円の環境整備をくれないか。その金をぜひ(昭和)47年度予算に組み込みたい。さもないと、千葉市内11キロを公示する市道占有許可は出しづらい」と述べる[138]。
- 10月1日:青年行動隊員の中心メンバーであった三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきた者を憎む」と遺書を残して自殺[170][271]。
- 10月2日:戸村反対同盟代表らが友納千葉県知事・川上千葉県副知事を訪ね、「自殺者が出たのは代執行を強行した知事の責任だ」と抗議[170]。
- 10月14日:長谷川成田市長が、成田空港に米軍関係施設は一切設置しないよう丹羽運輸相に要望[12]。
- 10月18日:日石本館地下の郵便局で今井空港公団総裁宛の小包が爆発し、郵便局員1人が重傷を負う(土田・日石・ピース缶爆弾事件)[170]。
- 10月19日:三里塚小学校で初の防音校舎が完成する。
- 11月9日:芝山町の元地権者らが三栄メンテナンスを設立[272][273]。
- 11月14日:渋谷暴動事件。
- 11月15日:千葉市の特別委員会についてパイプライン建設についての結論を出そうとするも、学生20人がなだれ込み流会となる。学生は警察によって排除される[263]。
- 11月17日:建設中の東関道(富里-成田区間)で、橋脚にプロパンガスボンベを用いた爆弾が仕掛けられているのが見つかる。爆発は未然に防がれたものの、爆弾は橋脚を吹き飛ばすほどの威力を持っていた[170]。
- 12月1日:「新東京国際空港騒音対策委員会」が設置される[48][83][127]。
- 12月4日:パイプライン本格工事着工[83]。
- 12月8日:東峰十字路事件に関して、千葉県警の三警官殺害事件特別捜査本部が青年行動隊員ら11人を別件逮捕。以後、翌年9月まで青年行動隊員・三里塚高校生協議会(反対同盟の高校生グループ-三高協)・支援者らの連行が相次ぎ、延べ121人が逮捕される[149][263][274]。
1972年
[編集]- 1月8日:天浪共同墓地の移転契約が締結される[275]。
- 1月12日:A滑走路南側のローカライザー局舎が時限装置付き消火器爆弾で爆破される。空港の施設が爆破されたのは初めて。飛行検査妨害を目的としたゲリラであったが、影響は限定的で、飛行検査は予定通り行われる[240][263]。
- 1月13日:小川明治の遺体の改葬が行われる。天浪地区から遺体が移された後、予め遺族らと墓移転の契約書を結んでいた空港公団が、小川が納められていたコンクリートをバリケード・団結小屋ごと撤去[275]。空港公団は正規の補償額を上回る裏金を遺族らに渡していたという[274]。
- 1月14日:機動隊が守る千葉市議会特別委員会で、航空燃料輸送パイプライン埋設賛成が強行採決される。機動隊の導入は市議会始まって以来[138][262][263][276]。
- 1月15日:13日の撤去に協力した婦人行動隊副隊長であった女性を、反対同盟が糾弾[120]。戸村はこの女性を「現代のユダ」と罵り、自ら除名を言い渡した